続編「天明の選択」

第6話 潮時


薪を割り、束ねて小屋の脇に重ねておく。薪割は三郎の好きな作業だった。

単純な同じ動作を繰り返していると、じっとしているよりも頭の中の整理がつく。

源三も志乃も、三郎がいなくてもやっていける。信次郎と日菜の縁談がまとまれば、三郎がここにいる理由はない。

近いうちにここから出て行かなければならない。どこに行こうか。

考えているうちに苦笑した。

どこにも、行く場所などないのだ。

太陽が西に傾くと、いく分過ごしやすくなってくる。ひぐらしが遠くで鳴いているのを聞きながら、三郎は答えのない問いをぶつけるかのように、斧を振るった。

日が伸びて、思いのほか作業がはかどった。

「わあ。どうしたの? こんなにたくさん……」

珍しく村に行くと言っていた志乃が帰って来て、驚いた声をあげた。

「ああ。暇だったからやっといたけど……」

頭より高く積みあがった薪を見ながら、三郎はつぶやいた。

「ちょっと、多すぎたやろうか」

「そうね。三人で使うには多いわね。じゃあ、後でいくつか村に届けてあげてくれないかな。子どもの頃お世話になったおばさんが病気で、あると助かると思うから」

「ああ……」

「暇なら、休んでいればいいのに……」

くすくすと笑いながら、志乃が背負った風呂敷包みを下ろした。

「そのおばさんのところに見舞いに行っとったのか」

志乃が村に出ることは珍しい。積みあげられた薪を見上げる志乃に、三郎がたずねた。

「ちょっと用があったついでに寄ったの。後で薬と滋養のつくもの届けてあげよう。私が小さい頃、おっかさんの代わりにいろいろと面倒を見てくれた人なの。お勝手仕事も教えてくれたり……」

子どもの頃、病気の母親の代わりに手伝いをしなければならなかった辛い記憶だろうに、志乃は明るい声で言った。

「久しぶりにあったら、おばさん、年をとっていて驚いたなあ……。それもそうよね。私も年をとるはずだ……」

「何か、あったんか?」

「……」

薪の方を見ながら、ひとり言のように話し続ける志乃の背中に、三郎はたずねた。志乃はいつも、人の目を見て話す人だった。世話焼きで、人の心配ばかりして、どちらかと言うと自分のことを語る人ではなかった。

「……ちょっとね。太一とケンカしちゃって……」

振り返った志乃は、目を伏せたままそう言った。

「太一さんと……?」

そんなのはいつものことじゃないかと、言い出せないくらい志乃の表情には陰りがあった。

「……三郎」

志乃が顔を上げた。その時だった。

「……!」

大地が大きく揺れた。ガラリと音がして、積み上げた薪が崩れる。

「危ない!」

思わず志乃に駆け寄り、頭上に落ちてくる薪からかばった。しゃがみこむと、背中に大きな衝撃が走る。

「……三郎!」

腕の中の志乃が悲鳴のような声を上げる。

「大丈夫? 怪我はない?」

「ああ」

「バカね。私をかばうなんて」

志乃が立ち上がり、慌てた表情で三郎の顔や頭に怪我がないかを確認する。

「私は頑丈なんだから、かばってくれなくても、大丈夫なのに。どこも痛いところない?」

「何言ってんのや。わしの方が、志乃さんよりはちょっとばかり頑丈にできとるわ」

三郎はそう言って笑った。薪が落ちてきた背中や頭に少しの痛みがあったが、傷ができるほどではない。さらしを巻いているのもよかったのだろう。

「志乃さんは、人の心配ばっかりしすぎや。たまには守ってもらうことがあっても、罰はあたらんで」

そう言って志乃を見ると、志乃は驚いた顔をして、三郎を見返した。その瞳が潤む。

「志乃さん?」

「あ、そうね。……今まで守られたことなんて、ああ、一度だけあったかなあ。その時だけだから、慣れてないのね」

志乃が懐かしそうにほほ笑んだ。

「そうだ。三郎、こっちに来て」

志乃が風呂敷を手に家に入る。戸口から顔を出し、三郎を招き入れる。その瞳にはもう涙はなかった。

「これ、三郎に仕立てようと思って」

板間に腰かけて、風呂敷を解いた志乃が男物の反物を取り出した。

「わしに?」

「うん。この間炭を売って来てもらったでしょう? そのお金で買ったの。いつまでも、太一の着物を借りているのも悪いし……」

「あれは、志乃さんに使こうてもらおうと思うたんや。わしの物を買ってどうすんのや」

「私の着物は足りているもの。ないのは三郎のでしょう?」

「せやかて……」

三郎の胸にさざ波のような不安が押し寄せてくる。

「ねえ、三郎。このままここで一緒に暮らさない?」

志乃がまっすぐに三郎を見上げる。

「え?」

「もし、三郎がこのまま記憶を思い出さなくて、行く場所もなければ、ずっとここで炭や薬を作って暮らすのはどう?」

「わしがここにいた方が、太一さんがあんたぁのことを諦められて、ええってことか」

「……」

三郎が問い返すと、志乃の瞳が左右に揺れた。

「太一は関係ない」

「せやけど……」

「太一には、私の気持ちはわからないわ。生まれた時から、周りに大事にされることが当たり前だと思っているあの子には……」

志乃の声が強張る。暗い影がさす瞳は、関係ないとはとても思えなかった。

「でも、三郎は違うでしょう? ひとりで生きてきたんだろうし、たぶん、これからも生きていける人……。そういう人となら、私一緒に暮らしたいと思ったの」

「……」

「あ、でも、別に私と夫婦になれって言っているわけじゃないのよ。三郎より私の方がだいぶ年上だし……。そう、私の弟として暮らして、お嫁さんをもらってもいいし……。助け合って暮らしていければって」

志乃が急に冗舌になって言い訳をするように言った。

「……ちょっと、考えさせてくれんか」

他に言葉が見つからず、三郎はそう言った。

「うん、もちろん。よく考えてくれればいいわ」

「外の薪、片付けてくる。調子にのって積みすぎて悪かったなあ」

「お願い。そう言えば、最近地震が多くて嫌になるわね」

三郎が家の外に向かうと、志乃も立ち上がって台所に向かう。気持ちを切り替えたように忙しく動き回っている。

「……」

外に出ると、太陽が沈みかけていた。崩れた薪を片付けながら、三郎はため息を吐いた。

潮時だ。居心地がよくて、つい長くここに過ごしてしまった。辛い別れになる前に、ここから立ち去らなければならなかったのに。

胸の高さまで積んで、余った薪は木陰に移した。

ふと視線を感じて振り向くと、男の後ろ姿が見えた。太一のように見えたが、志乃に会いに来たわけでもなく、今来た道を下って行く。

「何がケンカの原因だったんやろうな」

三郎は見えなくなった背中に向かってつぶやいた。

地震は断続的に続いた。大地が怒っているように時々揺れる。それどころか、灰色の細かな粉のようなものが落ちて来ることもある。

炭焼きの粗末な小屋はその度にわさわさときしんだ。

「またか。よく揺れるなあ」

三郎が生きてきた長い月日の中でも、大きな地震は時々あった。大雨も、大雪も、雷も、洪水も、山崩れも、様々な自然の力による災害と、それに飲み込まれて亡くなる人たちをたくさん見てきた。

けれど、今回の大地の揺れは、いつもの地震とはどこか違うような気がしていた。

「二月前も大きな揺れがあったが、こんなに続くことは滅多にねえなあ」

鎌の刃を砥石でとぐ手を止めて、源三が言った。肉体労働をやめ、志乃の作った滋養のいい料理のせいか、膝の痛みも治まり、顔色もよくなったように見える。

「三郎」

「へえ」

「おめえ、今晩から下の家で寝起きをしてくれ」

「え? でも……」

志乃とふたりでいるのは気まずかった。あれから満足に話をしていない。

「夜地震が来た時に、志乃がひとりじゃ心配だ」

「それなら、爺さんだって」

「おれはこの年だ。いつ死んだって後悔はねえ。それに、下に三人じゃ狭いだんべ。いざって時は、志乃を守ってやってくれ」

源三がそう言って、再び鎌の刃に視線を落とす。

「……源三爺さん」

三郎は、重い口を開いた。

「それはできん。わしは、そろそろ出て行こうかと思ってるんや」

「へえ……」

源三が顔を上げて、三郎を見た。長く生きた人間特有の、見えているのかわからない瞳。それでいて、胸の奥底まで見透かされているようにも感じる。

そう言えば、こんな瞳で見つめられたことが過去にもあった。

「そりゃあ、急に、どうしたんだ?」

「ずっと考えていたことや。助けてもろうて、世話になって感謝しとる。ええ人たちと一緒に、居心地がよくて長居をしてしもうた。けど、わしはここにいるべき人間やないんや」

「おめえが年をとらねえからか?」

「……」

源三の言った言葉に、三郎の全身の血の気がさあっと引いた。

「あんた、何でそれを……?」

思わず問い返した声がかすれる。この人は知っていたのか。三郎が不老不死だということを。知っていながら知らないふりをして一緒に暮らしていたのか。

思えば、源三が三郎をかばう物言いをしたことがたくさんあった。ケガが軽いと印象づけたのも。雁ケ沢から飛び降りても死なない忍びがいたことも。背中の傷の治療をあたかも自分がしているようなことを言ったもの……。

「わしを覚えてねえか?」

皺がよった目尻を下げ、源三がたずねた。

「え?」

長い長い記憶を探る。いつだ。どの時代だ。

源三は読み書きができた。しっかりと教養のある人物に教わった筆跡。ここで、ずっと炭を作っていた人生だけではないと感じてはいた。

「覚えてなくとも、仕方ねえな。五十年、いや六十年は経つか。わしは、まだほんのボウズだった。大雨の日、吾妻川で流されたのを助けてもらったことがあったろう」

「……あ。牛岩に引っかかっていたあのボウズか」

つい最近信次郎から聞いた内容がなければ忘れていたかもしれない。日菜がうれしそうに語ったという、牛岩が流された子どもを助けた武勇伝。大雨の日、牛岩に引っかかって今にも流されそうな少年を川岸に届けたことがあった。

「そうだ。あの日は、本当に最悪の一日だった。わしは、これでも裕福な家の子でな。それなりに苦労はしない子ども時代だった。あの大雨の日に、夜盗に襲われ両親は殺された。家中の金とふたつ年上の器量よしの姉が夜盗に奪われ、わしは姉を追った。『姉ちゃんを放せ』ってな。大人相手にくってかかって、生きたまま川に投げ捨てられたんだ」

そういう事件があったことは、辛うじて記憶にあった。屋敷は火を点けられ、焼け跡から夫婦の遺体。娘と息子は行方不明となった。夜盗は捕まらないまま月日が流れた。

「たまたまひっかかった大きな岩にわしは必死でしがみついた。でも、もう手の力もなく、だめだと思った瞬間、若い男に助けられた。川岸に引き上げられた時、男は肩に怪我をしていた。おそらく濁流で流された塀か何かがあたったんだろう。『大丈夫か』と聞くと、男は『平気や』と言って血をぬぐった。その時には、傷はもうすっかり治っていた」

「……そんな昔のこと、よう覚えてはるなあ」

「あの日のことは忘れられん。それでも、おまえの顔は忘れておったよ。若い男に助けられた。それしか覚えていなかった。思い出したのは、おまえが川原で倒れているのを見た時だ」

源三がじっと三郎の顔を見つめる。見つめ返す三郎は、老人の中にその時の少年の面影を探した。けれど、深い皺に刻まれた顔は、その時の記憶を呼び覚ますことはできなかった。

「おまえは、確かに死んどった。顔は真っ青で、冷たくて、ひどいケガで、どざえもんが上がったとしか思えなかった。それで、志乃に太一を呼んで来てもらった。太一が来るまでの少しの間に、おまえは息を吹き返した。みるみる傷がふさがっていく様子を見て、わしはあの日のことを思い出したんだ」

「……」

「目を覚ましたおまえは、あの日の若い男とそっくりだった。顔も、話し方も……。この辺りでそんな公家さんみたいな話し方をする人はいねえ。それでぴんと来たんだ。この人は、子どもの時に助けてくれた人に間違えねえってな」

再び小屋がわさわさと揺れる。小さな地震だと感じたのでふたりとも動かなかった。少しの沈黙が流れる。

「……そんなバケモノだとわかっとって、よくここに置いてくれたもんやなあ」

三郎は自嘲気味に笑った。

いつだって、どんなに仲良くなったって、不老不死だとわかった瞬間、三郎を見る目が変わる。『バケモノ』と指をさされ、石を投げられたこともある。自分と違う者は、いつだって畏怖の対象だ。

「おまえは、人を助けたことはあっても、人に害を与えるようなことはしねえだんべ。少なくとも、わしは助けてもらった。その恩返しはしなきゃいけねえ」

「……」

源三の言葉に、三郎は頭を下げた。正体がわかったうえで、普通に接してくれる。それは、ありがたいことだった。

少年を助けた後、どうしたんだろうと三郎は考えた。その頃奉行所に雇われて、忍びの仲間と隠密として働いていた頃だった。その忍びの仲間に預けたか。

もう顔も名前も忘れてしまった忍びが、山奥で少年に炭焼きの技術を教えて一人で生きていけるよう育てたのかもしれない。

「志乃だって、うすうす気付いているだんべ」

「え?」

三郎は顔を上げて、源三の目を見た。その時に思い出した。どこかで見たことのあると思ったのは、生きながらに仏になろうとした富澤豊前守の目に似ているのだ。

「志乃はわしの孫の嫁だがなあ、わしと孫とは血のつながりがねえ。わしの息子ともねえ。ここは、すべてを失った他の行き場のねえやつが身を寄せて、家族のふりをして暮らしているんだ。お上にもわしらの存在は知られてねえ。年貢を納める必要はねえ代わりに、誰も助けてくれねえ。死んだ者の集まりさ」

「だって、志乃さんは違うやろう」

太一の家の女中の娘。病気の母親がなくなったとしても、太一の家で女中としてくらすことはできるだろう。あれだけ働き者なら重宝されるだろうし、嫁に欲しがる者だっているだろう。すべてを失った行き場のない者だとは思えなかった。

「志乃はなあ、父親が誰だかわかんねえ。母親が器量よしの働き者だったが、結局父親が誰だが言わなかったんだ。太一のおっかさんはな、志乃の父親が自分の夫だったんじゃないかって疑っていてな」

「え? それじゃあ、太一さんと志乃さんは、異父姉弟ってことになるのか? それ、志乃さんは知っとんのか」

少なくとも太一は知らないだろう。知っていたら、志乃に懸想できるはずもない。

「さあ。本当のことはわからんし、志乃が母親から聞かされているのかも知らん。ただ、太一のおっかさんはそう疑っているんだ。だから、太一が志乃を追いかけるほど、志乃はあの家で居場所がなくなっていったんだ」

「そうか、だから志乃さんはあんなに頑ななのか」

太一はないと言い切った。その理由がはっきりとわかる。同時に、何も知らないまま志乃を想い続ける太一も気の毒な気がした。

「でもな、志乃はここに来て幸せだったと思うぞ。孫とも本当に仲睦まじい夫婦でな。……それも三年くらいの間だったがな。その後、孫は病気で起き上がれなくなって、長いこと看病の日々が続いて、それでも、志乃はかいがいしく面倒をみておった」

「そうやろうな。わかる気がする」

志乃にとって、ここでの生活が嫌だったら、もうとっくに出て行っているだろう。

守られていたことが一度だけあった。そう志乃は言った。それは、夫婦になって数年間の幸せな日々を指すのかもしれない。

「少なくとも、志乃はおまえの本当の姿を知っても、別になんともないと思うぞ。まあ、多少は驚くかもしれんが。だからここから出ていけなんて言わねえ」

「……」

「志乃のことを守ってやってくれねえか」

源三がそう言って頭を下げた。

「あ、いや……」

「まあ、これは、老いぼれた爺の勝手な頼みだ。返事はしなくていい。志乃と三郎がそれぞれ選んだ道を行けばいい」

『ただ死んで仏になるのと、生きながら仏になるのではまったく違いまする。それがしが選んだ道ということでござる』

源三の言葉が、富澤豊前守のそれと重なった。

「選んだ道……」

「人は運命に弄ばれて、どうにもならねえこともある。そんな中で道を自ら選べる者は幸せだ。どんな道であっても……。三郎も、道を選んでここまで来たのだろう」

胸の奥を見透かしたような源三の瞳。三郎は、遠い昔、大天狗から突きつけられた選択を思い出した。

このまま悪鬼となるか、天狗の修行をして不老不死の身体を得るか。あの子はいつかこの町に生まれ変わってくる。再び会える道を選んだのは、三郎自身だ。

三郎はその晩から志乃の家に泊まることにした。

「私は大丈夫なのに。爺さまは心配性ね」

志乃はそう言いながらも、かいがいしく三郎の分の寝床をこしらえようとする。

「志乃さん、この間の話やけど……」

三郎は、志乃の背中に語りかけた。

「うん」

「すぐにはっきりとした返事はできんのやけど、もう少しこのままいさせてもろうてもええやろうか」

「そりゃあ、いいに決まっているでしょう。一緒に暮らして欲しいって言っているのは、こっちなんだから」

振り返った志乃が、やわらかい笑みをつくる。

「三郎がいてくれると助かるし、頼りにします」

「ああ、おいてもらう礼に、力仕事でも薬草洗いでも何でもするから言いつけてや」

「礼なんかいらないって言っているでしょう? 三郎も、少しは甘えたっていいのよ。もう家族みたいなもんなんだから」

「……」

志乃の言葉が胸に染みた。家族なんてものは、はるか昔、たった一人の母親を亡くした時から存在しなかったのに。

ぐらりと、再び大地が揺れた。家がぎしっと音を立てる。囲炉裏で鍋を吊るす鉤棒がゆっくり揺れている。

「やだ。また……」

しゃがみこむ志乃のそばに、三郎は寄り添った。思わず肩に手を置き、何も落ちてこないことを確かめる。

志乃の肩は思っていたよりも、ずっと華奢だった。

「心配ね。浅間山が噴火したってうわさがあるって、太一が……」

揺れが収まって、志乃がぽつりと言った。

「太一さんが……?」

太一がいつ来たのだろうと、三郎は志乃の横顔を見た。

「太一さんと仲直りしたんか」

それならそれでいいと、三郎は思った。複雑な思いがあるかもしれないが、いざとなれば頼りになる幼なじみに違いなかった。

志乃に薬草の知識と扱いを教えたのは源三だろう。炭焼きほど力仕事が必要ではない。女でもひとりで生きていけるように、その扱いを教えた。

志乃はひとりでも生きていくことも、太一と結婚することも、他の誰かと一緒になることも、自分で選ぶことができる。

「してない」

志乃はきっぱりと言う。

「なんか。ぶつぶつ言っていたけど、ずっと無視していたから」

黙々と作業している志乃に、一方的に話しかける太一の姿は容易に想像できるが、一体何をそんなに怒らせたのだろう。

「ねえ。ひとつだけ聞いていい?」

寝床の脇に正座をして、志乃が三郎を見た。

「なんや、改まって」

三郎も反対側に胡坐をかいた。

「信次郎さんの縁談、三郎は本当にいいの?」

「……」

突然胸に突きつけられた質問に、三郎は言葉を失った。

「……なんや、急に」

平然を装おうとしたが、顔が引きつる。

「前に、太一が言っていた。三郎が天狗巫女を見て、何か思い出したような顔をしていたって。信次郎さんのお相手がその子でしょう。三郎は、その子に会いに来たんじゃないの?」

「……」

あの日、一目で咲の生まれ変わりだとわかった。竹刀をにぎることもなく、機を織ることを得意とする白い肌。それでも、その横顔は咲にそっくりだった。

信次郎から聞いた頑固なところも、咲を思い出させた。信次郎がふさわしい男でなければ、どんな手を使っても引き裂いてやろうと思って近づいたことも確かだ。

「ええんや」

肩の荷を降ろしたような気持になって、三郎は言った。

「信次郎どのが頼りにならん男やったら、邪魔してやろうとも思ったが、まあまあええヤツみたいやし……。これでええ」

「……三郎は、その子とはちゃんと話ができたの?」

「いや。向こうはわしのことなんか知らんし、わしはその子を幸せにしてやることはできん。声なんかかけなくとも、一目見られたらええと思ったんや」

「……生き別れた妹さんか何かなの?」

「まあ、そんなもんや」

そう答えながら、三郎の頬に自然と笑みが浮かんでくる。幸せにしたい大事な女性なのに、自分ではそうすることができない。遠くから幸せを祈るだけだ。生き別れた妹のような存在、志乃の言葉はすとんと心の奥にはまった。

「志乃さんはするどいなあ。隠しごとなんかできん」

「そう?」

「じゃあ、今度はこっちが聞かせてもらうで。志乃さんの旦那さんはどんな人やったんや」

「え? 弥八のこと? ノロケになっちゃうわよ」

志乃がそう言って、幸せそうに笑った。

「ええよ。そりゃあ仲睦まじかったって、源三爺さんに聞いたで」

三郎が言うと、志乃はふふふと歌うように笑う。

「弥八は、私より十歳年上でね。いつも太一の家に薪を売りに来ていたの……」

志乃が語る幸せな恋の物語を、三郎はほほ笑ましく聞いた。普段はしっかりして大人びた志乃が、少女のようにほおを染めて笑う。

志乃は今でも弥八のことを忘れていない。

誰かを忘れられない状態で一緒になれないくらいには、幼なじみを大切に思っていたのかもしれないと、以前志乃は言った。志乃は、やはり太一のことも大事に思っているのだろう。

時折地鳴りがしてガタガタと揺れる中、三郎は世がふけるまで志乃の物語を聞いていた。

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第6話 潮時