続編「天明の選択」

第5話 難題


「あら?」

家から出てきた日菜は、信次郎の後ろにいた三郎の姿に驚いた顔をした。

「あの、先日助けていただいた方ですよね」

「助けたっていうのは大げさや」

「大げさだなんて。あの時は、本当にありがとうございました」

日菜は、三郎にやわらかにほほ笑んで頭を下げた。三郎の唇にも自然に笑みが浮かぶのがわかる。

「それで、どうして信次郎さんと一緒に?」

「仕事のついでに寄らせてもらった。この人に取引の案内を頼んだんだ。大戸宿の藤井屋の岩櫃餅、日菜さんのおとっつあんが好きだと聞いたんで、一緒に食べてくれ」

「……」

信次郎がそう言って包みを差し出した。父の好きなものであれば、自分の判断では断りづらい。

「……それは、ご馳走様です」

日菜が包みを受け取ると、信次郎が露骨にほっとした顔をする。

「それじゃあ、今日はこれで……」

「そうなのですか? 今日は父もおりますので、上がってお茶でも」

お暇しようとする信次郎を、日菜が引き止めた。

「え? ……いや。急ぎの仕事があるから、今日はこれで……」

「そうですか?」

「それでは、ごめん」

一瞬の動揺を隠すようにして信次郎は頭を下げた。まだ何か言いたげな日菜に三郎も一礼して、背を向ける。

「なんや。そんなに嫌われている風でもないやんか」

村境の道祖神の前まで来ると、黙々と前を歩く信次郎に三郎は話しかけた。

「そう思うか」

振り返った信次郎の顔がぱあっと明るくなった。

信次郎の話ではもっとそっけない感じなのかと思っていた。日菜が信次郎のことを迷惑に思っているようなら、信次郎の取引は協力してやる必要もないと思っていたが……。

「この間の貢物は、受け取ってもらえなかったからさ。今日はちょっと知恵を絞ってみたんだ」

「まだ、話したげにしていたみたいやんか」

日菜も信次郎のことを憎からず想っているとしたら。家柄を気にして嫁にいくことを戸惑っているのだとしたら、協力してやらないこともない。信次郎が加部安の家で仕事を認められて、誰も文句を言う者のないくらいの後継ぎになればいいのだ。

「そうだったよなあ。あんまり押してばかりもよくないかと思ってさ、ちょっと引いてみたんだ。それに、取引の方も成功させないとなんねえしな。仕事に力を入れて、ちゃんとしないとな」

信次郎の足に力が入る。まっすぐに目標を持って進もうとする若者の目。三郎は、ほほ笑ましくそれを眺めた。

横谷村に入ると、太一がいた。広い土地を何人かの人足と耕している。志乃のところに来る時はいつもへらへらしているが、畑でクワを振るう姿は真剣そのものだ。畑の土の状態もいい。麻が評判なのもうなずけた。

「よお。炭は配り終わったんかい」

三郎を見つけた太一が声をかけてきた。

「へえ」

「ご苦労さん。おかげで源三爺さんの膝もだいぶよくなったって、志乃も言っていたぜ。昨夜、ヤマメを差し入れといたから」

「そりゃよかった」

昨夜も志乃のところに顔を出したのかと、三郎は想像して笑みが浮かぶ。

「そっちは? どっかで見かけた顔だが」

太一が、信次郎の方に目を向けた。

「加部安さまのとこの信次郎どのだ。源三爺さんに会いたいって言うんで、連れてきた」

「ああ。加部安さまの……」

地蔵尊で見かけたのを思い出したのか、太一が納得したような顔でうなずく。

「それで、加部安さまのせがれが何の用だい?」

「源三爺さんに会いに来たんや。炭を売って欲しいんやて」

「炭を……?」

三郎が答えると、太一の顔が強張った。

「ダメだ、ダメだ。源三爺さんは売らねえよ。行っても無駄だから、帰った方がいい」

「どうしてだ? あんな上等な炭だ。量がそろえば、それなりの値で買うつもりだ。悪いようにはしない」

「ダメなものはダメだ。源三さんは誰が来たって、必要以上に炭を作らねえし、売らねえよ。帰りな、帰りな」

信次郎が食い下がっても、太一は頑なに追い返そうとする。

「こっちも、簡単には諦められねえ事情があるんだ。首を縦に振ってもらうまで、泊まり込んで帰らねえつもりだ」

「はあ。帰らねえってどこに居座るつもりだ。年寄りと女しかいねえ家に、居座るなんて承知しねえぞ」

信次郎の言葉に真っ赤になって怒る太一の様子に、三郎は「ははあ」と納得する。

「加部安の使用人が山の手前で追い返されたってのは、太一さんの仕業なんやな」

「わ、わりいかよ。源三爺さんは、炭は売らねえって決めてんだ。それなのに、わざわざ山を登るのもおやげねえだんべ。親切で言ってやってんだ」

「そうかなあ。若い男が志乃さんの側に寄るのが心配で、邪魔しているようにも見えるけどなあ。信次郎どのみたいな若い衆が爺さんにわざわざ会いに来て居座れば、志乃さんなら飯を作って世話を焼きたがるかもしれん」

「……そ、そんなことねえや」 

三郎がからかい半分にそう言うと、図星だったのか太一が歯切れ悪く言葉を濁す。

「信次郎どのは他に嫁にもらいたい人がいるし、わしも見張っておくから心配いらん」

「そうは言ったって、源三爺さんが余分な炭を売らねえのは本当のことだ。爺さんも年だし膝も悪くして、商いなんかできやしねえ」

「まあ、その辺りは、わしが手伝えばなんとかなる。源三爺さんだって、いつまでも元気とは限らん。志乃さんのためにも残せるものは残しておいた方がええやろう」

「……そりゃ、そうかもしんねえが……。そんなこと言って、三郎が儲けてえだけじゃねえんかい」

「世話になっといて、そんなことせえへんわ。志乃さんとあんたぁが一緒になってくれればええけど、簡単にはいかなそうやしなあ」

「……」

三郎が大げさに残念がってそう言うと、太一がぐぐぐっとのどを鳴らして黙り込んだ。

「ほな、行こうか」

すました顔で信次郎に声をかけた三郎は、太一の畑の脇を通り、川沿いの荒れた土地を進む。村はずれまで来ると、山に分け入る道に入った。

「あの人は、源三さんの孫嫁のことになるといろいろ面倒な人でなあ。商いの邪魔をして悪かったな」

「いや。三郎さんがいてくれて助かった。あの剣幕で追い返されたら、うちの使用人たちもすごすごと帰ってくるしかないだろう」

「まあ、あんたと一緒で、難しい相手に懸想してはるだけやから、根は悪い人でもないんや」

「……」

三郎がそう言うと、信次郎は返事の代わりに、鼻を鳴らして苦笑する。

登坂が急になり、信次郎の息が切れる。足元の悪いせいで、今までの平らな道のようにはいかないらしい。

この坂道を上り下りするのは、源三にはもう辛いだろう。人ひとり通れるけもの道を上りながら、志乃はよくこんな不便なところで住んでいられると不思議に思った。

しばらく進むと、少しなだらかな場所に出る。ちょろちょろと水の流れる小川で、信次郎は顔を洗い、水をすくって口に含んだ。

「この小川に沿って行くともうすぐや」

三郎は、息を切らす若者にそう声をかけた。

家で声をかけても、志乃の姿はなかった。山菜採りにでも行っているのかもしれない。三郎はそのまま信次郎を炭焼き小屋へと連れて行った。

「爺さん、今帰ったで」

小屋をのぞくと、源三は草鞋を編んでいるところだった。 

「おう、ご苦労さん。その若けえのは?」

「大戸の加部安左衛門の家の者で、信次郎といいます。源三さんにお願いがあって来ました」

「わしに?」

「炭を売ってもらいたいんです。お願いします」

腰を深く曲げて頭を下げる信次郎を、源三は眉間に皺を寄せて眺めた。

「わしが、余った炭を加部安の屋敷に持って行ったんや。高く買うてくれるんやないかと思って」

三郎はそう言って、源三に売り上げを差し出した。

「……ずい分多いな」

「世話になった礼になればと思うたんやけど……」

不機嫌そうに眉をしかめたままの源三に、三郎は言った。

「志乃に渡しといてくれ」

ふうっとため息を吐いた後、源三はそっけなく売り上げから目をそらした。

「売れる炭はもうねえ。遠いとこ来てもらって悪いが、帰ってくれ」

「そこをどうにか。あれだけ上質の炭を作れる人はなかなかいません。高値でも欲しい人はいくらでもいます。損はさせませんから、どうか……」

「金はいらねえ。金が欲しいヤツは、金を食って生きていけばいい。わしは必要以上の炭を作るつもりはねえ」

土間に手をついて頼み込む信次郎に、源三は表情を変えることなく続けた。

「もう用はすんだろう。帰ってくれ」

そう言った後、源三は手元に視線を移した。再び草鞋を編む手を動かした源三は、聞く耳を持ちそうにない。

「行こか」

三郎は、信次郎を外に促した。頑なに断ろうとする源三には、何か理由がありそうだ。

「だけど……」

「また出直せばええやろう」

三郎の言葉に、信次郎は悔しそうな表情のまま小屋を出る。

「太一さんの言う通りやったなあ」

志乃から遠ざけるためだけに邪魔をしていたのかと思ったが、それだけでもないようだ。

「道理で気前よく猶予の時間をくれたと思った」

義父光重のことを言っているのか、信次郎が肩を落としてため息を吐く。

「猶予は三ヶ月か……」

そう簡単にはいかないと、光重は知っていたのだろう。炭を見てすぐに源三の名前を言い当てた。あの人も以前から狙っていたのだ。もともと加部安の名前を出してもなびかない相手だと知っていて、信次郎を試している。

ちょろちょろと流れる川に沿った小道を下ると、薬草を洗う志乃の姿があった。

「志乃さん」

声をかけると、振り返った志乃は三郎にやわらかく笑いかけ、後ろをついてくる信次郎の姿に少し目を見開いた。

「お帰り、ご苦労さま」

「源三爺さんに用があったんで連れてきたんや。けど、断られてしもうた」

「ああ。爺さまは頑固だからね。炭が欲しいって人は時々来るけど、誰にも売らないのよ」

「そうか。そりゃ悪いことしたなあ」

三郎はふところから巾着を志乃に差し出した。

「こんなに?」

志乃が驚いた顔をする。

「世話になった礼になればと思うたんや。けど、余計な世話やったかなあ」

加部安の屋敷に入り信次郎の人柄を探る目的もあったが、炭の本当の価値がわかり、高く買ってくれるのは加部安だと思っていたのも事実だ。志乃たちの生活も楽になると思ったのだが。

「礼なんて、もう十分働いてもらっているからいいのに」

志乃は目尻を下げて三郎にそう言った後、信次郎の方に視線を移した。

「せっかく来てもらったのに、悪かったわね。お昼まだでしょう。何もないけど、食べていけば?」

「でも……」

「いいから、いいから。すぐにできるから、ちょっと待っていて」

洗い終えた薬草をざるに上げて手早く水を切り、志乃は小走りで家に向かう。

「薬草もこの辺りで採れるのか」

志乃の背に視線を送り、信次郎がつぶやいた。

「ああ。そうやろうな」

三郎の背中の傷に治療した薬。熱さましの薬。源三の痛む膝にぬる薬。志乃は薬に詳しかった。質素な生活ながら、症状に合わせた薬を志乃は用意してくれる。

何となく外せないままのさらしの下の傷は、すっかりよくなっている。三郎の回復力が人並外れているのはもちろんだが、最初の傷の治療や、その後の滋養のつく食べ物が大きく影響しているのは間違いない。

「オニツツジか……」

志乃が落とした葉っぱを一枚拾い、信次郎がつぶやいた。

「源三爺さんは頑固なところがあって、ごめんなさいね」

大鍋を囲炉裏にかけ、山菜と芋のたっぷり入った粥をかき混ぜながら、志乃が謝った。

「なんで、源三爺さんはあんなに頑ななんやろうな。わしが手伝えばもう少し量も作れるし、志乃さんのこれからを考えれば、貯えがあったほうがええやろうと思ったんやけど……」

「生きていくのに必要なもの以外はいらないっていう考えなのよ。お金をたくさん持っていたら、狙われるでしょう。盗られて無くなるのはがっかりするし。生きていくのに、必要なものが必要なだけあればいいのよ。それ以外はいらないの」

三郎の問いに、椀に粥をすくいながら志乃は答えた。

「せっかくこんな山の中まで来てもらったのに、申し訳なかったわね」

「いえ。太一さんに、断られるから帰れって言われたのに、どうしても来たくて登って来たんだから」

志乃から差し出された椀を受け取りながら、信次郎は言った。

「太一が……?」

「ああ。今までも加部安の使いを断って追い返したことがあったらしいで」

「もう。あの子は、悪い子じゃないんだけど、口が悪いから……。失礼がなかった?」

「あの子っていう年でもないんじゃ……」

返事の代わりに、信次郎は軽く吹きだした。どう見ても信次郎より太一の方が年上だ。

「あら、そうね。幼い頃から知っているからね。いつまでも、鼻垂らして泣きながらついてきた時の印象が抜けないのね」

思い出したのかふふふと笑いながら、志乃が椀に粥をすくって三郎に渡す。

「そういえば、幼なじみって言うてたな」

三郎がふたりの関係を聞くと、太一がそう答えた。その時に感じたほんのりと苦い感情は、咲と亮太郎の関係を思い出したからだ。隣にいる亮太郎とそっくりな信次郎の横顔を見て、三郎は複雑な気持ちになる。

「正確に言えば、雇い主のお坊ちゃんと、使用人よ。私の母が太一の家の女中をしていたの。母が病気がちだったから、子どもの頃から母の代わりに手伝いをしなきゃならないのに、年が近かったから、太一が遊んでほしくて寄って来て……。迷惑だったわ」

志乃のそっけない言い方に、三郎は椀をすする信次郎と思わず目を見合わせた。

「そりゃあ、気の毒になあ……」

「でしょう。あの子は大事な長男で、みんなからちやほやされてわがまま放題で、ふたつ年上の私が子どもながらに洗濯やお勝手仕事をしなきゃいけないのを邪魔されるんだもん、かなわないわ」

三郎の『気の毒に』は太一に向けられたものだったが、志乃は完全に誤解して憤慨した口調になる。

「せやけどなあ、太一さんだって今はすっかり大人やろう。さっきも働き者に見えたで」

「ああ。横谷村にいい麻を作る評判の家があるって聞いたことがあったけど、太一さんのことだろう。畑の様子を見てピンときたぜ」

三郎に同調するように、信次郎も続けた。懸想している女性に相手にされていない同士、同情の気持ちがあったのかもしれない。

「そりゃあ、そうでしょ。実際いい年なんだし。家族も使用人たちも、みんなで盛り立てて協力しているんだから」

志乃の太一の評価は厳しく、ぴしゃりと言う。

「そんなに、太一さんのこと嫌いなんか」

「別に嫌いじゃないわよ。悪い人じゃないって言っているでしょう。いろいろ気を使ってくれるし」

「じゃあ、なんで一緒になろうと思わないんや。太一さんがあの年までひとりでいるんは、志乃さんがおるからやろう。太一さんの気持ちはわかっとるんやろう」

三郎の問いに、志乃の唇の端の笑みが凍りついた。

思わず問いをぶつけてしまったのは、目の前にいる若い男と亮太郎の姿が重なったからだ。

「知り合いで、幼なじみにずっと懸想しとった男がいてなあ。身分が少し違ごうてたけど、大人になってそれなりの力をつけて、周りからは一緒になったらええと思われていたんや。けど、結局一緒になることはなかった」

信次郎の真剣な眼差しが三郎に向けられる。

「なんでやろうなって、わしはずっと引っかかっていてな……」

「理由なんてその人じゃないとわかんないけど……」

凍った笑みはゆっくりと解けて、志乃が目を伏せる。

「その女の人には、他に好きな人でもいたんじゃない? それを隠したまま一緒になれないくらいには、その幼なじみのことを大事に思っていたのかもね」

「……」

それは結局、女は男のことを大事に思っていたっていうことなんだろうか。

「はあ、難しいっすね」

信次郎が神妙な顔をしてうなった。

「そうよ。女心は難しいのよ」

あっけらかんとした口調で、志乃が笑う。

「そうなんだよ。本当に訳がわかんねえんだ。ちょっと、おれの話も聞いてくださいよ」

それから、三郎は粥をすすりながら、再び信次郎と日菜の出会いの話を聞かされる羽目になった。春の山の命がたくさん溶け込んだ粥は、一口食べる毎に体中に染みわたる。

志乃は聞き上手で、相槌を打ちながら信次郎の話を楽しそうに聞いていた。

恋敵の話を聞きながら、三郎はもっと遠くの記憶のことを考えていた。咲のことだ。

聞き上手の志乃に根ほり葉ほり聞かれ、言葉を選びながら話している信次郎の横顔が、亮太郎のそれに重なる。

前世では想いを打ち明けることさえできなかった男が、運命の女に出会い、何とか成就させようともがいている。憎い気持ちが沸いてくるかと思ったが、清々しく応援したい気持ちが強くなってくる。

「ふうん。少し変わったお嬢さんなのね」

話を聞き終わった志乃がそう言った。

「そうなんだ」

「でも、きっと可愛らしい方なんでしょうね」

「そりゃあ、もう。見た瞬間、世の中がひっくり返るくらい」

信次郎の大げさな言い方に、ふふふと楽しそうに志乃は笑った。

「最初は仲よくなったような気がして、縁談話が出たら急にそっけなくなって、それなのに、今日はもっと話がしたそうに名残惜しそうな顔だった、と」

「そうなんだよ。脈があるんだかないんだか、わかんねえんだ」

「そっか……」

志乃は少し首を傾げて考えていたようだったが、言葉を選ぶように続けた。

「もう少し頑張ってみたらいいんじゃない? そのお嬢さんも気持ちが揺れているんだと思う。頑張ったらもしかしたらうまくいくかもしれない」

「え? そうなのかな?」

信次郎の顔がぱあっと明るくなる。

「だけど……」

声を低くして、志乃が続けた。

「もう少し頑張って、でもやっぱりだめだったら、すぱっと諦めた方がいいわね」

「ええ? 結局、どっちなんだよ」

「女はね。この人ならお似合いとか、この人なら条件がいいとか、そういう頭で考える他に、ここでね……」

志乃がそっと胸を押さえる。

「ここで感じて、だめだと思ったらだめなのよ。今は、まだ頭で考えている状態なんだと思うわ。最終的には、胸で感じた想いで判断するしかないから……」

「……」

志乃の言葉に、信次郎は神妙な顔でうなずいた。

それから、三日に一度信次郎はやって来た。ちょっとしたものを持ってきては、源三と話をする。毎回炭の話は断られたが、信次郎は気にする様子もなく、志乃に日菜との進展を報告する。

源三が炭を作ろうとしないので、三郎は薪を割って近くの村に売り歩いたり、薬草を探すのを手伝ったりした。山に自生する薬草の他に、傾斜の緩い狭い土地に、志乃は薬草を植えて栽培もしていた。根を掘り出し、乾燥させて薬にする作業を手伝ったりしながら、時を過ごした。

「それで、どうなっとるんや」

二ヶ月が経った頃、たいして焦っている気配のない信次郎に、三郎はたずねた。加部安の屋敷で聞いた三ヶ月の猶予は残り一月になっている。

源三爺さんは世間話には応じるが、炭の話になると途端に口を閉ざす。それは、三郎が話しかけても同じだった。

「なんとかなりそうなんだ。太一さんの村で交渉して、川際の荒れ地を開墾する人足を貸す代わりに、そこで育てた麻をうちで取引してもらうことになった。おれも一緒になって働いてさ、なんとか今年の収穫に間に合いそうだ」

「ただ、遊びに来ていただけやなかったんやな」

「そりゃそうさ。これなら、義父上も納得してくれると思う」

自信に満ちた声で、信次郎が言った。

「そうか。そりゃ、よかったな。たいして役に立たなくて悪かったなあ」

三郎は視線を手元に移し、麦門冬の根を洗いながらほほ笑んだ。三郎の手を借りずに、自らの力で難題を解決しようとした信次郎を祝福したい気持ちになる。

「とんでもない。ここに連れてきてもらったから、太一さんにも会えたし、開墾していい麻を作ってもらえることにもなったんだ。あの日、ずい分荒れている土地があるなって思ってさ」

「へえ、大したもんや」

太一と話をした後、村の様子をきちんと見ていたということなのだろう。

「それと、源三さんには内緒で、志乃さんに薬草を取引できないか交渉しているところなんだ」

「志乃さんに?」

「うん。悩んでいるみたいだけど、前向きに考えてくれていると思う」

「どおりで、志乃さんが最近よく働くと思った」

三郎が小川で洗っている麦門冬の根も、肥大部分を乾燥させて煎じて飲むと、滋養や暑気あたりにもいいと言っていた。自分たちで使うには多すぎる。

「いい大きさの麦門冬だな」

三郎の手元に視線を移し、信次郎がうなずく。

「薬草には詳しいんか」

最初に志乃と出会った時に、信次郎は葉っぱを拾ってその名を言い当てた。

「伊能の家にも、蔵の中に乾燥させた薬草がたくさんあったんだ。義父上はあんまり詳しくないから、その辺りは新たな商売になるんじゃないかって期待されている」

自信に満ちた表情の信次郎の額に汗が光る。

「そうか」

季節は夏になり、木々の緑が色濃くなる。季節が少し動いただけで、急に大人びた表情になった若者を三郎はまぶしく感じて目をそらす。

根を洗い終わった三郎は、ざるの上にあげて、木陰に運んだ。

「志乃さん、大名や裕福な商人しか買えない高い薬にならないように、庶民でも買える値段にして欲しいって。自分はそんなにもらわなくていいからって言ってさ。……いい人だよなあ」

「せやなあ」

日菜のことを相談しているだけでなく、そんなことまで話を進めていたのかと感心する。同時に志乃もひとりでもやっていけるのではないかと思えてくる。三郎が心配する必要などなかったのだ。

そう思うとうれしい反面、かすかにさみしい気持ちも浮かんでくる。

木陰に腰を下ろすと、信次郎が包みを差し出した。

「いつも悪いなあ」

しっとりとした酒まんじゅうのひとつを、三郎は受け取った。

「残るは日菜さんの気持ちのみやなあ。その辺はどうなんや」

「うーん。そこが一番の問題でさ。よくわかんないんだけど、最近はけっこう話をするようになったよ」

「へえ」

「そうだ。今度一緒に立石を見に行くことになってさ」

信次郎が嬉しそうに言った。

「ああ。最初の日に行きたいって言っていた立石か」

吾妻太郎落城伝説の縁の大石は、吾妻川の中腹に今もあるはずだ。三郎もかなり昔にその場所に立ったことがあった因縁の大石でもある。

「うん。誘ってもなかなか『うん』って言わなかったんだけど、今朝、日菜さんから行きたいって言ってくれたんだ」

「そうか。そりゃ、よかったなあ」

酒まんじゅうを口にしながら、三郎は言った。口の中に広がる餡の甘さに、どこかしょっぱいものが混じる。ほっとした胸の中に寂しい気持ちが混ざるように。

これでよかったのだ。信次郎は、信頼のおける男だ。自ら難関を切り開く力もある。日菜が信次郎の気持ちを受け止めれば、それが一番いい。

「まあ、お幸せに」

「まだ、縁談を承諾してもらったわけじゃないよ」

冗談っぽく祝福すると、信次郎が顔を赤くしてはにかんだ。

「ただ、ちょっと最近気候がおかしいのが、心配なんだよなあ」

そう言って、信次郎は空を見上げる。どんよりとした低い雲が空を覆っていた。

信次郎が帰ると、三郎はため息を吐いた。

曇っているせいか夏だというのに、肌寒いような日が続いている。

けれど、湿度が高く一仕事すると汗をかく。上半身着物を脱いで、念のため巻いていたさらしを取る。背中の傷は、もうすっかり治っている。人間だったら、どのくらい傷が残るものだろうか、三郎には想像もつかなかった。

小川で顔を洗い、手拭いでふいた。それから手拭いを水で浸し、汗ばんだ体を拭く。

ふと視線を感じたような気がして振り返ると、目の前をアゲハ蝶がひらひらと横切っていった。

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第5話 難題