続編「天明の選択」
第4話 出会い
日菜と初めて出会ったのは、信次郎が加部家に養子に来たばかりの頃だった。
上州三大尽のひとりと言われる大金持ちの家に養子に出ることは、伊能家の誰もが喜んだし、旧友たちからもうらやましがられた。
当の信次郎は複雑な思いだった。
自分が伊能家を継ぐものだと思っていた。伊能家は、戦国時代に真田氏に仕え、吾妻七騎にも数えられた先祖を持つ。沼田藩真田氏が治めていた頃は代官を務め、その後沼田藩の改易後に新しい代官が赴任した後は帰農したが、村をまとめる名主の役を務めることもあった。
信次郎は、長男でもあった。だから、代々伊能家が継いできた十兵衛の名を継ぐのは自分だと思って、鍛錬や勉学に励んでいた。
しかし、正妻に弟が生まれた時から、家の中の雰囲気が変わってきた。信次郎の母は、身分が低く既に病気で亡くなっていたせいか、弟を伊能家の当主にという正妻の願いが聞き入られ、信次郎にはだんだん居場所がなくなってきていた。思えば、長男に「信次郎」の名を付けること自体がおかしいと思えばおかしかったのだけれど。
息子を不憫に思ったのか、父が用意した養子先は、誰もが知る加部安の家だった。
養子先の加部家は、信次郎を大事に丁重に、しかも、甘やかさず迎え入れてくれた。
七代目重実は、既に白髪の老人だったが、厳しい中にも優しく信次郎に接し、あれこれと家を大きくしていった経緯を教えてくれた。
働き盛りの八代目光重は、多くの使用人を使い、酒造や麻の買い付けなど商売を着々と伸ばしている。酒造は伊能家でもやっていたが、その規模の大きさに信次郎は驚いていた。
使用人達から丁寧に仕事を教わりながら、その腹の内では信次郎に当主の座が務まるのか見極められているようで、信次郎は正直居心地が悪かった。
そんな頃だった。原町に行った帰りに、矢倉村の庄屋の家に麻の買い付けに行けと言われたのは。
朝早くに家を出て原町での用事をすませ、帰りがけに矢倉村に向かう。残暑の頃で、冷たい水でほてりを取ろうと、吾妻川に降りた時だった。
若い女の声が聞こえた。川の中腹にある大きな岩の上に腰を下ろして、誰かが話しているようだった。
まずいところに来たと思った。若い娘が水浴びをしているところをのぞいた不埒ものと思われたらたまったもんじゃない。
そう思いながら引き返そうとした。若い娘の楽しそうなふふふと笑う声に、信次郎はそっと様子をうかがった。声がひとりの女の声しか聞こえなかったからだ。
その時、胸が早鐘のように鳴った。
平べったい岩の上で、ひとりの若い女が座っている。他に誰もいなかった。誰と話をしいるかを考えるよりも、その横顔に釘付けになった。
黒髪をゆるく結っている農村でよく見る髪形。こざっぱりとした薄い桃色の着物の裾をまくり、足を川に入れている。ふくらはぎの白さが目に飛び込んできた。
初めて会う気がしなかった。この風景をいつだか見た気がした。
記憶のどこを探してもそんな光景はないのに。心臓が飛び出しそうなほど、大きな音を立てる。
「え? 何? あっ……」
女が何かに気が付いた風にこっちを見た。信次郎と目が合って、驚いて立ち上がろうとする。
「あっ」
慌てていたのか、足を滑らしたかのように見えた。
「危ない!」
咄嗟に持っていたつるをはなすと、川にすべり落ちたのは信次郎の方だった。
「あ、あの~、大丈夫ですか?」
岩の上から石づたいに跳んできて、若い女は声をかけた。
◆
「申し訳ない。本当に、何から何まで……」
女の名は日菜といい、家は信次郎が目指していた庄屋の娘だった。娘の家に上げてもらい、着ていたものを乾かす。代わりに借りた父親らしき地味な着物を肩にかけ、囲炉裏端で火をおこす日菜に、何度目かわからない詫びを言う。
「いいえ。こちらこそ申し訳ありません。加部安さまの息子さんがいらっしゃるとわかっていたら、父も出かけなかったでしょうに」
留守宅にこんな姿でいる方が心苦しく、信次郎は背中を丸める思いだった。
「こんなものしか、なくて……」
日菜が出してくれたのは、甘酒だった。
「かたじけない」
「加部さまは、お侍さんみたいですねえ」
礼を言うと、日菜が朗らかに笑う。その笑顔を間近に見て、胸が疼いた。この笑顔を知っている。どこかで、会ったことがある。
「あの、日菜さん……」
「はい?」
どこかで会ったことはないか、と聞こうとして、信次郎は言うのをためらった。どこにも記憶がない。そんなはずはないのに、そんなことを聞いたら、まるで気があると言っているようなものじゃないか。
「……さっき、川で何をしていたんだ? 誰かと話をしていたようだったが……」
「……あの、すみません。さっきのは見なかったことにできませんか?」
代わりにそうたずねると、日菜が信次郎の前に来て両手を床につく。そのまま頭を下げた。
「あ、いや。顔を上げてくれ」
「お願いです。どうか、父にはさっきのことは内密に、お願いいたします」
「わ、わかったから、誰にも言わねえから、だから顔を上げておくれ」
「本当ですか?」
顔を上げた日菜の顔が、すぐ目の前にある。
「あ、ああ」
信次郎は、動揺を悟られないようにほんの少し後ろに下がった。
「ありがとうございます。岩と話をしていたなんて、子どもみたいなことをするなと、おとっつあんには、だいぶ前から止められていて」
「岩と話をする?」
「ええ。信じてもらえなくて当然なんですけど、あそこの牛岩はよくしゃべる岩で、昔大雨の時に流された子どもを助けてあげたことがあるなんて、武勇伝を教えてくれるので、つい時間があるとおしゃべりに行ってしまうんです」
「へえ……」
川の中腹の大きな岩の上で、楽しそうにふふふと笑っていた日菜の横顔を思い出した。あんなところでひとりで何をしていたのかと不思議だったけれど、岩と話をしていたと言われればそうかもしれないと思えてくる。
「道理で楽しそうにしていると思った」
「信じてくれるんですか?」
涙目だった日菜は、ぱっと顔を輝かせた。
「ああ。あんたがそう言うなら、そうなんだろう」
「ありがとうございます。加部安さまの息子さんはいい方なんですね」
「信次郎だ」
「え?」
「おれの名前」
なぜそんなことにこだわったのかわからない。日菜から加部安の名を聞くと、胸がざわりとした。
「はい。信次郎さんがいい方でよかったです」
日菜がそう言ってにっこりと笑った。
それから、日菜の父親が帰って来るまでいろいろな話をした。
子どもの頃から、大きな岩や道端の道祖神の声が聞こえ、夢中になっておしゃべりをしているとおかしな子だと言われること。
お陰で嫁の貰い手がないと父親に嘆かれていること。
麻挽きや機織りが好きで、一日中でも織っていられること。
原町の立石に行ってみたいと思っていること。
「立石なら、今日も原町からここに来る道中見ながら来たぜ。吾妻太郎がその上で自らの首を切って、放り投げたっていう伝説の石だろ?」
信次郎は、川の中の大岩を思い出して言った。日菜が話をしていた牛岩と同じように、吾妻川の中腹にある大きな石だ。
「飛んでいった首を祀ったのが、首の宮神社だって話だよな」
真実はわからないが、そういう伝説だった。岩櫃城主吾妻太郎が里見氏に敗れた際の話で、戦国時代よりももっと前の伝説だ。
侍が切腹するのにも介錯がいるってのに、自らの首を掻き切って投げるなんて、信次郎には信じられないけれど。
「そうなんです。一度立石に触れて話を聞いてみたいと思うんです。そうすれば、伝説の真相を教えてくれるんじゃないかって。ちょっと信じられない話ですもんね」
「連れて行ってやろうか?」
「え?」
「立石にさ。行って話を聞きたいんだろう?」
「いいんですか?」
日菜がまん丸な目を、信次郎にまっすぐに向ける。
「ああ」
「本当に、信じてくれたんですか?」
「ああ」
「ありがとうございます!」
二度大きくうなずくと、日菜は満面の笑みで礼を言った。
信次郎の着物が渇く頃、日菜の父親が帰って来た。父親から見せてもらった日菜の織った布は素晴らしい出来栄えで、それを通常より高値で取引し、信次郎は屋敷に戻った。
「それは、素晴らしい腕前なのです」
織物を目の前で広げ、信次郎は光重に報告した。
「確かにいい腕だ。で、どのくらい生産できるのだ」
「母親が不在で、家事仕事もしながらだと言っていましたので、それほど多くは……」
「そうか。それでは、商売にはならんな」
光重はそう言って織物をしまおうとする。
「義父上に、ひとつお願いがあります」
「何だ。信次郎からの願いとは、珍しいな」
「日菜どのを、嫁にもらいたいと思っております」
「嫁に……?」
信次郎の突然の申し出に、光重は驚いたような顔をした。それは、そうだ。養子に入ってから一度も自らのわがままを口にしたことなどなかったのだから。
「はい。この屋敷に来てもらって、織物に集中させてはいかがでしょうか。何なら弟子もつけて、教えながら……。そうすれば、多くの上質の織物を作ることができましょう」
「それは、別に嫁でなくても、その娘を雇い入れるのではだめなのか」
「ぜひとも、嫁にと思っております。どうか、先方に話をつなげていただけないでしょうか」
信次郎は、畳に両手をついて頭を下げた。こんな姿になったのは生まれて初めてだ。どんなみっともなくても、この願いを聞き入れて欲しかった。
「……おまえには、加部家の縁者の娘をと思っておったのだか……」
頭の上から、光重のため息交じりの声が聞こえた。
それも当然のことだ。血のつながりのない養子なのだ。加部一族のなるべく近い血筋の娘を嫁にした方が、信次郎にとっても、加部家にとってもいいに決まっている。
けれど、信次郎の気持ちは変わらなかった。
「……わかった。先方に伝えよう」
頭を上げない信次郎に痺れを切らしたのか、光重の声が聞こえた。
「ありがとうございます!」
信次郎は畳に額をくっつけて、礼を言った。
◆
数日後、時間を見つけて矢倉村まで会いに行くと、日菜は縁側で織物を織っていた。
「ごめん!」
表から声をかけ庭に回る。目が合うと、日菜は気まずそうに目をそらした。
「おとっつあんなら、出かけています」
そっけなくそう言って、視線を織り機に移す。
「今日は、日菜さんに会いに来たんだ。お父上から聞いていないか」
「縁談話でございますか」
「そうだ。どうだろう。嫁に来てはもらえないか」
「それならお断りするよう、おとっつあんには言ってあります」
「……」
思いがけないそっけない態度に、信次郎は言葉を失った。先日はあんなにもうれしそうな笑顔を信次郎に向けていたのに、今日は表情も固く、目を見合わせようともしない。
「そんな大尽の家に嫁ぐなど、私には考えられません。恐れ多い話です。私は、この村で一生織物を織っていられればいいのです」
「そんなに固く考えなくてもいいのだ。機織りがしたいなら、一日中やっていたっていい」
「加部安さまの家に嫁ぐのにそんなはずないでしょう! それとも、何ですか? 嫁が欲しいのではなく、機織り職人が欲しいのですか」
手を止めた日菜は、そう言って信次郎をにらみつけた。
「ああ、悪かった。違うのだ。そういう意味ではないのだ。おれは、ただ……」
「じゃあ、どういう意味なのですか。信次郎さんがそんな風に軽々しくものを言う方だとは思いませんでした」
「……」
軽々しく言ったつもりはない。一大決心をしたつもりだった。一生一緒に暮らすならこの人がいいと、なぜだかそう思ってしまった。会ったその日にそう決断して、実行までしたことは、自分でも意外だったけれど。
「そ、そうだ。立石を見に行かないか。今日なら時間があるから案内できる」
「……」
機嫌をとろうとそう申し出た信次郎を、日菜はキッと睨む。
「岩と話をすることを信じてくださったのだと思っていました。いい友人になれたらと願っていたのに……」
「そ、それは……」
「もう会いに来ないで!」
日菜が立ち上がってそう言い捨てた。障子をぴしゃりと閉め、部屋に入ってしまう。
「あ、違うのだ。そういうつもりは……」
閉ざされた障子に向かって話しかけても、日菜からの返事は二度となかった。
はあと大きくため息を吐いて、信次郎は縁側に腰かけた。
なぜ怒らせてしまったのか、わからない。先日とは別人のようだ。
けれども、信次郎はどこか腑に落ちていた。そうだ。こんな風に、気の強いところが確かにあった気がする。芯が強くて、言い出したら絶対引かない。そんなところも好きだったような気がしてくる。なぜそんな風に思うのか、わけがわからないけれど。
「諦めるつもりはないからな」
障子に向かい信次郎はそう宣言した。
帰る途中で、日菜の父親に会った。
「日菜は少し変わった娘で、言い出したら聞かんのです。それで、婚期を逃してしまって。加部さまとの縁談は、本当に有難い話で、家族みんなで喜んだんですが、本人がへそを曲げてしまって……。自分じゃ、加部安の嫁は務まらないと畏れ多く思っているんだと思いますが……。本当に申し訳ないことで」
人のよさそうな日菜の父親は、何度もそう言って頭を下げた。
「突然の申し出で驚かせてしまって、こちらこそ申し訳ありません。日菜さんが承知するまで、通わせてもらいます」
「あ、いや、でも……」
「御面倒をかけます」
信次郎は今度こそ諦めるつもりはなかった。深く頭を下げる。
それから、時間を見つけては日菜の家に通った。最初は露骨に嫌な顔をされて無視されることもあったが、あの手この手で話し続けると、最近はつっけんどんな態度ながら、話もするし笑うようにもなった。
ただ、そんな信次郎のうわさが養父の耳に入り、別の縁談を進めると言われたのは本気で焦ったけれども……。
◆
「なるほど。ちょうど、その時にわしが声をかけたってわけやな」
信次郎の日菜との思い出話を聞き終わり、三郎は納得した。
厚田村から万年橋を渡り、矢倉村へ入ったところで休憩し、加部家で持たされたくるみの入った菓子をご相伴に預かっているところだった。岩櫃餅と呼ばれる評判の菓子餅らしい。
「まあ、助かったって言えば助かったよ。すぐにでも縁談を進めるって言われてさ。日菜さんからは何度もはぐらかされるし。でも、これで三月の猶予ができたし、その間に日菜さんに承知してもらって、源三さんの炭の取引ができれば、万々歳ってわけだ。だから、協力頼んだ」
「さあ、それはどうやろうな」
「何だよ。話をすれば、協力するっていっただろう」
「わしは、あんたぁと日菜さんが両想いで、親に反対されているっていうなら、協力してやらんこともないと思うたんや。日菜さんがその気でないんなら、無理にってわけにもいかんやろ」
「それは……、それまでに何とかする」
岩櫃餅を噛みしめながら、信次郎はそう宣言する。
「どうしてもその娘さんでないとあかんのか。大尽の家に嫁に行くのは気が引けると思うてはるのかもしれんし、実際家柄が違うと大変やろう。苦労かけるんと違うか」
「日菜さんでないとだめなんだ。初めて見た瞬間から、どうしてもこの人だって思った。他のものは何でも譲れるけど、これだけは譲れねえ。こんな気持ちは誰もわかってくれねえけど……」
「何となくわかるわ……、えにしの深い相手やったってことやろ」
一目見た瞬間から、この人だと胸を捕まれる。そんな痛みを伴う苦しく甘い感情が、三郎にもわからなくはない。
「わかってくれるか。苦労かけるようなことはしねえ。おれがちゃんと仕事をして、文句を言わせなきゃいいんだ」
「ご先祖さまとは、ずい分違うなあ。あいつにもその気持ちがあれば、あの娘とも何とかなったかもしれんのに……」
「ん? 何か言ったか?」
「いや、なんでもあらへん」
小声でつい出たひとり言を、三郎は苦笑しながらごまかした。
亮太郎にもそのくらい強い気持ちがあったのかもしれない。それを胸にしまわなければならない理由があったのだろうか。主君と家来の家に生まれ、あまりにも近くいすぎた二人にしかわからない理由が。
「ま、難しいかもしれんが、頑張りいや」
「何だよ。他人事だなあ」
「そりゃそうや。しょせん他人事やもん。わしは、帰るついでにあんたを爺さんに会わせるってことしか、約束してないからなあ」
「ちえっ」
「さあ、そろそろ行こうか」
香ばしく噛み応えのいい岩櫃餅を食べ終わると、三郎は立ち上がった。ここから、日菜の住む庄屋まではすぐだった。
「ああ」
多少緊張した面持ちになって、信次郎がうなずいた。
第4話 出会い