続編「天明の選択」

第3話 加部安


「ただいま」

つぶれそうな小さな小屋の戸を開けると、囲炉裏端にいた志乃が驚いた顔をして振り返った。

「どうしたんや。そんな恐い顔して」

「……帰ってきたの?」

「そりゃ帰ってくるわ。駄賃をネコババなんかせえへんって言ったやろう」

ふところから包みを取り出して差し出すと、志乃の眉が泣きそうに下がり、その後ゆっくりとほほ笑んだ。

「ご苦労さま。疲れたでしょう。今、夕飯の支度をするからね。囲炉裏で休んでいて」

「……ああ」

ぱたぱたと足音を立て、台所に向かう志乃の後姿を見ながら、三郎はどこかほっとしていた。

帰りを待つ人がいるというのは、悪くない。そんな気持ちはとっくの昔に忘れていたと思っていた。

背負っていた米俵を下ろし、用意してもらったたらいの水で足を洗う。

まだ本調子でないのか、久しぶりに遠出をして、さすがに疲れたらしい。

質素ながら、最低限の必要なものがすべてそろっているこの家は落ち着く。ほんのりと暖かい囲炉裏端に向かい、源三が三郎のために編んでくれたわらの座布団の上に胡坐をかきながら、ほっと息を吐いた。

志乃が包丁でものを刻む心地いい音が聞こえる。

三郎はその後姿を気にしながら、そっと右手に巻かれていた布を取った。傷はもう跡形もなくなっている。

白いきれいな布はほんのり梅の香がした。

これは日菜が織った布だ。しなやかでやわらかい肌触りの布をきちんと畳みながら思った。何の根拠もないけれど。

大事にふところにしまいながら、三郎は苦笑する。

「お待たせ。お腹減ったでしょう」

山菜入りの汁にうどん粉をこねたものを入れたおつみという鍋を囲炉裏の火の上に吊るしながら、志乃が言った。

「三郎が何か思い出したみたいだって、太一が言うから……。もう帰って来ないのかなって思っていた」

椀に汁をすくう志乃がひとり言のように言った。

「思い出したって、急に帰らんことはないやろう。銭も米も預かってはるし、恩人に対してそんな罰当たりなことできん」

「……そうよね」

温かな椀を差し出しながら、志乃が寂しそうに目を伏せる。

「それで、思い出したの?」

「いや。……ようわからんかった。気のせいだったかもしれん」

「……そう」

「そうや。そう言えば……」

三郎は、竹の皮の包みを袖から取り出した。

「何?」

「五平さんにもろうたんや」

「わあ、よもぎ餅?」

包みを開けた志乃が目を輝かせる。

「太一さんが、志乃さんと源三爺さんの分やって……」

「動く人が食べちゃってよかったのに……、ありがとう。爺さまにもあげて来よう」

源三の分をよそった椀とよもぎ餅を盆にのせ、足取り軽く裏口から出て行く。よく通る大きな声で源三を呼ぶと、志乃の声に答えるように、山の木々がわさわさと音を立てた。

ひとりになった三郎が椀の汁をすすると、温もりがのどを通り、腹の方へ、そして、指の先にまでめぐるようだった。

源三の炭焼き小屋は、さらにけもの道を上がったところにある。志乃が嫁に来てからは、源三はそこで寝泊りをしていて、メシの時だけ下の家に通っていたらしいが、膝の具合がよくない今は、志乃が小屋の方に料理を届けていた。

翌日から三郎は源三の仕事を手伝いつつ、炭焼き小屋で寝泊まりするようになった。

朝、山に入り木を伐り出す。背負って小屋まで運び、源三の仕事を後ろから眺める。源三は、炭の焼き方を教えはしなかった。背中を見せるだけだ。

「おめえの仕事が早ええからいつもよりいっぺえ炭ができて助かった」

皺だらけの顔で目を細める源三からそう言われると、汗を流して働くことが心地よく思えてくる。

志乃のいる家でなく、炭焼き小屋で寝泊まりするようになったせいか、太一もそれほどうるさく言わなくなって、それも精神上いいのだった。 

「もう木を伐り出さなくてもいい。おかげでちっとは休めそうだ」

窯いっぱいの炭を焼き終えた後、源三がそう言った。

「そうなんか。やっぱり膝の具合が悪いんか」

「いや。そうじゃねえ。周りの村に配るだけでいいんだ。その分は三郎のおかげでできちまったから、もう必要ねえ」

「だけど……」

この時代、炭は貴重品だ。農村では薪を使う、炭は大名や一部の金持ちが使うだけだ。

売れば高値がつくだろう代物を、源三は近場の村に格安で分け与え、その代わりに米や芋、野菜などをもらって暮らしているらしかった。

「後で、村に運ぶのを手伝ってくれるか」

「もちろん、それはええけど……」

「若けえのがいると、助からあ。道案内はするから」

「いや。この辺りの村なら、だいたい場所はわかる。ひとりで大丈夫や」

「そうか。そんなら頼むべえ」

源三はそう言って炭を束ねた縄に、墨で文字を書きつけた紙を縛り付けた。村の名前と寺の名前。思った以上にしっかりとした文字だった。

どこで習ったのだろうか。腰が曲がり、皺だらけの手をした炭焼きの老人を見ながら、三郎は考える。生まれた時からここで炭を焼いていたわけではないのかもしれない。

「多くできたんなら、よそで売ってええやろうか。高く売れれば、志乃さんにも世話になった礼もできるし……」

「好きにすりゃあいいが、銭なんていらんぞ。志乃に礼がしたけりゃ、世話を焼かれてやるんが一番だ」

源三がそう言うのと同時に、小屋の引き戸がガラリと開いた。

「源三爺さん、膝の具合はどう? 薬草持って来たからつけたら?」

志乃が顔をのぞかせるのを見て、源三がニヤリと笑い三郎の方を見る。三郎も思わず苦笑した。

「なあに?」

「いや。助かるなあ、さすが志乃だ。ちょうど薬を塗り直してえと思っていたところだ」

きょとんとする表情を浮かべた志乃に、源三が大げさに言う。

「そうでしょう。この薬草はよく効くから、痛みもすぐ治るわよ」

「ああ。三郎のおかげで仕事もはかどった。しばらくは休めるから、その間にはすっかりよくなんべえ」

源三の皺だらけの顔の目尻にさらに皺を寄せた。

「三郎の背中のケガはどう? 薬塗ってあげようか」

志乃が目を輝かせて三郎を見たので、三郎の顔が引きつる。

「あ、いや……。わしは……」

「三郎の背中なら、もうだいぶよくなった。なんなら、わしが後で塗ってやる」

しどろもどろになった三郎をかばうように、源三が言った。

「そう? じゃあ、もっと多めに薬草作っておくね」

志乃はそう言って、小屋を出て行った。

足取り軽く、これから家に戻り、薬草を煎じる作業をするのだろう。

「……」

三郎は、薬を塗り終えた膝をしまっている老人に視線を移した。人のよさそうな老人の仮面を被った男の素顔は、三郎には見えなかった。

横谷村、松尾村、三島村……言われた通りの寺に炭を配った三郎は、残り一束になった炭を背負い、足取り軽く山を越えた。一山超えると故郷の大柏木村に出る。

もう三郎を知る人はいない。だから、安心して故郷を歩く。

「そうか。今日は大黒さんの祭りの日か」

小高い山からぞろぞろと人が降りて来るのを遠くから眺め、三郎はつぶやいた。

山の上に大黒岩と呼ばれる大きな岩があり、その窪みに大黒様が祀られている。年に一度大人たちがご馳走を持ってそこで祭りをする。農作業が休みの日、子どもたちは山に登り、ご馳走を食べるのを楽しみにする。

太陽が西に傾き、祭りの終わった大黒岩の前に三郎は立った。

「久しぶりやなあ」

苔むした大岩に触れると、手のひらの向こうに小さな振動を感じた。この岩は何かを伝えたいかのようにかすかに振動する。

「相変わらず元気やったか。そりゃあ、なによりやなあ」

長い間、形を変えずにそこにあり続ける岩を見ると、ほっとする。同じ姿で取り残されているのは、三郎だけではないという気がする。

「そうか。他のみんなも変わらずおるんか。そりゃよかったわ。楽しみや」

この近くの岩々、へその形をしたへそ岩や、見事な岩肌が見る者を圧倒する岩殿や、慈悲深く子どもを抱く姿の子持ち岩の姿がほんのりと目の奥に浮かび、三郎はほほ笑んだ。

「今日は、ここで休ませてもらおうか」

三郎はそう言って背負子を脇に置き、岩を背に腰を下ろした。背中がじんわりと暖かい。背中の傷はすっかり治っていて、小さなかさぶたに時折痒みが残るのみだ。

三郎は志乃が持たせてくれた味噌おにぎりをほおばった。炭を運ぶ三郎のために、朝早くから志乃が用意してくれたものだ。

『白飯なんて、ぜいたくやろう。せっかくもろうたのに』

細谷の地蔵尊でもらった米俵は、その日まで一度も手をつけていなかった。

『いいのよ。体をつかって働く人に食べてもらうためにあるんだから』

志乃は笑ってそう言って、味噌をぬった手で素早く握り飯を作った。

『だけど……』

『もちろん、爺さまにも食べてもらうから。滋養をつけて、早く治ってもらわないと』

『こんなこと言うのはあれやけど……、爺さまが炭焼きできんようになったら、志乃さんはどないするつもりや。爺さまも心配しとったで。……実家に戻って、再婚したらええんやないかって』

『ええ? 戻る家なんてないけど……』

くすりと笑いながら、他人事のように志乃は言った。

『太一さんのことはどう思っておるんや。一緒になる気はないんか』

『ないなぁ』

三郎の口調をまねて、冗談っぽく志乃は言った。手を止めることなく、視線を動かそうともしない。その本心はわからなかった。

『源三爺さんのことを心配しているなら、わしが面倒をみてもいいで。わしも、炭焼きを教えてもらえればありがたいし……』

三郎は思い切ってそう申し出た。

源三は、三郎がここにいることを望んでいる気がした。おそらく勘のいいあの老人は、三郎がここにいられるよう、思えば最初から気を配ってくれた。

最初は、太一に志乃を諦めさせようとしたのかと思ったが、そうではないのかもしれない。源三のもとから志乃が旅立てるよう、三郎を側に置きたかったのではないか。

そうなったとしても、長いことではない。十年やそこらの話だ。年老いた源三から炭焼きの技術を教わり、その最期を看取るまでここにいればいい。山奥で滅多に人の来ないこの場所なら、少しの間三郎がいたとしても誰も不審に思わない。

『少なくとも、太一はない』

タケノコの皮で包んだ握り飯を三郎の方に差し出しながら、志乃は言い切った。

『……そうなんか? 別に悪い人じゃないと思うけどなあ』

『ええ。とっても、素直でいい子よ。口は悪いけど、ああ見えて働き者だし……。親父さんが早く亡くなって、自分でもいい麻を作るようになったし……。お嫁さんに来たい人はたくさんいるでしょ。こんな年上の未亡人に執着しなくても』

口ではそう言いながら、気を害する様子もなく、志乃は笑みを浮かべながら立ち上がった。

『そうか、だめかぁ』

『いくら周りがいいって思ったって、本人がだめって思えばだめなのよ』

『まあ、そうかもしれんな。……気の毒に』

太一の顔を思い出し、後半はひとり言のような口調になった。

朝の志乃とのやり取りを思い出して、三郎は苦笑した。

「ええ考えやって思うたんだけどなぁ……」

久しぶりにほお張る白米の味はうまかった。ほんのりと甘い。そこに味噌のしょっぱさがさらに甘さを引き立てて、食欲が増す。

志乃と源三と三人で暮らすのは悪くはない。でも、それはほんの一時だ。情が移りすぎれば、悲しい想いをさせるかもしれない。

だったら、志乃が太一の家に嫁ぎ、源三が死ぬまで、三郎が世話をするというのは、誰もがうまくいく方法だと思った。

ほんの少しの間、自分の居場所があるというのは、三郎にとってもありがたい話だったのだが。

『いくら周りがいいって思ったって、本人がだめって思えばだめなのよ』

きっぱりとした潔い言い方は、志乃らしいと言えばそうだが、太一の知らない志乃側の理由でもあるのだろうか。

「あの子もええ話はぎょうさんあっただろうにな……。だめな理由があったんかなあ」

ふところから日菜にもらった布を取りだしながらつぶやいた。

手触りのいい布を大事に触れながら顔に浮かんだのは、日菜ではなく咲の姿だった。自分より強い相手でなければ婿はとらない。咲が頑なにそう言いはった理由は、そのくらいの相手でなければ、沼田の殿様に搾取し続けられている村人を守れないという思いからだった。

咲よりも強いかもしれない聡明な婿候補に出会った時、三郎の胸にはなんとも言えない醜い感情が押し寄せてきた。それが嫉妬という感情だと気付いた時、それ以上咲と一緒にはいられないと悟った。

結局その婿候補、岡登景能の息子は遠い国に移り住むことになった。

その後も、結局咲は婿をとることはなかった。沼田藩が改易になり、代官から名主という立場になっても、家来と協力して村を守った。

「そうか。あいつや。あいつに似てはるのや」

脳裏にひとりの男の姿がよみがえる。三郎が実際にその男と会ったのは、そいつがまだ前髪をそる前だ。ほんの子どもで、咲と村中を走り回っていたずらをしていた。

子どもの頃から、咲に想いを寄せているのはわかっていた。けれど、少しも相手にされていなかった男は、咲が死ぬまでその家来として人生に寄り添っていた。

実直で腕も立つ。それなりにいい男に成長した幼なじみと、咲はなぜだか一緒になることはなかった。男は別の女を妻にめとり、咲は一生婿をとらなかった。

咲が亡くなるまで、三郎は時折遠くからその様子を見に行った。婿をとって子を産んで、幸せに暮らして欲しいという願いがあるのに、咲がひとりでいることを確認してほっとする自分がいる。その矛盾した気持ちは、咲がこの世からいなくなった後までずっと後悔として残った。

『三郎はずっとそばにいてね』

別れたあの日に咲が言った言葉を三郎はずっと忘れたことはない。

三郎の代わりに、咲が死ぬまでずっとそばにいた幼なじみの男。そいつの名前も忘れてしまったが、その面影は信次郎にそっくりだった。

「なあ。他人にしては似すぎているやろ……」

何やら運命めいたものを感じた三郎はそう言って苦笑した。背中ごしで大黒岩がかすかに笑った気がした。

翌朝再び炭を背負った三郎は、大黒岩に別れを告げ、山を下りた。今川の沢まで降りて顔を洗い、石を飛び越えて川を渡る。街道から岩殿を見上げると、新緑が鮮やかに映る。右に曲がると須賀尾宿。左は大戸宿があった。

大戸の名門加部安左衛門の屋敷は、大名屋敷のような立派な石垣の上にあった。白い漆喰の塀にくるりと囲まれた屋敷からは、大勢の使用人たちがそれぞれの仕事に精を出しているのか、威勢のいい掛け声や足音が響く。

「直接表から行っても、入れてもらえんやろうな」

三郎はそうひとり言を言いながら、塀の脇を通り裏門に向かった。気配を消してそっとのぞくと、蔵から大根を持って台所に向かう若い女中の後姿が見えた。開け放たれた勝手口からは、数人の女たちの忙しそうな声が聞こえる。

この家を仕切る女主人も大変そうだと、三郎はため息を吐いた。

岩や地蔵と話をするような変わった娘がここでやっていけるのだろうか。得意な機織りを好きなだけする時間があるのだろうか。

余計な心配だと苦笑しながら先へと進むと、奥まった山際にある離れの建物から男の声が聞こえた。

「信次郎、おまえはまだそんなことを言っているのか」

「お願いです、義父上。仕事は決しておろそかにしません。どうかお願いします」

主人らしき恰幅のいい男が建物から出て来る。それを追いかけ、地べたに手をついて頼み込む若い男は、見覚えのある信次郎だった。

「そうは言っても、先方に断られたというではないか。加部安の誘いを断るとは、ずい分いい身分だと方々で笑いものだぞ」

男がそう言って苦い顔をする。加部家は代々安左衛門の名を踏襲する。年の頃から八代目安左衛門光重に違いなかった。

「他の縁談を進めるのは、もう少し待ってください」

「だがな、加部安の養子は女にうつつを抜かしていると、うわさになってるんだぞ。商売は信頼が大事なんだ。おまえの代で家が傾くようなことがあったら、ご先祖様に申し訳がたたねえ」

「ですから、仕事はちゃんとやります。家に泥をぬるようなことは決していたしません。どうか、もう少し時間をください」

額を土にくっつけるほど頭を下げ、信次郎が頼み込んだ。真剣な表情に、養父光重は、苦々しい顔をしながらも深いため息を吐く。

「あ、あの~」

三郎は、恐る恐る声をかけた。

「な、何者だ」

「あ、怪しいものではございやせん。炭売りでございます」

「炭売りだと?」

「へえ。上等の炭が手に入りやして。加部安さまほど目の肥えたお方なら、この炭の価値をわかってくださるかと思い、失礼を承知でお声がけさせていただきやした」

塀の隙間から顔をのぞかせると、土下座をしていた信次郎と目が合った。

「おまえ……、あの時の……?」

明らかに一瞬動揺し、気まずそうな顔をして信次郎は立ち上がる。

「信次郎、知っているのか?」

「いえ、一度連れの者が助けられたことがあるだけで、何者かはわかりません」

信次郎は、手についた土をはらいながら不機嫌そうに答える。

「そうか。それでは、一度その炭を見せてもらおう。裏口から入ればよい」

「へえ」

光重にそう言われ、三郎は素早く裏門の潜り戸から中に入った。

「こちらでございます」

村の寺で配る分ともうひとつ用意していた炭の束を、三郎は光重の足元に置き、片膝をついて頭を下げた。

「ほう。これは……」

光重がそのうちの一本を手に取った。

「固い。それに、まっすぐ仕上がっているな」

「へえ。曲がった木でも切り込みを入れて窯に入れることでまっすぐになり、一度に多くの炭が焼けるそうです」

「……これは、おまえが焼いたものか?」

「いえ。わしが今世話になっている人が焼いたものです。わしは、まだ手伝い始めたばかりで……」

「源三という爺さんか?」

「え? 加部安さま、ご存知なので?」

思いがけず源三の名前を聞き、三郎は頭を上げて恰幅のいい男の顔を見た。

「雁ケ沢の手前の山の中に、見事な炭焼きの爺さんがいるってうわさは聞いていた。何度か使いを出して確かめに行ったことがあったが、居場所がわからなくて帰って来たり、山に入ろうとするだけでけんもほろろに追い返されたりして、それっきりになっておった」

「へえ。そうでしたか」

加部安が源三のことを知っているのが意外でもあり、さすがだとも思った。こんなに見事な炭が作れるのに、近隣の村の寺にだけ格安の値段で配り歩く源三の行動は、ますます不可解なものに思える。

「この炭は言い値で買おう。いくらでも持っていけ」

光重はふところから巾着袋を取り出し、三郎の膝先に投げた。

手に取るとずっしりと重い巾着は、紐を解くと、中にぎっしりと銭が詰まっている。

「義父上」

金持ちらしい横柄な態度を信次郎が小声でいさめる。

「こんなには……。このくらいが妥当だと」

三郎は、巾着の中から一朱金を三枚手に取り立ち上がる。残りを巾着ごと光重に返す。

「……おまえの名は?」

「三郎と申します」

「三郎か、気に入った。ものの価値はわかっているとみえる。これも持っていけ」

にやりと光重は笑い、巾着からもう二枚の一朱金を取り出して三郎に差し出した。

「……どうも」

試されたのだとわかり、三郎は品のいい着物を着た男を凝視した。

「三郎、定期的に仕入れることはできるか」

「さあ。作っとるのはわしじゃないから、わかりません。今回はたまたま余分にできたので、好きにしていいと言われたから来ただけで」

「ほう。源三の爺さんが、おまえに好きにしていいと言ったか……」

愉快そうな表情で光重がにやりと笑う。

「信次郎」

「は、はい」

「おまえ、三郎と一緒に源三の爺さんのところに行ってこい。無事炭の買い付けに成功できたら、縁談の件は伸ばしてやる」

「本当ですか?」

「ああ。この炭か、それと同等の価値のある取引が三ヶ月間のうちにできれば、周りも加部安の後継ぎとして認めるだろう。縁談はおまえの好きな相手と好きな時期にすればいい」

「は、はい。ありがとうございます!」

「礼を言うのは、取引ができてからだ。三ヶ月過ぎて取引ができなければ、別の縁談の方を進めるぞ」

腰を折って頭を下げる信次郎に、光重は言い放って背を向けた。

「というわけだ。こいつを源三さんのところに連れて行ってやってくれ」

三郎にはそう言い残し、光重は母屋の方に去って言った。

「さすが、天下の加部安の名を継ぐ人や。油断ならんお方やなあ」

三郎はあぜ道を歩きながら、のん気な声で言った。

左手に仙人窟の石段が見える。戦国の世、真田信幸が初陣を飾り、陣を張った場所はこの石段を上った先にある。

地蔵尊の画像

右手に流れる温川を越えた先の山に、北条氏の手子丸城があった。多くの吾妻衆が手子丸城落城に貢献したと伝わる。

廃城になった今は、こんもりとした新緑の山から、おばけ岩と呼ばれる岩の側面が見えるだけだ。このおばけ岩は、線上に四本の岩がまっすぐに立っている。見る場所によっては、四本にも、三本にも、二本にも、一本にも見える。

今の角度からだと、太い岩が二本と言ったところだろうか。

「いい天気で、おばけ岩もよう見えるなあ」

さっきの言葉はひとり言としてとらえたのだろう。返事のない前を歩く男の背中に声をかけた。

「晴れているうちに早く行かなきゃだろう。よそ見している場合じゃねえ」

「まあ、のんびり行こうや。あんたぁも大変やなあ。天下の加部安の名を継ぐのも容易やないなあ」

「おれは、安左衛門の名を継ぐ気はねえ」

速足で歩く速度をゆるめずに、信次郎は投げやりに言った。

「は? そういう訳にもいかんやろう」

「いや。おれは家業を継ぐけど、安左衛門の名は継がねえ。伊能十兵衛の十兵衛を継ぐって約束で、養子に入ったんだ。安左衛門は、おれの後の誰かが継ぎゃあいい」

「へえ……」

あぜ道から山道へ。若い信次郎はずんずんと分け入っていく。大柏木村から三島村へ山を越えるのではなく、大戸村から厚田村を通って行くのは、途中に日菜のいる矢倉村へ寄るつもりなのか。

「伊能ってのは、岩井村の代官だった家やろう?」

「ああ、昔はな。今は、新しい代官がおられる。……まあ、やっていることは同じだ。村人から年貢を集め、村内でもめ事があれば責任を取らされる。昔のように村人を水牢に入れる必要がないだけマシかもしれんがな」

「ああ、懐かしいな……」

咲の隣にいた男と同じ顔をした信次郎から、『水牢』という言葉を聞き、三郎の唇に自然に笑みが浮かんだ。

咲と幼なじみの男が、水牢に入れられる女たちの列を襲い、妨害をした。そのことで、沼田藩から無理難題を押し付けられそうになった。

「何が、懐かしいんだよ。にやにやして、変なヤツ」

信次郎が足を止め、三郎の顔を不審そうに見た。

「あ、いや。その言葉も聞かなくなったもんやって思うたんや。沼田の真田の殿様が改易されてから使われんようなったやろう」

三郎はそう言ってごまかした。

「まあな。真田のお殿様の時代は大変だったって聞くもんな。その頃、女の代官がいたって母上から聞いたことがあるな。強くて美しい人だったって」

「へえ。それって、あんたぁのご先祖さまやろう?」

「まあ、そうかもしれんけど、血のつながりはないんじゃないかな。その女代官は子どもがいなくて、家来の茂木家から養子をもらったんだってさ」

「ああ、せやったなあ。茂木……偉一郎とその息子が亮太郎やった」

「なんで、おまえそんな昔のこと知っているんだよ。百年も前のことだぞ」

信次郎が呆れたような声で言った。その視線も声も、亮太郎にそっくりでめまいがしそうになる。

百年か。もうそんなに経つのか。

咲と別れてから、しばらくは大場の山にこもり、時折様子を見に行った。咲も亮太郎もしばらくはひとりでいたようだったが、亮太郎は妻をめとり、子宝に恵まれた。

いつだったか、三郎がそっと様子を見に行くと、咲の隣にいた亮太郎には、仲睦まじそうな妻がいて、幼い女の子がその周りを走り回っていた。赤子を背負った妻らしき女は幸せそうな顔で、大きなお腹をそっと触れていた。

亮太郎の子どもの誰かが伊能家に養子に入り、その子孫の信次郎が加部安の養子に出された。そして、恐らく亮太郎の生まれ変わりであろう信次郎が、咲の生まれ変わりの日菜と出会うとは……。

「何の因果やろか……」

信次郎が、日菜に執着する気持ちもわからなくもない。前世では主従の家柄に生まれた。好意を持ったとしてもつらいだけだと、幼い頃から気持ちを閉じ込めるしかなかった。

再び出会った運命の人と、今度こそ一緒になりたいと思うのだろう。

山道はなだらかになり、道幅も広くなって、信次郎は三郎と肩を並べて歩き出した。

「それで、源三という人は、炭を売ってくれそうなのか」

「さあ。わからん。もう年寄りだし、そんなに儲けるつもりもないみたいやし。炭を売って儲けるつもりなら、とっくにそうしとるやろう」

「そうだよなあ。義父上の様子だと、そうは簡単にいかないらしいな。周りの村の寺にしか炭を売らないらしい。その寺でも、村で病人が出て、薪を切りだせなくなった家に炭を譲っているらしんだ。金持ちがいくら金をつんでも売らねえ。そういう約束で安く譲ってもらっているんだとさ」

「へえ……」

炭は薪よりも温かさが長持ちする。病人のいる家、特に働き手が動けなくなった家には涙がでるほどありがたいことだろう。

「それに、さっき家の者にも聞いてみたけど、山に入る手前の村で源三さんのことをたずねただけで、無下に断られたって話だ。でも、三郎と一緒なら山で迷うこともないだろうし、うんと言ってもらえるまで粘るつもりだ」

「それで、そんなに大荷物か」

風呂敷包みを背負う信次郎を横目で見つつ、三郎は苦笑いする。

「まあ、それもあるが……。途中でちょっと寄りたい場所もあるんだ」

「ああ。天狗巫女に貢物か」

「そ、そんなんじゃねえや」

露骨に顔をしかめながらも、耳の先を赤くする信次郎を、ほほ笑ましい気持ちと、羨望が混ざり合った複雑な思いで三郎は見つめた。

「機織りの腕前はすごいもんやって、うわさでは聞いたけど。ただ、ちょっと変わった娘さんで、嫁のもらい手もないんやないかとも聞いたで。どこがそんなによかったんや」

「なんだよ。そんなこと聞いてどうすんだよ」

「どうするもこうするもないけど、炭の交渉をするにも、事情がわかってないと協力のしようもないやろう。義父上は別の縁談を進めたがっておるらしいし、天狗巫女があんたと結婚したいかどうがもわからんし」

「聞いたら、協力してくれんのか」

「わからん。そりゃあ、聞いてみてから判断するってことや。そうでなきゃ、別に案内してやる義理もないからなあ」

三郎が意地悪くそうからかうと、しばらく腕を組んていた信次郎が重い口を開いた。

「おれが、日菜さんと初めて会ったんはさ……」

恋敵の話す日菜との出会いの話は、三郎にとって面白いことばかりではなかった。それでも、信次郎の話の中に出てくる日菜の、話し方や仕草までがありありと目に浮かんでくる。

胸に疼く小さな痛みを感じながら、三郎はその話を聞いた。

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第3話 加部安