続編「天明の選択」

第2話 天狗巫女


「それで、雁ケ沢の崖から落っこちたっていうんかい?」

「ええ……」

「崖から落っこちて、濁流に流されて、それっちっとんべえのケガですんだと?」

「まあ、たぶん……」

太一は時間を見つけては、志乃の家にやってくる。そして、ネチネチと三郎を問い詰める。

「それで、雁ケ沢からどこに行こうとしてたんだ?」

「それが、忘れてしもうて……」

「忘れただぁ? そんなことなかんべ。それじゃあ、おめえの家族はどこにいんだ?」

「家族はみなとうに死んでしまったんや……」

「うそついてんじゃあねえだんべなあ。普通あんなところから落ちて無事でいられるかあ」

「昔なあ、雁ケ沢から飛び降りて怪我ひとつしなかった忍びがいたっていうで」

しつこく問い詰める太一に、救いの舟を出したのは囲炉裏端で草鞋を編む源三だった。

「本当か、爺さま」

「ああ。真田信之公と幸村公が甲斐から岩櫃に逃げて来る最中になぁ、吾妻には優秀な忍びがいると聞いたが、さすがにここから飛び降りられるものはおるまいと言ったら、ひとりの忍びが飛び降りて見せたそうだ」

「へえ~」

太一は心底驚いたような顔をする。

「飛び降りて平気な者のいるくれえだから、怪我くれえですむ者もいべえや。若けえから怪我の治りも早かんべ。顔色もいいし、傷も深くなさそうでよかったなあ」

「へえ。おかげ様でだいぶ楽になりやした。すぐ動けるようになりやすんで、そうしたら出て行きやす」

源三の言葉に、三郎はほっとして言った。傷の治りが早すぎることを怪しまれないように、大した傷ではなかったと印象付けたかった。

「無理しちゃだめよ。頭を打っているから、いろんなことを覚えていないんでしょ。傷がよくなったって、よく養生した方がいいわよ」

お勝手で台所仕事をしていた志津が、盆に餅をのせて持ってくる。

「はい。あんころ餅。太一が持ってきてくれたの。悪いわね、こんなたくさん」

「いやあ、滋養のいいもん食って、早くケガ人に治ってもらわないとなあ」

「助かる。ありがとう」

満面の笑みで礼を言う志乃に、太一はへらへらと言ってから三郎をにらむ。暗に早く出て行けってことなんだろう。

「どうも……」

差し出されたあんころ餅に手を出しながら、三郎は居心地の悪い心持ちになる。

薄皮に香ばしく焦げ目がつき、手に取った瞬間くにゃりとやわらかな質感と温もりが伝わる。口に入れると、餡の甘さが広がる。もち米といい小豆といい、上質なものを使っているようだった。

「へえ。うまいなあ」

思わずそう言うと、志乃がうれしそうな顔をしてうなずく。

「そうでしょう。太一のおっかさんのあんころ餅は絶品よね。仏様にもお供えしよう」

軽い足取りで草鞋を脱ぎ、奥の部屋に入っていく志乃の背中に視線を送りながら、太一が「おい」と声をひそめた。

「へえ」

「いいか、おめえ。あいつは困っている者を見捨てられねえ、菩薩のような人だけどなあ。そこに付け込んでよこしまな気持ちを起こしたら、たたじゃおかねえぞ」

志乃よりは若いのだろう。日に焼けているがどこか童顔にも見える男が、顔を近づけてそうすごんでみせる。

「ただじゃおかねえって、あんたぁは志乃さんとはどういう関係なんや」

ほんの少し意地の悪い心持ちになって三郎はたずねた。

「あいつとおれは……」

かっとして顔を赤くした太一が言葉を詰まらせる。

「……お、幼なじみだ」

「へえ、そりゃあ……」

三郎の頬がゆるむ。同時にのど元に苦いものがわき上がってくる。

「大事にせなあかんなあ」

ひとり言のように三郎はそう言って、囲炉裏端の源三に視線を移した。耳が遠いふりをしているのか、源三は我関せずという感じで、黙々と草鞋を編む手を動かしている。

「お、おう」

気の抜けたような声で、太一がうなずいた。

「ああ。弥八が元気な頃に食べさせてあげたかったなあ」

少ししんみりとした表情で戻って来た志乃が、三郎と目が合うとにっと笑みを見せた。

「ほら、遠慮しないでもっと食べな。せっかく作ってくれたんだから」

そう言って、志乃は三郎にもうひとつ手渡し、残りを盆ごと源三の前に置いた。

「爺さまもどうぞ。膝の具合はどう? 村まで運ぶの大変なら、今年は私が行こうか?」

「いや、あんじゃあねえ。あと二、三日もすりゃあ、よくなるべえ」

源三が心配させまいと皺だらけの目尻を下げた。もう桜が咲くころだというのに、今朝は霜が降りた。冷えると膝が痛むと言っていた。

「細谷の地蔵尊に届けるんでしょ。そんなに遠くないし、私だって大丈夫よ」

「だけどなぁ……」

志乃の言葉に、源三は腕を組んだ。

「志乃はやめといた方がいいぜ。途中の人気のない山道は、女ひとりじゃ不用心だ。なんなら、おれが連れて行ってやってもいいけど。細谷の地蔵尊の桜祭りには、矢倉村の天狗巫女の麻が奉納されるっていうし……」

「天狗巫女?」

太一の言葉に、三郎は思わず反応した。

「ああ。知っているかい? 矢倉村の天狗巫女って言えば、有名だからなあ。若い娘だっていうのに、その麻挽きの腕の見事なことっていったら、どんな熟練の者だって敵わねえってうわさだ。おれも、一度見てみてえって思っていたんだ」

「……」

三郎の胸にきゅっと絞られるような甘い痛みが走った。

「……その娘は、もう嫁にいってるのやろうか」

「いや。それがさ、いってねえんだよ。器量よしだからいくらか話はあったろうけど。まあ、時々変なことを言うんで、そのせいでまわりも遠慮しているんかなあ」

「変なことって?」

「子どもの頃から教えてもいねえのに、はるか昔の話をしだしたり、岩や地蔵さんに向かって話しかけたりするんだと」

志乃の問いに答える太一の言葉を聞き、三郎の鼓動の音はなおも大きくなった。

「……」

咲の生まれ変わりの娘に間違いない。そして、あの子はまだひとりでいる。

数年前に遠くから見た時に、あまりに咲に似ているので愕然とした。年頃になった今はどんな娘になっているだろうか。

遠くから一目でも見たいという気持ちと、ここで会ってどうすると止めるふたつの気持ちが混ざり合う。

「へえ。不思議な子もいるのね。でも、親御さんは心配でしょうね。縁談がまとまらないんじゃ……」

「ああ、でも、そういやあ、最近熱心に話を持ちかけているお方がいるって話だぜ。それが、あの大戸の加部安のご子息だっていうから、たまげたもんさ」

「加部安の?」

三郎は思わず太一に聞き返した。

「大戸の加部安に、そんな年頃の息子がいたやろうか」

上州三大尽のひとり、大戸の加部安左衛門のことは三郎も知っていた。代々安左衛門の名前を継ぐ豪農だが、少なくとも三郎の知る限りでは八代目には年頃の後継ぎはいなかった。

「それが何でも、岩井村の伊能家から養子をもらったって話だぜ」

「……」

岩井村の伊能家……。なつかしい言葉を聞いて、三郎の指先に暖かい血が流れるのを感じた。

「まあ、どっちもこの辺りじゃあ名門だからなあ。つり合いがとれているから、ちょうどいいんだろうけど。どっちかと言やあ、その娘と加部安の養子じゃ家柄のつり合いがとれないんで、気後れしているんかもしれんなぁ」

「そうね。家柄があんまり違う家に嫁いだって苦労するだけだもの。つり合いは考えた方がいいわね。太一、あんたも人のこと言ってないでいい年なんだから、つり合いのとれたお嫁さんもらいなさいな。それっこそ、おっかさんが心配して嘆いていたわよ」

「……」

志乃の言葉に、太一の顔があからさまにむっとしたものに変わった。瞳に暗い影がさす。いつもの調子のいい笑みが消え、本気で傷ついている。

こぎれいにはしているが、洗って色のあせた志乃の着物に比べると、太一の着物はぱりっとのりのきいた新しいものだ。

触れられたくないところに、一番触れてほしくない人から手を突っ込まれたというところだろうか。

「わしが行こうか……」

気まずい雰囲気に耐えられず、三郎が口を開いた。

「え?」

「炭を運ぶんやろう。細谷の地蔵尊なら昔行ったことがあるし、あと十日もすれば傷もだいぶよくなるやろう」

「でも……」

「そうだなあ。わしの膝がよくなるより、若いもんの方が、治りが早いかもしれん。年寄りはどこも悪くなる一方で困らあ」

心配そうな志乃の声をかき消すように、源三が続けた。

「じゃあ、三郎に頼むか。太一を道案内に頼めば、あんじゃあねえだろ」

「へえ。世話になっているばかりじゃ気がひけるんで、手伝わせてもらった方が気も楽や」

「……そう?」

志乃は三郎を見てちょっと首を傾げたが、太一に向き直って言った。

「じゃあ、太一頼んだわね。道案内と炭を運ぶの半分手伝ってあげて」

「え~」

「えーじゃない!」

むくれたふりをする太一の瞳には、さっき一瞬見せた暗い影はなくなっていた。いつもの騒々しいふたりに戻って言い合う姿を、源三が目を細めて見ている。

「伊能の家から、加部安の後継ぎにねえ……」

三郎はつぶやいてあんころ餅を口にほお張った。伊能の家を継いだのは、咲の子どもではない。一生独身を通した咲は、どこからか養子をもらって育てていた。

その子孫が加部安の家に養子に入り、咲の生まれ変わりの娘との縁談があるっているのは、不思議な縁に思われた。

「どんなヤツやろうな」

咲の生まれ変わりの娘に会いに行くのではなない。縁談の相手がどんなヤツか確かめに行くのだ。娘にふさわしい男かどうか、それを確認したいだけだ。

三郎はそう自分に言い聞かせていた。

春祭りと秋祭りは、農村の五穀豊穣を祈るものだ。

神社の入口に高い柱が建ち、細長い白い旗が風に揺れるのを見て、ああ、なつかしいと三郎は思った。前に見たのはどのくらい昔のどの村の祭りだったかはわからない。けれど、時代や生きている人は変わっても、祭りを楽しむ人の表情は変わらない。

神社の境内に向かって、幼い子どもたちが連れ立って走って行く。いつもより少しだけきれいな着物を着て、うれしそうに走り回る子どもたちの後姿を見ながら、三郎の頬は自然と緩まった。

細谷の地蔵尊の小さな鳥居をくぐると、風にたなびく五色幕が鮮やかに揺れる。境内には、老若男女が笑いあい、話に花が咲く。地蔵の表情も心なしかうれしそうに見える。

地蔵尊の画像

毎日毎日、畑を耕し、種を撒き、草を刈り、麻を挽き、布を織り……、くり返しくり返し働いている農村の人々にとって、ほっと一息つける骨休みの日だった。

「桜にはちと早かったなあ」

山際に咲く古い桜の巨木は、咲けば見事な桜の花を咲かせるが、今日はまだつぼみが膨らみかけたほどだった。

「本当だよなあ。春祭りだっていうのに、肌寒みいや」

三郎が空を見上げてつぶやくと、隣に歩く太一がそう言って肩をすぼめた。

「おっ。あそこにいるのが、村長だ。さっさとこれ受け取ってもらおうぜ」

境内にムシロを敷いて、笑いあっている男たちのひとりを、太一が指さした。背負った炭を重そうに背負い直す。

「五平さん! 源三爺さんに頼まれて、炭届けに来たぜ」

太一が声をかけると、ひげをはやしたひとりの老人がゆっくりと立ち上がった。

「おめえは、横谷村の太一じゃねえか。わざわざ届けてくれたんかい?」

「源三爺さん、膝が痛いってんで、頼まれたんさ」

「こっちは? 見かけねえ顔だが……」

五平と呼ばれた老人が、三郎に視線を移す。

「ああ。今源三爺さんの家で世話になってんだ」

「三郎と言います。源三さんの代わりに炭を運んできやした」

「へえ」

五平は、細い目をさらに細めて三郎を見た。

「じゃあ、こっちの小屋の脇に置いておいてもらうか」

三郎と太一は、五平の指す地蔵尊の奥にある小屋の脇に、背負ってきた炭を下ろす。

「源三さんは、そんなに具合が悪いんかい」

「膝が痛むって言うんで、重いものを運ぶのはちょっと……。でも、炭づくりには相変わらず精を出しておりやすよ」

心配そうに眉間に皺を寄せる五平に、三郎はわざと明るい声で言った。

二三日たてばよくなると言っていた源三だったが、十日たっても一向に治る気配がなかった。草鞋を編むなどの座り仕事や炭焼き小屋の仕事はなんとかなりそうだったが、木を伐り出し運ぶ作業ができそうになく困っていた。

三郎は世話になった礼に、木を伐り出し小屋まで運ぶ作業を引き受けた。実際、源三よりも早く多い木を伐り出すことができるので、より多くの炭を作ることができた。

「そうかい。源三さんもいい年だから心配したが、元気ならよかった。あの人の作る炭は長持ちして助かるんだ。しかも、格安でゆずってもらえるから、この辺の村じゃあ、みなあてにしている」

そう言いながら五平がふところから取り出した駄賃を、三郎は受け取った。源三の作る炭は上質なもので、町で売ればもっと高い値で売れそうな代物だった。

「へえ。確かに」

源三に言われただけの格安の金額を確かめて、頭を下げる。

「あんたみてえな若いもんが、弟子になって継いでくれたらいいんだがなあ。そうだ、源三さんのところは、孫みてえな娘がいたろう。あんた、その婿ってわけかい」

「いや。こいつは、たまたま拾われて居候しているだけだから、婿になんかなんねえよ」

五平の言葉に、太一がムキになって否定する。

「ええ。太一さんの言う通り、倒れていたところを助けてもらったので、世話になった礼に手伝っているんです」

「そうかい。そりゃ、残念だ。……じゃ、それ、源三さんに渡してくれるか。重くてすまんが」

「へえ」

五平が米俵を一俵指さした。三郎は、炭を降ろして軽くなった背負子に米俵を括りつける。

「それと、これはあんたらにだ。よもぎ餅食いながら帰りゃあいい」

「ちょうど、腹が減ったところだ。五平さん、ありがとうよ」

調子のいい太一が機嫌を直して包みを受け取った。

どんどんと腹に響く太鼓の音が鳴り、お囃子の笛の音が響きだした。かすかに歓声が聞こえるのは、舞台の上で獅子舞が登場したのだろう。

三郎は、神社の石段の途中にある空き地に腰を下ろし、空を見上げた。淡い春の青空に白い雲がぽっかりと浮いている。

「ほら、半分おめえのだ」

六つのうちふたつ手に取り、太一が包みごと三郎に渡した。

「半分にしちゃ、多くないか」

「バカ。ふたつは残して、志乃と源三さんに持って帰るんだよ」

「ああ……」

思ったより優しいところもあるじゃないかと、三郎は自然に顔がほころぶ。

「志乃は、あんこが好きだからなあ。周りに食べさせたがるけど、本当は子どもの頃から、甘いものに目がねえんだよ」

むすっとした顔で、太一がよもぎ餅をほお張る。

「そういやあ、志乃さんが昼飯代わりにって、これ持たされたけど……。太一さんの分もって……」

三郎は腰から下げた巾着の中から、包みを取り出した。出かけに志乃から渡されたものだ。

『本当に大丈夫なの? 重い物背負って、傷が開かない?』

志乃は数日前からずっと心配して何度も同じことを聞いた。

『……帰ってくるのよね?』

それどころか、朝出かける前には不安そうな顔をしてそうたずねた。

『当たり前やろう。売った銭を持ち逃げなんかしたら、罰があたるわ』

そう言って笑うと、志乃はほんの少しほっとした顔をして、それでもなお心配そうな顔で見送った。

「おやきやて。志乃さんの……」

「やった。志乃の手作りかよ」

三郎が包みを出した途端に、太一がそれを奪い取った。

「志乃のおやきはうんめえからなあ」

相好を崩す太一を見て、三郎の口元にふっと笑みがこぼれる。考えていることがわかりやすい。口は悪いが、決して悪人ではないのだろう。

うどん粉を丸めて焼く『おやき』と呼ばれる郷土料理には、味噌がはさまっていた。

甘いよもぎ餅を食べた後のおやきは、さっぱりとした風味が鼻にぬける。

「フキ味噌かあ。志乃のフキ味噌、久しぶりに食ったなあ」

太一が何かをかみしめるように、そう言った。山で採れたフキを茹でて味噌と和えたフキ味噌は、確かにうまかった。

「おめえ、いつもこんなにうまいもの食っていんのか」

「あんたんちの方が、よっぽどええもん食ってんのやろ」

じとっと恨めしい顔でにらむ太一に、三郎は言った。志乃の作る食事はつつましい。身なりといい、食べるものといい、評判の麻を育てている大百姓の太一の家とは比べ物にならない。

「おめえはさ、いつまで源三爺さんの家にやっかいになるつもりだよ。もう怪我も治ったんべや。そろそろ出て行ってもいいんじゃねえかい」

人の言うことなど聞いてはいないらしい太一が唇をとがらせた。

「せやなあ……」

そうするつもりだったが、膝を痛めた源三の代わりに、木を伐り出し小屋まで運ぶ作業は嫌いではなかった。ただ寝ているのは苦痛だが、適度に身体を動かすことは心地よかったし、働くことで感謝をされ、家に戻ると志乃が食事を用意している。久しぶりの人間らしい生活を、三郎は悪くないと思っていた。

「行くところがねえなら、うちで働いてもらったっていい。さっき五平さんも言っていたろう。志乃に変なうわさでもたったらさ……」

「……」

太一の心配は、とにかく志乃のことらしい。志乃の周りに若い男がいることが、誰であっても我慢ならないのだろう。

「そんなに心配なら、さっさと志乃さんを嫁にもらえばええんやないか。源三爺さんも、志乃さんが実家に帰って、別の家に嫁に行ってもええって言うとったで」

意地の悪い心持ちになって、三郎はそう太一に突きつけた。

「……」

太一が明らかにムッとした顔で唇をかみしめ、言いたげに口を開いた。その時だった。

「あ……」

太一の向こうに、ひとりの女の横顔が見えた。石段をゆっくりと登っていく。手には、半紙を巻いた筒のようなものを手にしている。筒からのぞいているのは、麻だ。麻の糸が神々しく金色に光ったような気がした。

「あの子や……」

一瞬見た横顔だけですぐわかった。咲に似た鼻すじと唇。娘らしくきっちりと結った髪。咲ほど日に焼けていない白いうなじ。

思わず立ち上がって、彼女の後姿を視線で追う三郎を見て、太一の眉が不審そうに吊り上がる。

「なんだ。天狗巫女のこと、知ってるんか」

「……いや。どっかで見たような気がしたんや。よく覚えてないんやけど」

記憶をなくしているふりをして、三郎はつぶやいた。

「おおい。日菜さん」

ひとりの若者が、石段を駆け上がって行く。

「あら、信次郎さま。どうかしたんですか」

日菜と呼ばれた娘が立ち止まって振り返った。

その声が鼓膜の奥に響く。数十年眠っていた熱い血が沸騰する。

「どうかしたんですかって、冷てえなあ。細谷に行くなら、送って行くって言ってあっただろ」

信次郎と呼ばれた若い男が、すねたような顔をして、日菜に追いつく。

「あら、冗談かと思いました。だって、天下の加部安さまのご子息に送ってもらう理由がありませんもの」

「本当に、つれねえなあ」 

日菜がそっけなくそう言って石段を上る日菜を、信次郎が追いかけていく。口ではぼやきながらも、嫌そうな顔ひとつしない。健康ではつらつとした若者に見えた。

その横顔をどこかで見たような気がした。実際に会ったのではない。遠い昔、どこかで、信次郎によく似た若者を間近で見た記憶があった。

「あれがうわさの加部安の養子かあ。天狗巫女にご執着とは、本当らしいな」

太一がからかいの混じった声でつぶやいた。ひとり言のような言い方だったので、三郎は返事をしなかった。

「さて、天狗巫女の顔も拝めたし、そろそろ帰るか」

何かを言いかけたことなど忘れたような顔をして、太一が立ち上がる。

「あ、いや。先に帰ってくれんか。ちと、用事を思い出したんや」

「あ?」

三郎がそう言うと、太一が明らかに不審そうな顔をして振り返る。

「おめえな。そんなこと言って、売り上げの銭持って逃げるつもりじゃあんめえな」

「いや。そんなつもりはない。そんなら、これ持って帰ってもらえんやろうか」

さっき受け取った代金を、三郎はふところから取り出した。

「……」

銭の入った巾着をにらんで、少しの間考え込んでいる様子だった太一は、こくりとうなずいて口を開く。

「それは、おめえが頼まれたことだんべ。自分で届けな。おれは先に帰っとく。志乃に聞かれたら、何か思い出したみたいで、どっか行ったって言っとくからな」

太一はそう言って、石段を下って行く。

「へえ。必ず届けるんで、心配せえへんように言っておいてや」

三郎は巾着をふところにしまい、石段を駆け上がった。

境内はさっきよりも賑わっていた。

舞台の上で獅子舞が踊っている。それを囲んで見上げる子どもたち。ゴザの上で酒を酌み交わす男たち。いつもよりほんのりとめかし込んだ着物を褒め合う女たち。

その中から、日菜の姿を探す。

さっき炭を降ろした辺りで、五平と話をしている日菜の後姿を見つけると、そっと人混みをかき分け近付いた。

五平が麻の出来をほめている。

隣に立つ信次郎が何か言い、日菜が見上げてほほ笑んだ。

その笑顔を見て、三郎はほっとしていた。

「……幸せにやっとるんやな」

地味な若草色の着物を着ているが、こざっぱりとした質のいいもののようだった。咲と比べると、その表情は柔らかい。

戦うことなど知らない、農村の娘の表情だ。麻を挽き、布を織る腕前をほめられ、うれしそうに笑う。岩と話をすることで、多少変わった娘と思われているかもしれないが、手に職があるからひとりでも困ることはないだろう。あとは……。

「……変な男に引っかからんとええけどなあ」

もう少しで咲きそうな桜の古木の側に立ち、三郎は信次郎の様子をうかがった。

岩井村の伊能家から大戸村の加部安左衛門の養子になったという男は、三郎の知る伊能代官や娘の咲には似ていなかった。咲には子どもがいなかったのだから、それも当たり前かもしれない。

けれど、どこかで会ったような気がするのはなぜだろう。

ぼんやりと遠い記憶を探っているうちに、大きな太鼓が鳴り響いた。お囃子は早くなり、村人が舞台に集まった。獅子舞と面を被った男が三人、舞台から餅を投げ始める。

「わあ」

「こっち。こっち」

「もっとちょうだい!」

あちこちにばらまかれた餅を目がけて、村人がわらわらと集まる。

日菜の方に目を戻すと、信次郎が餅拾いに日菜を誘っているようだった。日菜が首を横に振り、一歩後ずさる。

その時だった。大地がくらりと揺れた。

「地震か?」

舞台上の男が柱につかまり、村人たちがどよめく。

日菜が体勢を崩し、後ろにあったかがり火の受脚に触れる。頭上の火のない薪の入った籠が大きく傾いた。

「危ない!」

咄嗟に三郎の身体が動いていた。日菜の身体を支えながら、頭上に落ちて来る籠を片手で受け止めた。

思った以上に華奢な日菜の肩。髪からは梅の香がほんのりと漂った。

「大丈夫か。気いつけや」

間近で目が合わないようにそっけなく言って、籠を両手で抱えた。ひとつだけ転がり落ちた薪を拾い上げる。

夕方火を灯すように用意してあったかがり火だろうが、昼間でよかったと思いながら元に戻す。

地震の揺れも収まったようで、再びお囃子が鳴りだした。

「あんじゃあねえかい、日菜さん」

「ええ」

信次郎の問いに答える日菜の声。甘美な声を聞きたい衝動を振り切るように、三郎は背を向けた。

「あ、あの……」

背中ごしに、日菜の声が聞こえた。衝動に抗えず、三郎は立ち止まって振り向いた。

「助けていただいて、ありがとうございました」

日菜が頭を下げる。顔を上げると、三郎と目が合った。

「いや。たいしたことしてないし……」

三郎はめまいに襲われながら、平静を装った。

「でも……。あ、血が……」

日菜が三郎の右手に視線を移す。籠を支えた時に傷ついたのか、親指の付け根に血がにじんでいた。

「こんなの、なんでもあらへん」

「でも……」

日菜がふところから取り出した布を口で割いた。三郎の手を取り素早く布を巻く。

触れた指の冷たさに、のど元にせりあがってくる何かをぐっと飲みほした。

「すまんなぁ」

巻き終えた日菜に礼を言うと、日菜がにこりと笑った。

咲に似ている。けれど、別人だった。竹刀を振り、手裏剣を投げる。強くなるために三郎が力を尽くした咲とは違う生き方をすれば、こんな風に穏やかな表情の女性に育つのだろうか。

「礼を言うのは、こっちの方だ。危ないところを、どうも」

信次郎が日菜の横に立ち、頭を下げた。

「あんたに礼を言ってもらう理由はないわ」

苛立たしい心持ちになって、三郎はそっけなく言った。

「大事な人だったら、自分で守りいや」

信次郎の顔が一瞬、かっと頬に赤みがさした。思っていることが表情に出るのは、育ちのいい証拠だろう。

「ほな」

三郎は踵を返し、速足で石段に向かった。

「あの、ありがとうございました」

日菜の声が追いかけてくる。今度は、三郎は振り返らなかった。

振り返りたい。もっと声を聞きたい。そんな衝動を断ち切り、石段を急いで降りる。

赤い鳥居をくぐった後、一度だけ石段の先を見上げた。お囃子の音が小さく聞こえる。

「元気そうで、よかったわ」

そう言いきかし、日菜が巻いてくれた布に目を移した。

こんな掠り傷なら、あっという間に治ってしまうだろう。こんな布を巻く必要などない。それでも、日菜の手が触れた時、身体が動かなかった。

「あいつがどんなヤツか、確かめんといかんなあ」

三郎は独り言ち、再び歩き出した。

上州三大尽のひとり加部安左衛門の屋敷は知っている。大運寺の側の、見事な石段の上に建ったお屋敷だ。大戸の関所のすぐ先にあるその屋敷の前の街道を何度が通ったことがあった。

加部安の家に養子に入ったのなら、周りから一目置かれ、ちやほやもされるだろう。

それでも、三郎の辛らつな言葉にかっとして殴り返したり、言い返したりすることはなかった。

「それに、あいつ、誰かに似とるんやけど、誰やったかなあ……」

今までめぐり合って、一瞬で過ぎ去った多くの人間の顔を思い出しながら、三郎はため息を吐いた。

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第2話 天狗巫女