続編「天明の選択」

第1話 即身仏


へそ岩の写真

漆黒の闇に、身体が吸い込まれていく。

このまま消えてしまえばいい。この身体も、魂も。

どのくらいの時間それを望み、ここに坐しているのかわからない。空腹も身体の痛みも通り越して、岩の一部に身体が溶けていく。

そんな感覚に襲われて、それからまたどのくらいの時間が経ったのか。

無になったはずの意識のかすか遠くで、つばさのはためく音が聞こえた気がした。

乾ききったはずの唇に何かが滴り落ちくる。意思を裏切った本能がそれをむさぼり、何かを飲み干した。

その途端、今まで忘れていた強烈な空腹を感じた。

目を開けると、まぶしい光と一緒に、生に対する体中の欲求が脳を刺激する。

洞窟の岩肌を背に座っていたはずの三郎の身体は土の上に横たわり、目の前には人間の顔と同じくらいの大きさの大ツバメの顔があった。

「なんや。また、おまえかあ……。生きとったんか」

大ツバメのくちばしには、細い布が垂れ、白い液体が滴っている。瓢箪と、握り飯が三郎の顔の脇に置いてあった。食べ物のうまそうな匂いが鼻をつく。

「おまえ、これ、どっから盗って来たんや」

返事の代わりに、大ツバメはばさっとつばさを広げた。大人の背丈くらいあるそのつばさをしまい、小首をかしげる仕草をして飛び立った。もう、自分の役目は果たしたとでも言いたそうに。

猛烈な身体の欲求に逆らえず、三郎は握り飯をほお張った。久しぶりに何かを咀嚼し、胃に入れる感覚。瓢箪の中は、甘酒だった。ごくごくとむさぼるように飲み干すと、皮と骨になりはてた指先まで、潤ってくるような気がした。

近くでウグイスの鳴き声が聞こえる。

「春かぁ……」

二度と目を覚ますことはないと覚悟を決め、食を絶ちこの乙鳥岩の洞窟にこもったのは秋のことだった。それから、何か月、いや、何年が過ぎたのか見当もつかない。

「仏さんになり損ねたなあ……。また一からやり直しや」

はあっと大きくため息を吐いて立ち上がる。

大きな岩壁にぽっかりと開いた洞窟。その出口に来ると、新緑にはまだ早いが、芽吹く前の木々がそよ風に揺れていた。鳥の鳴き声、リスが木の枝の上を走り回る音。春を喜ぶ命の音があちこちから聞こえ、三郎はそのまぶしさに圧倒された。

「さて、……どうしたもんやろうなあ」

答える者のない問いを口にし、岩壁から飛び降りた。三郎が長く生活の拠点としていた乙鳥岩の洞窟には脇から歩いても行けるが、面倒な時はここから飛び降りる。

「あかんなぁ。だいぶなまっとる」

やわらかな土の上でよろけた三郎はそう言って苦笑し、飛ぶような足取りで山道を下る。

大柏木村大場の山の中、今は住む人もいなくなったこの場所に、三郎はひとり暮らしていた。どのくらいの年月ここにいるかわからない。赤ん坊だった女が年老いて老婆になり、その孫が老人になって死んでいく。その繰り返しを時々遠くから見守る。

気が向けば里に出て暮らすこともあるが、十年もすれば皆おかしいと気付く。その前に姿を消すしかない。

三郎は不老不死だった。

誰も来ることのない山の中に、いつだったかひとりの老人がやって来た。老人は、生きているのか死んでいるのかわからないような骨と皮だけの風貌で、光の宿らない目をしていた。

『おや、ここは、神様の住まう山というのは本当のことでしたか』

気配を消していた三郎に、老人はそう語りかけてきた。

『いや。わしは神様なんかやない。あんたこそ、何者や。本当に人間じゃないのか』

『残念ながら、まだまだ人でございます。ただ、仏になるための修行をしにここにお邪魔させていただいております』

『仏になるための修行? 修行なんかせんでも、死ねばええだけやろ』

鼻で笑って言った。

人は誰でも死ぬ。そして、多くのものは悲しんで涙を流してもらい、手を合わせてもらえる。人は死ぬことで仏になるのだ。

自分以外の人間はみな。

『ただ死ぬのではありませぬ。生きながら仏になる修行でございます』

今まで会った誰よりも年老いた風貌の男は、そう言って唇の端で笑った。

『あんたぁ、目が見えてないんか』

三郎は思わずたずねた。

目はこっちに向いているのに、瞳孔は動いていない。皺だらけの目元の奥に光が見えなかった。

『さよう。わしは今即身仏の修行の最中です』

『即身仏?』

聞いたことはあったが、実際にそれをする者があるとは思わなかった。生きながら墓に入り、仏になるという。ただ死ぬことと何が違うのか三郎には理解できなかった。

『木食修行と言って、山に籠っております。数年かけて米・麦・豆・ヒエ・粟などの五穀・十穀を絶ち、山に育つ木の実や山草だけで過ごして肉体の脂肪分を落とし、生きている間から即身仏に近い状態に体をつくりあげていく修行です。栄養が足りないせいか、視力はなくなりましたが、あなたさまが普通と違う尊いお方だということはありありと目に浮かびます』

老人はそう言ってうやうやしく頭を下げた。

『尊くなんかないわ。単なる死にぞこないや』

三郎はそう自虐的に笑った。

『あんたも何で、即身仏なんてもんになりたがるんや。人間は何もしなくても死ぬ時は死ぬやろう。わざわざ自分から墓に入らなくたって』

『わしは、既に半分死んだ身なのでございますよ』

『え?』

『わが主、真田安房守の亡くなった日から』

男はそう言って、両手を合わせて見えない目をつむった。

岩櫃城を斎藤氏から奪った真田幸隆・昌幸親子の息子の方だ。関ヶ原の戦いに敗れた真田昌幸は、九度山に幽閉された後、亡くなったとうわさで聞いた。

真田が攻め落とした岩櫃城落城の斎藤氏の様子を思い出し、三郎は口の中に苦々しいものを感じた。

『おや。すごい殺気ですな。何かお気に触りましたかな』

男がにやりと笑う。老人のように見える男は、実はそんなに年をとっていないのかもしれない。

頬はこけ、目の周りはくぼんでいるが、肉付きのよい姿を想像してみるとある男の顔が思い出された。

『殉死ってことか。富澤豊前守ともあろう方が、そこまでする理由もなかろうに……』

『さすが、尊いお方は何もかもお見通しとみえる』

男は声をたてて笑った。

真田昌幸の右腕と呼ばれた吾妻七騎のひとり富澤豊前守は、山田村(今の中之条町)の辺りを治める地侍だった。数々の戦場を生き残り、昌幸に忠誠を誓う現存する者と言えば、思いつくのはそのくらいだ。

『ただ死んで仏になるのと、生きながら仏になるのではまったく違いまする』

『どこが違うんや』

『それがしが選んだ道ということでござる』

暗い瞳に一瞬光が灯った気がした。ただ、豊前守が言った言葉は、三郎には理解しがたいことだった。

『まあ、おわかりにならなければよい。まあ、試しに即身仏のなり方もお教えしましょう』

豊前守はそう言って、愉快そうに笑った。

その時教わったやり方を思い出して試みたというのに、結局死ぬことも仏になることも叶わなかった。

「くそっ! とんだほら吹きだったもんやな」

誰に言うこともなく口にすると、足元の枝がピシリと音を立てて割れ、さわさわと新芽が揺れる。

これからどうやって生きていったらいいのか。そう思案しながら、足は無意識に独呑の井の方に向かう。

いつでも一人分の湧き水が溜まっている小さなくぼみのあるその岩の水は、どんな日照りの日でも涸れることはない。

「ああ、久しぶりやなあ」

声をかけるとその岩の水は、慈悲深い輝きでかすかにさざめいた。

「……そうか。元気にしとるか」

言葉に反応するように、水面が再び揺れる。

「あれから、何年経ったんやろうな。最初に見たんが赤ん坊の頃で、最後に見たんがいくつくらいやろうか。十かそこらか。あん時にも、ひいさんに似てきて驚いたわ」

不思議なことに、この岩の水は、三郎と縁の女の子が生まれ変わる度に、その水の色が変わる。「……もう年頃の娘になったやろうな。嫁にも行ったかもしれん」

胸にチクリと刺す痛みを感じた瞬間、水面にポチャッと小さな波紋が広がった。

岩が元気づけてくれているのだとわかり、三郎の頬がゆるんだ。水を両手ですくい、口に含む。

体中に潤いが満ちて、背中を押されたような気がした。

「ありがとう。行ってくるわ」

三郎はそう言って、大場の山を後にした。

最初に生まれ変わったのは、岩櫃城主斎藤氏の姫だった。それがわかると、三郎は家臣になりたいと申し出た。剣の腕前なら誰にも負けない。相手の陣地に忍び込み、情報を得る諜報活動もたやすい。

三郎はすぐに城主に気に入られ、側近として働くことになった。城が攻められると、奥方や子どもたちを守るよう命じられた。子どもたちを先に逃がし、奥方を助けようと目を離した一瞬の隙だった。もう逃げられないと諦めた家臣によって姫君は殺された。

次に生まれ変わったのは岩井村の代官の娘で、三郎はここでも代官に気に入られ、娘の用心棒兼指南役として暮らした。三郎は、代官の娘咲を厳しく愛情を持って鍛えた。どんな運命にも負けないように。

咲は強くかしこく美しい少女に育った。そして、年頃を迎える頃、三郎は彼女の前から姿を消した。

それから途方もなく長い時間が流れた。再び生まれ変わったのは、矢倉村の庄屋の娘だった。赤ん坊が健やかに育つのを遠くから見に行った。次に見たのは五歳の頃、家のそばの地蔵と楽しそうに話をしていて確信した。

次に会いに行ったのは、その子が十歳の頃だった。麻を挽き、布を織る手伝いをしていた。一目見てめまいがするかと思った。その姿は咲にそっくりだった。

一山越えて、娘のいる村に行こうか三郎は迷っていた。

行ってどうするというのか。元気な姿を一目見て、隣に似合いの男がいれば安心するのか。腹の底から煮えたぎるような醜い感情が再び沸きあがってくるのではないか。

何百年もの間、たったひとりの女の子が生まれ変わるのを待っている。そのくせ一緒にいられるのはほんの一瞬で、後は身を切られるような別れが待っている。ならば、なんのために生き続けるのか。

そんな苦しみから逃れるために、すがるような思いで即身仏になる方法を試してみたのに。

「あの人は、仏になれたんやろうか」

三郎はつぶやいて苦笑した。

雁ケ沢という深い谷にやって来た頃には、激しい雨が降っていた。

はるか眼下に渓流が流れている。ごつごつとした岩と黒く濁った水がごうごうと流れる。

「おお、勢いがええなあ。……ここから落ちたら死ねるやろうか」

バカなことを考えて、その甘美な思いつきに自然と笑みが浮かぶ。考えるより先に、身体がふらりと前に傾いた。

土砂降りの雨と一緒に三郎の身体は、冷たい谷へと吸い込まれていった。

気が付くと、目の前に女の顔があった。どこかで見覚えがあった。

母に似ている。高貴な人と許されざる関係になり、京から上州の大場に逃れて三郎を産んだ母のはかなげな顔。

「あ、目を覚ました。あんた、あんじゃあねえかい?」

声をかけられてはっとした。雅な京ことばではなく、耳慣れた上州の言葉だ。

「たまげたよ。川沿いに倒れていたんだよ。もう死んでるんかと思うほど冷たくてさ」

よく見ると日に焼けた女だった。質素だがぱりっとした着物を着て、髪をゆるくまとめている。かかあ天下と呼ばれる上州の働き者の女という雰囲気だった。

「何か食べられそう? 芋粥ならすぐにできるけど……」

食べ物の名前を聞いた途端、口の中に唾液が沸いてくる。ごくりと飲み干すと同時に、腹の虫が鳴いた。

「じゃあ、用意するね」

女が目尻を下げ、立ち上がった。

釣り目がちな気の強そうな女だったが、笑うとやわらかい雰囲気になる。その表情が、冷たく気高かった母が、時折三郎に見せた表情に似ていた。

もう長いこと、母の顔を思い出すこともなかったのに。

女は囲炉裏に薪をくべ、火の勢いを強くしている。板間に囲炉裏、土間に勝手所があるだけの狭い小屋のような家。

板間の端に敷かれた布団の上から三郎は辺りを見渡した。決して裕福そうではないが、かまど・かめ・土瓶などあるべきものがしかるべき場所にあるという印象を受けた。

囲炉裏の火がパチリとはねる音。粥のいい匂いが狭い部屋に広がる。

こんな風に誰かに看病をしてもらうなど、どれくらい昔のことだろうと記憶を探るも、思い出せなかった。

それだから、母の顔を思い浮かべたのかもしれない。

「さあ、食べられるだけ食べた方が、傷の治りもよくなるよ。背中にひどいケガがあってさ。どっから落っこちればあんなにひどいケガになるんだか」

女がそう言いながら椀に入った粥を持ってくる。

三郎が身体を起こそうとすると、背中と肩のあたりが鋭く痛む。

「まだ、動いちゃだめだよ。食べさせてあげるから、無理しないで」

「いや。……大丈夫や」

顔をしかめながらも、ゆっくり起き上がる。肩の骨が折れたのだろう。違和感があったが、それは回復したらしかった。慎重に右腕を動かして確認する。岩と濁流にもまれ、割けた背中の傷はまだ痛みがあったが、数日もすればふさがるだろう。

「遠慮することはないよ。長く夫の看病をしていたからね。こういうのは慣れっこなんだ。……でも、さすが若いと治りもいいんだねえ。しばらくは動けないかと心配していたのに」

三郎に椀を差し出しながら、女は言った。三十路手前といったとところか。笑うと目尻の下に皺が寄り、それが冷たい佳人の印象を少し和らげた。

「迷惑をかけて、すみません。旦那さんは……?」

「二年前に死んだ。今は爺さまと二人暮らし。まあ、だから遠慮はいらないよ」

カラッとした声でそう言って、女は立ち上がった。土間に降り戸を開けると、遠くの山に響くような大声で「爺さま!」と呼ぶ。

こだまのように「おおい」という声がかすかに聞こえた。

「爺さまは、この先にある炭焼き小屋で寝起きしているんだ」

女は振り返ってニッと笑う。

「私は、志乃。爺さまは、源三。あんたは……?」

「……三郎」

三郎はしぶしぶとそう答える。

一口すくって食べた芋粥は、とびきりうまく身体に染みわたった。そう言えば、人が自分のために料理したものを口にしたのはいつ以来だろうか。そんなことを考えた。

「どざえもんが生き返ったって?」

翌朝、男が玄関の引き戸を開けた瞬間そう言った。

「どざえもんじゃないわよ。意識が戻っただけよ」

「だって、あん時は、冷たくってひでえケガで、到底生き返るなんて思わなかったなあ」

布団の上で身体を起こし、苦い薬湯を飲まされていた三郎を、男は珍しいものを見るような瞳で眺めた。

「太一。ほら、そんなにじろじろ見ないの!」

志乃が首根っこを押さえて、男を離れさせる。

「三郎。この子は、太一って言ってね。この間、爺さまが川原で三郎を見つけた時、ここまで運ぶのを手伝ってくれたの」

「この子って言うなよ。ガキじゃあんめえし」

「あんたが、いつまでもガキみたいにじろじろと見るからでしょう!」

志乃がピシリと言うと、太一が不満げに口をつぐむ。

「……ありがとうございました。面倒をおかけして申し訳ありやせん」

迷惑をかけたのだから、礼を言わねばなるまい。三郎はぺこりと頭を下げた。

本当は助けてもらいたくなどなかった。だが、この人たちが助けてくれなくとも、死ぬはずはないのだ。どこかうち寄せられた川辺で、もっと長くつらく苦しい思いをしながら、いずれは回復するだけなのだ。

実際、一晩温かな布団の上で眠り、栄養をとっただけで、背中の傷もだいぶよくなっていた。

「そうだぞ。面倒をかけさせやがって。ここは年寄りと女の所帯だ。怪しいヤツは、とっとと出て行ってくんな」

「太一!」

志乃が怒ったような声を出して、太一の耳をつまんだ。

「痛て!」

「あんたは、何でいつもそう口が悪いの? ケガ人を相手に、そんな冷たいこと言うんじゃないよ! ほら、こっちにおいで!」

「いててて……。なんだよ。引っ張んじゃねえよ」

力じゃ負けないだろうに、太一は大人しく志乃に引っ張られ、外に出て行く。

「まったく、騒がしくて悪いな」

土間で鎌の手入れをしている源三が詫びた。白髪頭で皺の深い老人で、志乃の夫の父親にしては年を取りすぎている気がした。

「いや。あの人の言うとおりや。歩けるようになったら、すぐに出て行きやすんで……」

「まあ、慌てんでも……。志乃は、お節介焼きな性格でなあ。人の面倒を見ている時の方が生き生きするから、もう少し面倒みさせてやってくれや」

「はあ……」

三郎は困惑して、あいまいな返事をした。

見たところ裕福ではなさそうだった。それに、年寄りに女がひとりの家に、身元のわからない男をあげるなど、確かに太一の言う通り不用心とも言える。

「わしの息子も流行り病で死んでな。孫の弥八も長く伏せっていたもんだから、あの子は誰かの面倒を見ないと物足りないんだんべ。まだ若いんだから、実家に戻って再婚したっていいって言っても聞かねえで、わしの面倒をみてくれているんだがな。太一あたりの嫁になるんがいいって思ってるんだが、なかなか言うことを聞かねえんさ」

「……」

「まあ、そんな訳だから、遠慮はいらん。ゆっくり静養すりゃあいい」

「へえ。すみません」

源三は目を細めてうなずき、鎌を手に裏口から出て行った。

ひとりになった部屋で、三郎はふうっと長いため息を吐いた。

本当はもう歩けるくらいに回復していた。夜こっそり出て行こうと思えば行ける。どこか山の中でもう一日じっとしていれば、すぐに傷もふさがるだろう。

「だから、平気だって言っているでしょう。相手は起き上がるのもやっとなケガ人なんだから!」

静かになった部屋は、外からの大声が響く。そっと様子をうかがうと、少し離れた先の小川で、志乃が洗濯をしているようだった。

「それにしたってさあ、じゃあ、うちに連れて行くのはどうだい。うちの方が広いし、納屋だって空いているしさ」

太一が志乃にまとわりついて、説得しようとしている。

「あんな大ケガした人を無理に動かそうっていうの? 傷が開いたりしたらどうするのよ!」

「だってさあ、若い男を連れ込んだって、変なうわさでもたったら……」

「はあ? 私が何かするとでも思ってんの?」

「思ってねえ、思ってねえけどさあ」

「つべこべうるさい! あんたは早く帰んねえと、またおっかさんにどこで油を売って来たんだって叱られるわよ!」

志乃の大声が山の中に響く。ここは村から外れた山の中の一軒家のようだった。そうでなければ、この痴話げんかも村中に筒抜けだろう。

ふっと、三郎は鼻で笑った。

志乃と太一が一緒になればいいと源三は言っていたが、志乃にその気はなさそうだ。

「もしかしたら、あのじいさん、思ったより腹黒いかもしれんな」

三郎がここで暮らすことで太一に諦めさせるつもりなのかもしれない。そうすれば、せっかくの嫁を手放すこともない。

「まあ、どうせ時間もあることやし、もう少し世話になるか」

頭の上で腕を組んで、のん気な声でつぶやいた。

「三郎」

しばらくすると、志乃が男物の着物を抱えて戻って来た。帰ったのか、太一の姿は見えなかった。

「はい、着替え」

「これ、どうしたんや?」

「太一の家から借りてきたの」

「……あの人の?」

太一が快く貸すとは思えなくて、思わずほおが引きつる。

「大丈夫よ。あいつは、私の言うことは何でも聞くんだから。それに、その着物も太一から借りたのよ」

「……」

三郎は、思わず自分の来ている肌ざわりのいい縞の着物を見た。

「あんたの着物は背中に大きな穴が開いていたし、血だらけだったから……。一応洗濯は済んでいるけど、布をあてて繕わないと着られねえよ」

「……はあ。いろいろすみません」

志乃にというよりは、太一にすまない気持ちになって、三郎は頭を下げる。

「もう、何度も聞き飽きたわよ。それより、ほら、早く脱いで。熱もあったのよ。汗かいたでしょう。背中の傷も薬を塗り直すから、さらしも取りなさい」

「……あ、いや……」

さっと血の気が引くような心持ちになった。今さらしを取って背中を見られたら、ケガがあっという間に治っていることに気付かれてしまう。

「あ、あの、自分でやるから、外に出ていてくれんか」

脱がされないように着物の前合わせを思わずつかむと、志乃がぷっと吹き出した。

「……?」

「そ、そんなに、生娘みたいに恥ずかしがらなくたって……」

志乃はそう言って肩を震わせて笑う。

「……そんなに、笑わんでもええやろう」

「はい、はい。外に出ていますよ。三郎って、そんな顔して意外に……ねえ」

くすくすと笑いながら、志乃は部屋を出て行った。

「そんな顔って、どんな顔や……」

はあっと大きなため息を吐きながら、三郎はぼやいた。

「いつまでケガ人のふりをすればええのか。ばれる前にいなくなった方が楽かもしれんなあ……」

外からのぞく気配がないことを確認してさらしをとくと、背中の傷はすでにかさぶたになってかゆいくらいになっていた。

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第1話 即身仏