番外編「茜色の空に」
第3話 決意
亮太郎の縁談話は、本人たちの意思とは関係なくとんとん拍子に進んだ。亮太郎の気が変わらないうちにと、両家の親たちが躍起になっているとしか思えなかった。
婚姻前に、相手の女とは一度だけ会った。
屋敷の庭で、インゲンを届けにきた女を母から紹介された。内気な性格で婚期を逃したと母が言ったが、亮太郎と比べればだいぶ若く、小柄なせいか幼く見えた。女はぺこりと頭を下げた後、塀の向こうに視線をさまよわせ、亮太郎と一度も目が合うことはなかった。
婚礼の日も、白い婚礼衣装に身を包んだ女は、うつむきがちに目を伏せたままだった。
咲の父重三郎が珍しく酔っぱらって、歌を歌っている。いつもは寝込みがちな父の顔色もよく、うれしそうに手拍子をしている。
誰もがめでたいと口々に言い合い、亮太郎に酒をつぐ。つがれるままに盃を開けながら、これでよかったのだと亮太郎は何度も自分に言い聞かせた。
今日の咲は紋付の着物を着て、珍しく髪を結って化粧をしていた。隣に座っている亮太郎の父と何かを話し、口元に笑みを見せる。その朱い紅に一瞬見とれていた自分に気付き、亮太郎は小さく首を振った。
ご馳走が並ぶ膳に、インゲンのエゴマ和えが添えてあった。この地方ではインゲンは、フロウと呼ばれる。長寿のめでたい食べ物として、母が祝いの膳に加えたのだろう。
「疲れただろう」
隣に座っている女にそう声をかけた。
「大丈夫です」
酔っ払いの笑い声に消え入りそうな声で、女はそう言いながら角隠しの下で、じっとどこかを見ていた。
「もう少しで終わるから」
誰が相手でも、できる限り幸せにしなければならない。これからずっと、長く一緒に暮らせるよう。自分にかけられた呪いの言葉を頭から追い払い、なるべく優しい声で言う。
小さくうなずきながらも、女の視線の先にいたのは咲だった。
◆
重三郎と偉一郎は二人で飲み明かすと言っていたが、花嫁の身体を気づかい宴は早々にお開きになった。母が気を回してくれたのはありがたかったが、新しい寝所に向かう時に、『しっかりね』と声をかけられ亮太郎はげんなりとした。
嫁の身体を心配したのではなく、一日も早く孫の顔が見たいだけなのだ。
はあっと大きくため息を吐きながら、亮太郎は重い足取りで寝所に向かった。花嫁は、もう準備を整えて亮太郎を待っているはずだ。
覚悟はできているはずなのに、気が重かった。今はなんとも思っていない女を嫁にして、本当に幸せにできるのだろうか。
女は本当に望んで自分に嫁いできたのだろうか。一度も亮太郎と目が合うこともなく、ほほ笑みかけることもないのに。
襖の前に立ち、亮太郎は一瞬ためらった。この向こうでは、女は正座をして亮太郎の来るのを待っているだろう。どんな気持ちでいるのだろうか。仕方ないと諦めているのか。せめて怯えていないといいが。
ふうっと長く息を吐いて、亮太郎は襖に手をかけた。
「ごめん」
まるで道場破りのようなかけ声で、亮太郎は襖を開けた。
「……」
正座をして、怯えた目で亮太郎を見上げた女と目が合う……と、想像していた亮太郎は、畳の上で寝転んで伸びをしている女と目が合い、一瞬ぎょっとした。
「う~ん。緊張した~。ああ、亮太郎さま、すみません。こんな格好で……」
のそっとした動きで、女は起き上がった。乱れた単衣の裾を整える。
「あ……、いや。疲れたろう。気楽にすればいい」
「あ、いいえ。咲さまと同じ部屋の空気を吸っているかと思うと、畏れ多くて……。胸がいっぱいになって、今日は緊張しっぱなしでした~」
「は……?」
どうして今ここで咲が出てくるんだ?
亮太郎は、どこかうっとりしとした表情の女を見下ろした。
「もう間近で見た咲さまの美しさと言ったら……、この世のものとは思えなかった。いつもの男装も凛々しくてすてきですけど、今日の結った髪の艶っぽさと言ったら……。ねえ、亮太郎さまもそう思うでしょ?」
「……」
まかりなりにも初夜の晩に、嫁となる女にそう思うでしょと問われて、何と答えるのが正解なのか。
確かに、今日の咲は美しかった。普段男のようなナリをしているせいで、女の着物を着ただけでこんなにも美しいのかと驚いた。
けれど、隣に嫁になる女のいる前でそんなにもじろじろ見られたものではない。
それに、何なんだ、このよくしゃべる女は。今までは人形のように押し黙って表情を変えずにいたのに。
「あ、えーと……」
ごほんと、空咳をして亮太郎は、女の前に腰を下ろした。
「あ、いえ。ごめんなさい。ちょっと興奮しちゃって……。菊でございます。ふつつかものですが、末永くよろしくお願いいたします」
女は慌てたように言い訳をして、練習してきただろう言葉を口にした。ゆっくりと頭を下げた後、すこし気まずそうにはにかんだ。
そうだ。嫁になる女の名前は、菊だった。そんなことを今思い出す自分に呆れる。
「……咲のことが、そんなに気になるのか?」
「この村の娘で、咲さまのことが気にならない人などいません!」
「そうなのか?」
「そうですよ。あんなに、美しくて凛々しい方は、他にいません。村中の娘が咲さまと結婚したいって思っています!」
咲のことを語る時には、菊は生き生きとした表情になる。目を輝かせる様子は、草を目の前にしたうさぎのようで、人形のように無表情の時よりも好ましい印象に思えた。
「それならば、咲と結婚すればよかったではないか」
夫の目の前で、他の女の話で盛り上がる嫁に、亮太郎はほんの少し面白くない気持ちになって軽口を言った。
「できれば、そうしたかったんです! 咲さまが殿方だったらどんなによかったか……。でも、女の身でありながらあのように頼もしい咲さまだから、こんなにも心惹かれるのだと思うのです」
「だから、咲の近くにいるおれに嫁ごうと思ったのか」
苦笑しながら、亮太郎はどこか納得していた。菊が亮太郎を気に入ってぜひにと勧められたと母が言っていた。ほとんど接点のない女が自分を気に入るはずもないと、信じていなかった。
「はい! 亮太郎さまは、一番近くで咲さまをお守りできる方です。亮太郎さまをお支えすることが、咲さまをお支えすることにもなります」
悪びれる風もなく、菊は満面の笑みでうなずいて続けた。
「ですから、亮太郎さまも私に遠慮することはなく、咲さまを一番にお守りください」
「……」
苦笑いした亮太郎の頬が固まった。
菊は知っているのだ。亮太郎が、誰に想いを寄せているのか。想いを寄せていながら、どうしょうもなく他の女と結婚することも、すべて知ったうえで嫁ぐ気になったというのか。
「……いいのか。それで……」
思いがけず強張ったままの声で問う。その後、すぐに後悔した。
なんのことだ。おれたちは単なる幼なじみで、あんなヤツのことは女だなんてこれっぽっちも思っていないよ。
自分に嫁ぐ女に、そう言って安心させてやる必要があったのではないか。
「いいのです。私たちは、同じ方向を見て、同じ目標で一緒に歩んでいくんです。そういう夫婦がいてもいいのではないかと思うのです」
亮太郎の迷いを見透かしたかのように、菊が言った。
「だけど、おまえはどうしてそんなに咲のことを……」
「十数年前、咲さまに命を助けていただいたのです。盗賊にさらわれて、閉じ込められて、その時に助けに来た咲さまに、抱きかかえられた時の腕の温もりは忘れられません」
「あ、おまえ、あの時の……?」
盗賊にさらわれて、奈津と共に寺に閉じ込められた。まだ、ほんの子どもだった娘。まっすぐに亮太郎を見返す菊の顔に、その時の面影が重なる。
「ああ、そう言えば、亮太郎さまもいましたね」
はっと気付いた顔をして、菊が細い指を口元にあてた。
「あの時はありがとうございました」
ついでのように頭を下げる姿に、亮太郎の顔のこわばりがとける。
あの日、初めて亮太郎が人を斬った日……。咲への想いを確信し、幸せな結婚などできはしないと自分に呪いをかけた日。あの日助けた少女が、大人になって目の前に座っている。
「私は、できるだけ咲さまのお側にいて力になりたい。そう思って過ごしてきました。そのために亮太郎さまの嫁という立場を利用しようとするひどい女なのです。ですから、亮太郎さまも私に遠慮することなく、今まで通りお過ごしください」
「……」
畳に三つ指をつき、まっすぐに亮太郎を見つめる菊の澄んだ瞳を目の前にして、亮太郎の胸の中の何かがじんわりと溶けていく。
くしゅんと、菊が猫のようなくしゃみをした。
「そんな薄着では寒いだろう。風邪をひかれたら困る」
白い単衣だけを着た頼りなさげな肩に手を置こうとして、亮太郎は一瞬戸惑った。
「触れても、いいか」
こんなことを問うのはおかしいと思いつつ、聞かずにはいられなかった。
「もちろん。私は、亮太郎さまの嫁としてここにいるのですもの。覚悟はできております」
武士が腹を切る覚悟ができているかのような表情で、菊は姿勢を正した。
恐る恐る腕を回すと、華奢な身体はすっぽりと亮太郎の腕に収まった。
「この村で何かあれば、おれは命をかけて主を守る。それが、この家に生まれた者の定めだと思っている」
強張ったままの菊の耳元に、亮太郎は語りかけた。
「伊能家には後継ぎが咲しかいない。咲を守ることが、この村の民を守ることだ。そのためにはどんなこともするし、危険の中に飛びこむこともある」
「……」
こくりと、菊が小さくうなずいた。
「だけど、この村が平和な時には、おれは、嫁をうんと大事にするって決めている。できれば、子どももたくさんかわいがりたい。……それでもいいか」
「……」
少しのためらいの後、菊の身体から力が抜けた。返事の代わりに、細い身体が亮太郎にしなだれかかる。
表情は見えなかったが、右の耳が真っ赤だった。
その小さな耳を見て、愛らしいと感じた。大丈夫だ。きっと大丈夫。きっとこの風変わりな女をうんと大事にすることができる。
唇に笑みが浮かんでくるのを感じ、亮太郎は菊の身体をさっきよりきつく抱きしめた。
◆
不審な黒い影に向かって、亮太郎は棒手裏剣を投げつけた。
「うわっ!」
棒手裏剣が黒装束の男の目に刺さり転げまわる。
「おまえ、どこの者だ」
目を押さえた男の首元に刃先をあてて問う。
「……」
男は痛みに顔を歪めながらも、亮太郎をにらんだ。
「これは何だ?」
亮太郎は、男のふところから包みを取り出した。鷹羽の家紋の入った巾着に銭が詰まっている。
「この家紋は、この村の庄屋のものだな。先ほど盗みに入ったコソ泥に間違いないな」
「……ゆ、ゆるしてくれ」
「きさま、見かけぬ顔だな。どこから来た。なぜこの村を狙った」
亮太郎の声が冷たく響く。
「正直に言わねば命はないぞ」
「あ、赤城の方からだ。ここの名主は長く病気で伏せっていて後継ぎもいないと聞いたから……」
「誰から聞いた」
向けられた刃先が男ののどに触れ、ひっと笛のように息が漏れる。
「た、助けてくれ。仲間が言っていたんだ。後継ぎがいない代わりに、天女のような美しい娘が村を治めているってな」
「よく教えてくれたな。女の治める村なら、盗みも簡単だと思ったのだろう」
「……」
コクコクと、かすかに男はうなずいた。
「だが、この村には天女の影となって動く鬼がいるといううわさを聞いたことはないか」
亮太郎は唇の端だけで笑った。
男の目が見開いた。
「仲間に会えたら言ってやるんだな。この村で悪さをする者は命がないと」
亮太郎が刀に力を込めた。目を見開いたまま、男の首が土の上に転がる。
「地獄で仲間に会えたら、な」
立ち上がる亮太郎の背後からバラバラと走り寄る足音が響いた。
「亮太郎さま!」
「もう終わった。後の処理は任せていいか」
「はっ!」
配下の者に死体の処理を任せて、亮太郎は立ち上がった。
夕方、咲に剣の稽古を頼まれている。早く行かないと、機嫌が悪くなるかもしれない。
太陽が西の空に傾きつつある。空が赤く染まりそうな秋の夕暮れ。
米の収穫間際のこの時期は、食べていけない者の盗みが多くなる。それを陰で取り締まるのが、亮太郎の役目になりつつあった。
「亮太郎、どうしたのだ。遅かったではないか」
咲の屋敷の裏庭で、既に用意をすませた咲がいた。
「すまん。庄屋の家に盗人が入ったと聞いてな。今金を取り返してきた」
「そうか。ご苦労だったな。それで、その盗人は?」
「ちゃんと懲らしめて、放ったところだ。もうしないと改心していたぞ」
いつの間にか、平気でうそが吐けるようになっていた。手を汚すのは、自分だけでいい。初めて人を斬ったあの日から、亮太郎はそう覚悟を決めた。
「……そうか。ご苦労だったな」
咲はそう言って目を伏せ、寂しそうに笑う。
……もしかしたら、咲は亮太郎のうそに気付いているのかもしれない。一瞬、そんな風に感じた。
「咲さま~」
「しゃきちゃま~」
塀の向こうから、耳慣れた女の声が聞こえた。裏門から顔を出したのは、菊と四つになる娘の三津だった。
「おはぎ、こしらえたのでよかったら」
菊が嫁に来て、五年が過ぎた。長男の虎太郎はふたつになったばかりで、菊の背中ですやすやと寝ていた。菊の腹の中には、もうひとり赤ん坊がいる。
「お、ちょうどよかった。腹減ってたんだ」
亮太郎が手を出そうとすると、菊の小さな手がピシリと手の甲を打つ。
「いてっ!」
「咲さまのために作ったのだから、あなたは後で。それに何ですか、そんな汚れた手で。洗ってきてください」
「ちぇっ。いいじゃないかよ」
敵の刀はよけられても、嫁の一撃は避けられないから不思議だ。しぶしぶと井戸に向かおうとすると、咲がふふふと笑った。
「おまえたち夫婦は、本当に仲が睦まじいな」
「まあな」
「そんなことありません!」
咲の言葉に、亮太郎と菊の声が重なった。
あははははと、咲の朗らかな笑い声が響く。
「私は咲さまに食べていただこうと思ったんです。それをあの人が先に食べようとするから」
菊が顔を真っ赤にしながら文句を言っている。咲が唇に笑みを浮かべたまま、菊の持つ重箱からおはぎをつまんで口に入れる。
「しゃきちゃま。おいしい?」
「ああ。三津の母上の作るおはぎは格別だなあ」
「うん。父上もだいすきなのよ」
「そうか。そうだよなあ」
井戸の水を汲み上げ、汚れた手を洗いながら、亮太郎は女たちの笑い声を聞いていた。
血で汚れた手は、いくら洗ってもきれいにはならないのかもしれない。
けれど、後悔はなかった。
重三郎は近年病で伏せっている。その代理をしているのは、娘の咲で、それを快く思わない者もいる。女だからと侮って、嫌がらせを仕掛けてくる者も多い。
ただ、咲の傍らには鬼のような大男がいて、右腕となって村を守っている。そういううわさも立ちつつある。
村に何かあれば、咲は我先に敵に立ち向かうだろう。子どもの頃夜忍び込んだ岩櫃山の時のように。そうすれば、亮太郎は命をかけて、咲を守ろうとする。
だから、いつまでもこの村が平穏であればいいと思う。そうすれば、亮太郎は嫁と子どもたちもうんと大事にすることができる。
女たちの笑い声が空に響きわたる。菊に背負われた虎太郎が目を覚ましてヒンと泣く。咲が三津を抱っこしながら、虎太郎をあやしている。
茜色の空をカラスが鳴きながら横切っていく。
咲が遠くの空を見上げて、目を細めた。何を見ているのか、その視線の先を追った亮太郎の耳には、かすかに翼のはためく音が聞こえただけだった。
◆
その後、亮太郎と菊は三男二女の子宝に恵まれ、仲睦まじい夫婦として一生を過ごした。成長した虎太郎は亮太郎の跡を継ぎ、菊の腹の中にいる次男が伊能家の養子となる。
咲に仕込まれて立派に村を治めることになる亮太郎の次男のそのまた子孫が、後に加部安左衛門の養子になり、天明期に三郎と宿命的な出会いをすることになるのだが、それはまた別の物語で。
第3話 決意