番外編「茜色の空に」

第1話 人魂


「縁談話があるんだ。おれも、そろそろ年貢の納め時かな」

亮太郎は重い口を開いた。剣の稽古の後、汗をふいて縁側に腰かけた。そのついでのように。

「そうか。そうだろうな」

隣に座っている咲は、そっけなく答えた。

「咲の相手を見つけるのが先じゃないかって、ずっと思っていたんだが……、親父の具合が悪くてな……」

言い訳をするように、亮太郎は言った。

亮太郎の父は、昔からの胃痛持ちで身体が弱かったが、最近めっきりやせた。早く孫の顔を見せてくれと、母から口うるさく言われていたのを無視してきたが、父の衰え様を見ていると、もうあまり猶予はないと感じる。

父の茂木偉一郎は岩井村の代官伊能重三郎の右腕と言われた家来で、そのひとり娘の咲と亮太郎は幼なじみで姉弟のように過ごしてきた。

咲は、「天狗姫」と陰口をたたかれるようなお転婆で、「男に生まれていたら……」と口癖のように言っていた。ふたつ年下の亮太郎は、いつも咲の後ろをついて遊び、剣術や乗馬の稽古にもつき合わされていた。

こんな関係は、咲が婿をとったら終わるのだろうと覚悟していた。そうすれば、さすがに咲も女らしく家にいるようになるのだろうし、亮太郎は新しい代官となる男に仕えることになる。どんな男がその立場になろうとも受け入れなければならないと、いつの日か覚悟を決めていた。

けれど、咲は縁談話をはしから断り、娘の花の盛りはとうに過ぎた今も亮太郎と剣術の稽古に精を出している。だから、亮太郎もずるずると咲の隣にいる心地よさに甘えてしまっていた。

けれど、それももう終わりにしなければならない。

「おまえは、まだその気にならんのか」

「ああ。なかなかこの人だと思う人がいなくてな。……完全な行き遅れだな。父上もウメも、そろそろ本気で諦めてくれたようだ」

亮太郎の真顔の問いに、咲は苦笑いを含んで答えた。男のような姿をして、髪も短めに切り、ひとつに結わえている。

けれど、唇に笑みを残したまま、長いまつげを伏せた横顔は凛として美しかった。

「まだ、あの方が忘れられないのか?」

「……」

思わずそう問うと、咲がはっとした表情で視線を上げた。

「三四郎さまのこと、お気の毒だったな」

はしから縁談を断り、会いに来た相手を追い返したり、事前にどんな相手か確かめに行って竹刀で叩きのめしたりしたこともある咲が、一度だけ追い返さなかった相手がいた。

岡崎の名代官、岡登景能の三男・三四郎だ。聡明で剣の腕も確かだとうわさで聞いた時には、本気で咲のことはあきらめようと思った。

けれど、岡登代官が東毛へ移った後、切腹して果てたと聞いた。

その名を口にすると、苦しんだり、ほっとしたり、後ろめたかったりする気持ちがよみがえる。亮太郎は少しだけ後悔した。

「え。……ああ」

咲は、なぜだか少し驚いた顔をして視線をさまよわせた。そして、意を決するような表情になって口を開いた。

「なあ、亮太郎。頼みがあるんだが……」

「なんだ?」

「おまえに男の子がふたり生まれたら、ひとり養子にくれんか」

「……」

思いがけない一言に、亮太郎の思考が一瞬停止する。

思いつめたような瞳の咲と亮太郎の間を、赤とんぼがすっと飛んでいく。

「あのさあ……」

突拍子もない申し出に、亮太郎はためらいながらたずねた。

「後継ぎが必要なんだろ。それって、おれとおまえの子じゃだめなの?」

「……」

驚いて亮太郎の顔を見た咲の頬が、夕暮れに赤く染まっている。

沈黙の中、カラスの鳴き声だけが響いた。

「……」

「……わかったよ」

じっと咲の方を見返していた亮太郎は、そう言って目をそらした。そのまま西の空を見上げる。

「おれは、器量よしの嫁をもらって、嫁をうんと大事にして、たくさんの子を産んでもらうよ。それで……」

空は今まで見たこともないほど美しい夕日で赤く染まっていた。

「一番出来のいい子をおまえにやるよ」

「……すまんな」

咲の声がかすれていた。消え入りそうな小さな謝罪……。何に対して謝っているのか、亮太郎にはわからなかった。

「いいんだ。おれはおまえの右腕となって、一緒に生きていけたらそれでいい」

亮太郎はさっぱりとした口調で言って立ち上がる。

なんでもない風に見えたはずだ。そうやって気持ちを押し殺すことには慣れている。

「じゃあな」

亮太郎は竹刀を拾って裏門に向かった。咲の返事はなかった。

咲は今どんな顔をしているのだろうか。振り向いて確かめたい衝動を、亮太郎は押しとどめた。今振り返って、咲が少しでも後悔した顔をしていたら……。亮太郎はきっと駆け寄って咲を抱きしめただろう。

そんなことをしたら、もう二度と元の関係には戻れない。

カラスが笑うように鳴きながら、ねぐらに帰って行く。

「バカなことを……」

自分の屋敷の裏門まで来ると亮太郎は立ち止まった。

西の空はいつの間にか燃えるような火の色から、漆黒の闇に変わっている。

どうして、あんなことを口にしてしまったのか。

養子をくれないかと言われて心が揺れた。誰でもいいわけではないだろう。おれの子なら後継ぎも務まると、自分に対する信頼の表れだと、ほんの少し頬が上気した。

それならいっそのこと、おれとおまえの子じゃだめなのかとたずねた。

その時の咲の心の底から驚いた顔を見て、悟った。こいつはおれのことを、一瞬たりとも男として見たことはなかったのだと。

あんなことを聞くのではなかった。

「……!」

後悔と突きつけられた現実に耐えられず、思わずこぶしを門の柱に打ち付ける。

咲に想う人がいるのは、うすうす気付いていた。

例えば、村内を見回り一息ついた時、咲はいつもどこか遠くを見ている。遠くにいる誰かを思い出しているかのように。そんな時は、声をかけるのがためらわれるほど、切ない表情をして……。

誰かに想いを残しているから、縁談話を断り続けている。わかっていたはずなのに……。

「くそっ!」

二度、三度とこぶしを打ち付けると、鮮血がにじんだ。

「バカだな……」

そうつぶやいて苦笑する。手の痛みなど、胸の痛みに比べればなんでもなかった。それよりもこんな気分のまま、口うるさい母の相手をするのかと思うと気が滅入った。

「亮太郎、遅かったじゃないか。また、あの姫さまのお相手かい?」

やせている父の倍はありそうな体格の母は、勝手口から井戸端をのぞき込んで声をかけた。

「……」

亮太郎は井戸から冷たい水をくみ、桶の水で手を洗いながらもムッと口をつぐんだ。『天狗姫』は咲のあだ名だが、こう言う時は決まって批判の色が混ざっている。いくら美しいと評判だからと言って、代官の娘を姫とは言いすぎだ。

それに、沼田の殿様が改易になり、今は別の代官がこの一帯を治めている。伊能家は帰農し村役人としてその下にいる。まあ、やっていることは今までと大して変わりはないけれども……。

冷たい水に血のにじんだ手を浸すと、さすがに傷に染みる。

「さっきまで、お菊ちゃんがいたんだよ。見舞いにハヤトウリを持ってきてくれてさあ。あんたが帰って来るまで待っていてもらおうと思ったけど、奥ゆかしいからお暇しますって……。まったく、もちっと早く帰って来られないもんかね」

母が早口でまくし立てる。最近、母のお気に入りは父の遠縁の娘だ。十近く若く、口数が少ないのでほとんど話をしたことはない。大人しく目立たないせいか、婚期を逃したこの娘を、亮太郎の嫁にしようとあの手この手を使って画策しているのはうすうす感じていた。

「ああいう子がうちの嫁に来てくれたら、私も肩の荷が下りるんだけどね。料理上手ないい子でさ。お菊ちゃんも亮太郎のことを気に入ってくれているんだけどねえ。後は、おまえが『わかった』とさえ言ってくれればさ」

「……」

話したこともない相手が、どうして自分を気に入るというのだ。いつもなら聞き流すような母の言葉が、今日は胸にざらついた。

苦々しい気持ちが、のど元までせりあがってくる。

「……わかった」

気が付いた時には、そう口にしていた。

「え? わかったって……?」

「だから、嫁をもらえばいいんだろう。もううるさく言わなくてもわかったよ」

「え、え、え……。本当にいいんだね?」

母の見開いた真ん丸な瞳が、亮太郎に向けられる。

「ああ」

そっぽを向いてそう答えると、母は勢いよく屋敷に入って行った。父になにやら報告をしているが、何と言っているかまではわからなかった。

『あなたは、誰とも結婚しない方がいいわ。あなたのお嫁さんになった人は、絶対幸せになんてなれない』

昔、ある女に言われた。

当時はまだ真田伊賀守の統治下で、咲にも縁談がたくさん来ていて、数では負けるが亮太郎にもそこそこの縁談話が来ていた。咲と同様に、亮太郎も相手にしなかった。

岡登代官と息子の三四郎が岡崎を去った後、咲は少し落ち込んでいるようで元気がなかった。

しばらくして落ち着いた咲は、すっかり男のような姿で、領内を駆け巡るようになった。女ひとりでは何かあった時に心配だと重三郎に頼まれた亮太郎は、いつもそれに付き添うのが役目になっていた。

大雨が降った次の日、流された橋を見て来た咲と亮太郎は、村人が集まっているのに気付いた。

『何かあったのかな』

『見て来る』

咲がつぶやくのと同時に、亮太郎は駆け出した。

『本当だ! 本当に見たんだ』

数人の男が立っている中、年老いた男が震えている。

『今朝方まだ暗い時期に安楽寺の方に行ったら、人の声がしたんだ。こんな時にどうしたんだんべえと思って近づいたら、青白い火の玉が……』

『爺さん、なんでそんな時間に行ったんだ』

『昨日柴刈りに行ったんだけど、雨が降って来て慌てて帰る途中、鎌をどこかに落として来たんだ。雨がやんだら探しに行かなきゃと思って』

『安楽寺かあ……』

一同がみな、気持ちが悪そうに眉間にしわを寄せた。

岩井村の安楽寺は、戦国時代に建立した寺だ。もとは、須賀尾にあったものらしいが、村にいられない理由があって岩井村に移って来たといううわさだ。

最近住職が立て続けに亡くなり、次の住職が決まらずにいるらしい。

『やっぱり祟りじゃねえか』

『バカな。そんなことあんめえ』

『だって、前の住職も、かなり苦しんで死んだらしいじゃねえか』

『そりゃそうだが、病気だったんだから仕方ねえだんべ』

『安楽寺のどのあたりで見たんだい?』

口々に言い合う村人の言葉をよそに、亮太郎は人魂を見たと言う老人にたずねた。

『へえ。供養塔から庫裏に向かうあたりで……』

『人の声がすると言うのは?』

『女の泣き声と、それから男の話す声が聞こえた気がしたんで……。今は住職もいねえはずだし、どうしたんだんべえと不審に思って近付いたら……』

『人魂を見たっていうのか』

いつの間にか亮太郎の隣に立っていた咲がたずねた。

『へえ』

『父に言って、後で見に行かせよう。念のため、村の者は近寄らないよう。それから、女子どもは、しばらくの間はひとり歩きさせないように』

『咲さま。ありがたいことで。その様に村中に言って回ります』

村人たちはほっとした顔をして、頭を下げた。

『亮太郎、急ぎ戻るぞ』

咲はそう言って足を早めた。遅れずに後を追う亮太郎は、一抹の不安を覚える。

『咲』

『なんだ』

『おまえ、自分で行くとか言い出さないだろうな』

『……』

恐らく図星だったのだろう。何も言い返さない咲に、亮太郎は続けた。

『さっき自分でも言っただろう。女子どもはひとりで行かせるなと。おまえも一応女なんだからな』

『……』

こいつ、聞いていないふりをして、絶対行く気だな……。

苦々しい気持ちと、諦めに近い感情が同時に胸にやってくる。そんな風に無茶をして、昔夜の岩櫃山に忍び込んだことがある。あの時は死ぬかと思った。三郎という家来がいなければ二人とも命はなかっただろう。三郎は、ちょうど三四郎が去った前後から姿を見なくなった。

『本当に、人魂だと思うか?』

咲が話をそらす。亮太郎の顔をのぞき見て言った。

『さあ。岩櫃山には天狗が出るってうわさがあるくらいだから、あの安楽寺に人魂が出たっておかしくないだろう。いわくつきの寺だし』

『ああ、羽田城の殿様の怨霊か』

『化けて出てもおかしくない殺され方だったらしいからな』

戦国の世、大柏木の羽田城が真田によって滅ぼされた。城は焼かれ、家臣たちや女子供も皆殺しにされた中、お殿様はふたりの家臣に守られ、雪の峠を越えて須賀尾の寺に逃げ込んだ。寺の住職は、やけどをしたお殿様を匿い看病した。しかし、薬と偽って毒を飲ませて殺したという。

その後、村にいられなくなった住職が岩井村に移り住み建立したのが、安楽寺だというのだ。

『まあ、遠い昔の話だし……』

戦国の世、岩櫃城の斎藤氏が攻め滅ぼされ、武田氏に仕えた真田氏が上州の拠点とした。吾妻衆と呼ばれた地侍たちは、斎藤氏を守り亡くなる者もいたが、真田についた者も少なからずいた。

北に上杉、南に北条、西には武田と名立たる武将たちに狙われた上州で生き伸びるためには、力を持つしかない。田畑を耕す一方、武力を磨き特殊な修行をする者も多くいた時代、真田はそんな吾妻衆たちを忍びではなく侍として取り立てた。咲のご先祖もそんな吾妻衆のひとりだった。

『怨霊の方がまだましかもしれんぞ。隣村では夜盗が出たと言うし、女子どもをさらうという話を聞いたことがある。大戸の大運寺では仏像が盗まれたとも聞く』

咲がそう言って口元を引きしめた。

『あのさぁ、さっきも言ったけど、絶対夜中に抜け出して行こうなんて思うなよ。重三郎さまとウメさんには、夜中抜け出すかもしれないから見張りをつけるよう言っておくからな。勝手にひとりで行くなよ』

咲の後ろ姿に亮太郎は言い聞かせる。

『……おまえは、本当に口うるさい。……に、似てきたな……』

『え?』

『いや。何でもない』

不機嫌そうに咲はそう言って、振り返った。

『ひとりでは行かないよ。行く時は、おまえを誘うさ』

面白くなさそうな表情のまま、咲はそう言った。

『父上に報告してくる。今日は、もういいぞ』

『……』

そっけなくそう言って屋敷に向かう咲の背中を、亮太郎は見えなくなるまで目で追った。

咲はずるい。どう言えば、亮太郎が言うことを聞くか、わかっている。ぶつぶつ文句を言いながら、亮太郎がその忠犬のような役割を他の男にはゆずりたくないと思っていることもわかっているのだろう。

『まったく……』

大きなため息を吐いて、亮太郎は自分の屋敷に戻る。

『亮太郎、ちょうどよかった。これ、山根の中家に届けてくれるかい』

井戸で水をくむ暇もなく、母上の声が響いた。

『ええ?』

『父上が出かける準備をするよりか、おまえが行った方が早いだろう。頼むよ』

『父上は、まだ具合が悪いのか』

『うん。まあ……、ちょっとね……』

母が珍しく曖昧な言い方で口ごもる。

『まあ、いいよ。中家だな』

母の遠縁の家で、何度も行き来をしたことがある。方向的には今来た道を戻ることになるが仕方ない。

『うん。ありがとうね』

母から包みを受け取り、それを背中に斜めにかけた。

『行ってくる』

亮太郎は、軽い足取りで駆け出した。

街道に出て東へ向かう。途中で街道をそれ、田んぼ道を経て近道をする。

黄金色の麦畑が広がる。今のところ豊作のようで、豊かな実りの海が風に揺れていた。昨夜の大雨も持ちこたえてくれたのだとほっとする。

順調に育っていても、一度の災害ですべてがダメになることもある。

山向こうでは土砂崩れで小川がせき止められ、田植えの時期に水が行き渡らなかったところがあると聞く。そういう地域では、土地を捨て盗賊になる者もいる。

盗賊が狙うのは豊かな土地だ。今年は豊作だからと安心してはいられない。

うわさの安楽寺がある林を遠目に見ながら通りすぎ、中家に到着すると出てきたのはその家の娘奈津だった。

亮太郎よりはひとつ年下で、咲と同じように美しいと評判の娘だった。引く手あまただろうにまだ嫁ぎ先を決めていないのは、よりいい縁談がくるのを待っているのだろうとうわさをされている。

『ごめん。母から預かってきたのだ。父上にお渡し願えるか』

背負ってきた包みを差し出すと、奈津はじっと亮太郎の顔を見返した。

『それは、ご苦労様です。ちょうど父もおりますので、どうぞ』

能面のような美しい笑みを浮かべて奈津は包みを受け取り、亮太郎を門の中へと促した。

『いや。ただ渡すよう言われて来ただけなので、ここで結構』

『せっかく来ていただいたのに、ただ帰したのでは私が叱られます。どうぞ、中に』

断ることなどできかねる雰囲気で、奈津は言った。

亮太郎の方を見もせず、くるりと屋敷の方に向かう。頭の上に結った長い髪。うなじがびっくりするくらい白い。

同年代の輩たちの中では、評判の美人だが、亮太郎はこの有無を言わさぬ雰囲気がちょっと苦手だった。

『じゃ、少しだけ……』

仕方なく裏門から入り、奈津の後をついて行った。

中家では奈津の父上も母上も上機嫌で、予想以上のもてなしを受けた。奈津は何かを話すわけでもないのに亮太郎の隣で、無表情のまま座っていた。その顔が、さっき見た時よりもほんのりと赤みを指していたことに、この時はまだ亮太郎は気付かなかった。

奈津が亮太郎の屋敷にやってきたのは、それから十日ほど過ぎた頃だった。

『奈津さん、まあ、まあ、わざわざすみませんね。用があるなら言ってもらえば、亮太郎を使いにやったのに』

昼飯の後、縁側で刀の手入れをしていた亮太郎に母の声が届き、亮太郎は正直げんなりした。父上の体調が悪いのは仕方ないにしても、どうしておれが行かねばならんのだ。そんな使いは、使用人にでも頼めばいいだろうに。

『亮太郎。おい、亮太郎』

甲高い自分を呼ぶ声に、亮太郎はむっとして立ち上がった。

無視をすれば、後がうるさいのもわかっている。ため息を吐きつつ、声の方へ向かう。

裏門の前では、奈津が立っていた。背の低く太った母と並ぶと、奈津の細くしなやかな身体が際立って見えた。今日は華やかな薄桃色の着物を着ている。結った髪に、着物と同じ色の玉かんざしを挿していた。

足音で亮太郎に気付いた奈津は、目をそらして、その後ゆっくりと頭を垂れた。

『亮太郎。奈津さんがこの間のお礼だって言って、おはぎをこしらえてくれたんだよ。おまえ好きだったろう。ほら、おまえからも礼をいいな』

なんでおれがわざわざ礼を言わねばならんのだ。この間だって、おれは持って行っただけで、礼をもらうのはおれじゃないだろうに。

『それはかたじけない』

口うるさい母の言葉にそう思ったが、言い返すのも面倒なので、変に大人ぶって礼を言う。実際おはぎは亮太郎の好物だ。

奈津の白い頬が、ほんの少し赤く染まった気がした。

『それじゃあさ、亮太郎。奈津さんを家まで送って行っておやり』

『ええ?』

『いいね。頼んだよ』

不満げな返事は聞こえないふりをして、母はそそくさと屋敷に入っていく。

後には、ツンとした表情のままの奈津と、困惑した亮太郎が残された。

『……あの、先日はありがとうございました』

奈津が目線を下げたまま、再び頭を下げる。

『あ、いや。礼を言われるほどのことでは……』

触れると折れてしまいそうな細い肩と白いうなじに目をやりながら、亮太郎はますます困惑する。

『これを……』

奈津がうつむいたまま、袂から何かを取り出した。

差し出されたのは、男物の巾着のようだった。何か、ちょっとしたものを腰に吊るすのによさそうな大きさの藍色の巾着。

『藍染の布が手に入って、端が余ったものですから。……よかったら』

『おれに……?』

亮太郎がたずねると、奈津がこくりとうなずく。

『それは、かたじけない』

差し出された巾着を広げ、大きさを確認する。丁寧な縫い目で、紐もしっかりとして、走り回っても落とすこともなさそうだ。

『奈津さんは、手先が器用なのですね』

うつむく奈津の頬が、黒髪に刺す玉かんざしの桃色と同様に染まる。

『しかし、……』

どうして、おれに?

わき上がって来た疑問を口にしていいのか、一瞬ためらった。その時だった。

『亮太郎!』

駆けて来る足音と咲の声。意識は裏門の外へと向かった。

『咲、どうした?』

『あ、先客か?』

息を切らした咲が、奈津を見てたずねる。

奈津は咲を見ると、静かに頭を垂れた。

『あ、いや。……それよりどうかしたのか?』

奈津と何を話していたのかも、亮太郎の頭からはすべて抜け落ちていた。

『白山神社に行った女の子がいなくなったって聞いて、探しに行こうと思ったんだが……』

咲がちらりと、奈津の方を気にする素振りを見せる。

『何だって。それは大変だ。奈津さん、すまんがそういう訳なので、今家の者に送らせますから……』

亮太郎は奈津に向かって言った。少しばかり、ほっとした口調になってしまったかもしれない。

『結構です。ひとりで来たのですから、ひとりで帰れます』

奈津は静かな口調だったが、明らかに機嫌を損ねたような目をして背を向けた。

『でも……』

『先に行っているぞ』

一瞬迷った亮太郎を置いて、咲がきびすを返す。

行先の神社の場所はわかっている。だけど、主人の娘をひとり行かせるわけにはいかない。

『じゃあ、奈津さん。気をつけて』

一瞬の迷いをなかったことにして、亮太郎はもらった巾着をふところに押し込み、咲の後を追った。

神社に着くと、数人の村人たちの中心には、老女がしゃがみこんで泣いていた。

『いなくなったという子はどこの子だ』

『キクが、孫娘がいなくなったんです』

顔を上げた老女が、震える声で告げた。

一刻(二時間)ほど前のことだ。十歳になる孫娘と家を出た老女は、途中膝が痛くなって立ち止まったそうだ。孫娘は、自分ひとりで行ってくると走って行った。

いつまでも帰って来ないのを心配した老婆が神社に着くと、そこには倒された賽銭箱と、孫娘が持っていた守り袋が土の上で踏まれていた。

白山神社は、小さい社ながら多くの人が詣でる場所だった。ただ、街道から少し奥まり、大木に囲まれて隠れる場所には困らない。

盗賊たちが賽銭を荒らしているところに少女が知らずに近付いたのか、盗賊たちが女子供をさらうために待ち構えていたのかはわからないが、少女が連れ去られた可能性は高い。

『キクを……。孫をお助けください』

老婆が泣きながら咲にすがる。

『わかった。私たちも手分けして探すから、おばあさんは家に戻っていて……。必ず探し出すから』

咲が老婆の肩に両手をかけた。

『……さ、咲さま……』

それ以上言葉にならず嗚咽の漏れる老婆の背中を優しくさすりながら、咲は亮太郎の方に視線を移す。

『亮太郎、探すぞ。まだ、そう遠くへは行っていないはずだ』

『ああ』

亮太郎は力強くうなずいた。

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第1話 人魂