35.潜龍院と大天狗の二択7


三郎はもう十分、私を守ってくれた。いつ生まれ変わるかわからない女の子を、ずっと待ち続ける。その孤独な時間を強いることは、私にはできない。

『どうしても……、また会いたかったんや。……あんたぁのことが好きやったから』

三郎の想いを知っただけで、もう十分だった。

こくりとうなずいて、笑みをつくる。三郎の選択を、受け止めるつもりだった。

『ありがとうございます』

三郎は大天狗に礼を言って、青い実を手に取った。

ふふふふふっと、低い笑い声が空気をゆらす。

『馬鹿な。おまえは永遠の命を捨て、死を選ぶというのか』

『はい』

三郎の答えに迷いはなかった。

大きく大天狗は笑った。愉快そうに三郎に近付き、何かを耳打ちした。三郎が、大天狗の顔を見上げる。

『地獄への道のりを、楽しむがいい』

大天狗がそう言ってにやりと笑う。

三郎が、青い実を口にした。その瞬間、三郎の魂が消えた。大天狗の姿もいつの間にかなかった。最初からそこには誰もいなかったように。

セミの声がわんわんと空から降ってくる。

私は、空を見上げた。高い杉の木に囲まれた狭い青空。どこまでも遠く澄んだ青空に、赤とんぼが一匹、吸い込まれるように飛んでいった。

「……ううっ」

膝の上で三郎がうなった。

「さ、三郎……?」

何が起こったかわからず、私は三郎の顔を凝視した。眠るように安らかな顔をしていた三郎が、苦しそうな表情に変わる。その手がピクリと動いた。

「どうして?」

あの時、三郎は青い実を食べた。大天狗が言っていた不老不死の永遠の身体は、赤い実だったはずなのに。

「……ち、あの大天狗め」

三郎が顔をしかめて、ゆっくりと起き上がる。

「どうせなら怪我も完全に治してくれればええものを……。大天狗になれるありがたい話を断った罰や。人間と同じように、怪我の痛みも、老いの恐怖も……、地獄のような苦しみをたんと味わえやて。まったく、あいつ、滅茶苦茶性格悪いわ」

そう文句を言う三郎の顔に、赤みがさしている。完全ではないが、怪我もいく分よくなったようだった。

「それって……」

「人間の寿命だけが、残されたってことや。ちゃんと年も取るし、死ねる。……うまくいけば、爺さんにもなれるかもしれん」

「……三郎は、それでいいの?」

私がたずねると、三郎は穏やかな笑みを見せた。

「命に終わりがあると思うと、生きるのが愛おしゅう思えてくる。しかも、あんたぁが生きている時代でや。これ以上の喜びはないやろ」

そう言って三郎が私の髪に触れる。私は、こみ上げてくるものを飲み込んで、こくりとうなずく。

動く度に痛みで顔をしかめる三郎が、ゆっくりとした動作で私の肩に手を置き、そっと抱き寄せた。

長い時間、動くことなくそこにありつづける岩には、不思議な力が宿っている。そう信じられてきた。

大きく威厳に満ちた岩は、しばしば神として崇められる。または、その時代の権力者の力の象徴として利用されることもある。岩山に山城が建てられるのがその一例だ。

また、昔の人は多くの岩や石に名前を付け、親しんできた。形が特徴的なものには、その形に由来した名前がつけられることが多い。

触れると災いが起こる祟り岩。触れると病が治る薬岩。持ち上げると一人前とみなされる力石など、たくさんの種類があるのも特徴だ。

岩は、本来邪魔な存在でもある。畑を耕すのに、道を作るために、人間の生活の中で時々それらは、不要のものとして割られたり、どかされたりすることもある。

それでも、人の寿命よりもずっと長く形を変えない岩は、多くの人々の祈りや信仰に支えられ、今日もそこにある。

『……私の住む町には、そんな岩がたくさんあることがわかりました。これは、自然豊かな山と、その厳しい自然の中で昔の人々が、それらの岩に思いを込めて暮らしてきたからだと思います』

中学校の二学期の始業式の朝、久しぶりに制服のブラウスに袖を通した美紅は、朝食の時間直前まで、リビングのテーブルで自由研究のノートに向かっていた。

「やった! できたあ!」

書き写し終わった美紅が、両手を上げた。そのまま、ばたりと後ろのソファにもたれかかる。

「まったく、もっと早くやっておけって言ったでしょう」

米粉パンとコーンスープ、目玉焼き、インゲンとトマトの朝食を並べながら、私は妹に文句を言う。

「だって、まとめって言われても、全然わかんないんだもん。さすが、妃芽ちゃん! 感謝、感謝」

そう言って、美紅はこっちを見て両手を合わせた。昨夜遅くまでできないと嘆いていたのを見かねて、私が書いてあげたものを今朝書き写したのだ。

「もう二度と手伝わないからね。ずるはダメ!」

「はあい!」

返事だけはいい美紅が、カバンにノートを入れて、ダイニングテーブルについた。

「じゃあ、悪いけど先に行くな」

お父さんがそう声をかけて、慌てて玄関の方に行く。

「うん、行ってらっしゃい! 気をつけてね」

そう言って見送った。お父さんは、最近無茶苦茶忙しい。桜川あゆみの妊娠が発覚したからだ。彼女は、父親の名前を絶対口にせず、芸能活動は一時休止となった。お茶のコマーシャルはなくなったけれど、撮影で撮った映像は、町のPR動画として使えることになった。

月に二重三重の光の輪がかかる夜。たくさんの蛍の光をまといながら、天狗の面を被った天女が岩櫃山から舞い降りる。美しい神秘的な映像は、評判を呼んだ。

『あなたが来るのをずっと待っていた。これからもずっと、あなたの訪れを待っている』

映像と一緒に流れる声は、桜川あゆみのものだ。しかし、天女の役を、彼女が否定したことで、あの天女は誰なのかと話題になった。

潜龍院には映像を見た観光客が押し寄せ、駐車場の整備や看板づくりにお父さんは大忙しだ。お父さんの撮り直した岩カードも、あちこちの店においてもらえるようになり、少しずつ広まりつつある。商工会でもヒロさんが中心となって、マイロックタウンや天狗伝説の里の商品開発にのりだしている。

「おおい、妃芽ちゃん」

チャイムと同時に、涼くんの声が聞こえる。玄関に向かうと、制服姿の涼くんが大きなビニール袋を手に立っていた。

「これ、ばあちゃんの家から。インゲンは今年最後だって」

ずっしりと重いビニール袋を受け取ると、夏の朝のさわやかな匂いがした。

「ありがとう。大事に食べなきゃね」

「……」

お礼を言うと、涼くんがまじまじと私の顔を見る。

「何?」

「昨夜、話題になっている町のPR動画見たけどさあ、あれって、本当に妃芽ちゃんじゃないの?」

涼くんがこっちを見ながら、ぼそっとたずねる。

「え? 違うよ。あんなにかわいいわけないじゃん。ほら、それに私、高いところ苦手だし……」

「ふん」

うまくごまかしたつもりだったけれど、涼くんは全然納得していない表情で、鼻をならした。小さい頃から一緒にいる幼なじみは、やはりあなどれない。

「涼くん、おはよう。一緒に行こ」

朝食を食べ終えた美紅が慌てて出てくる。

「別に、一緒に行かなくてもいいだろう。まだ、時間早いし……」

「いいから、いいから」

美紅が私に目配せして、涼くんの背中を押す。

美紅は、きっとわかっている。わかっていて、何も聞かないでくれている。

あの日の朝帰り、どころか夕方帰りも、美紅がうまくごまかしてくれたらしく、お父さんからも何も言われなかった。

「行ってらっしゃい」

猫のようにじゃれ合いながら家を出るふたりの背中を、私は見送った。

高校の始業式は明後日からだ。ひとりになった家で、ぽっかりと空いた時間。給食のパン屋さんで買った米粉パンを懐かしく味わいながら、ゆっくりと自分の時間を堪能する。

ピロンと電子音が鳴り、テーブルの端に置いておいたスマホをのぞき込んだ。

最近、SNSを始めた。町にある岩や、岩の声に教えてもらった町の偉人たちを紹介するもので、あまり見に来る人も少ない。美紅の自由研究のまとめに使った文章は、実はここで使ったものだ。

あまり見に来る人はいない。けれど、毎日チェックしてくれる人がいる。

その人から写真が送られてきていた。メッセージは何もない。一枚の岩の写真だけ。

それでも、私はそれが三郎からだとわかった。

大柏木の山の中に、三郎の家はあった。正しくは、三郎をかわいがってくれた老人の家だ。身寄りのない老人が亡くなった後、三郎はそこでひとりで暮らしていた。作業着や軽トラックは、その老人から譲り受けたものだったらしい。

そこで静養し、怪我の治った三郎は、旅に出ると言い出した。

『ずっとこの町にいたやろ。町の外の世界を見たいと思うたんや』

『どこに行くの?』

『まずは京に、行ってみる。……父親の墓参りやな』

自分のルーツを確かめたかったのだろう。すっきりとした顔で、三郎が言った。

『また、会える?』

『ああ、会えるやろ。そのうち』

当たり前のようにうなずいて、三郎は続けた。

『あんたぁが、どんな大人になるんか、楽しみや』

『私も、三郎がどんなおじいちゃんになるか、楽しみ』

私がそう言うと、三郎は声をあげて笑った。

『せやなあ。楽しみやなあ』

寿命が残されたとしても、三郎が普通に生活することはできない。はみ出し者の生きづらい時代だと言ったのは、三郎自身だ。

それでも、またいつか会おうと約束するだけで満ち足りた気持ちになる。

三郎は、日本海が見える場所にいるのだろう。海から大きな岩が突き出している。岩には穴が開いていて、その穴の向こうに真っ赤な夕日が見えた。

終わり

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