34.潜龍院と大天狗の二択6


腕をつかまれたまま、私は三郎の隣に座る。ほっとした顔をして、三郎は目を閉じた。

「ありがとう。……あん時、あんたぁは、背中を押してくれたやろう」

「あの時って?」

「昨夜、あいつを封じこめようとした時や。わしひとりでは敵わんかった。誰かが背中を押してくれた」

「あれは、この町の岩たちがみんなで協力してくれたのよ。三郎を助けてって……」

私は三郎の左手を両手で包み込んだ。あの時、力ある岩たちが味方になってくれた。地上に存在する神として崇められた岩も、地中に埋まって大地の一部になっている岩も、一斉に硬度をあげて、悪意を押し留めようとした。

「それでか……。悪霊が誘導した溶岩が、急に勢いをなくしたんや。岩たちが、みんなで守ってくれていたんやなあ。あれがなければ、天明の時のようなひどい噴火になったかもしれん」

「天明の……?」

「あんたぁらが残してくれた浅間石には、特別な気が宿っていた。それを封印の岩にしたのが、功を奏したのかもしれん」

「あの岩は、もうなくなちゃったの?」

「地中深くに封印した。もうやつが出てくることもないやろう。……大事にしていた岩やったのに、悪かったな」

三郎が右手をゆっくりと伸ばし、私の頬にそっと触れた。三郎の手のひらのぬくもり。私はかすかに首を横に振った。

お国さんの記憶を伝えてくれた岩は、もうその役目を終えたのだ。

「三郎が無事でいてくれたら、もういい」

私がそう言うと、三郎が困ったような顔をして目尻を下げた。次の瞬間、顔をしかめ右手を下ろす。

「痛い?」

「ああ……」

さっきよりも顔色が悪い。やっぱりどこか医者に連れて行った方がいいのではないか。

「もう、ええんや」

考えていることがわかったのか、三郎が握っている手に力を込めた。

「でも……」

「いつもならこんな怪我あっという間に治るのに、こんなに痛いのは久しぶりや。けど、もうええ。……このままあんたぁに看取られて死んでいけたら、これ以上の幸せはない」

「そんなこと、言わないで。だって、あなたは……」

不老不死ではなかったのか。言葉にはならず、唇が震える。

三郎が、血を失った青白い顔をして、目を細めた。

「……わしは、山奥で誰にも知られず、飢えて死ぬもんやと思っていた。……渇望していたと言ってもええ。……一月も、二月も、何年かもわからん。誰とも会わず、誰ともしゃべらんでいると、孤独に耐えられなくなって、このまま死んでしまえたらと思うんや」

「……」

「何も食わんようにしても、不思議なことに大ツバメが食べ物を運んできよる。ひもじいくせに、何日たっても何ヶ月たっても、死ぬことはないんや」

そう言って、三郎は苦笑したようだった。

三郎の生きてきた長い長い年月に思いをはせた。年をとらず、病気もせず、死にもしない。村人は十年もすればおかしいと気付く。仲良くなった人に、理由も告げずに別れたことも何度もあるだろう。三郎を知る人が亡くなるまで、三郎は山にこもるしかない。

「こんな風に、あんたぁのそばで眠につけたら、……本望や。なあ、ええやろう」

三郎の右手が、再び私の頬に触れた。いつの間にかこぼれた涙を、三郎が親指でそっとぬぐう。

「……」

小さく首を横に振る。三郎の気持ちに寄り添いたいのに、三郎と二度と会えなくなるのは嫌だった。

「相変わらず、……わがままな姫さんや」

三郎が幸せそうに笑って、視線を境内に移した。

「ここ、なつかしいなあ。ここで剣の稽古をしたもんや」

青空と夏の太陽を覆い隠す高い杉の木。何のために作られたのか、古めかしい四角い台座だけがある。人気のない神社の境内には、セミの声だけが降りそそぐ。

『ねえ、三郎。待ってよ』

女の子の声が聞こえた気がした。三郎を追いかける小さな赤い鼻緒の草履。

『ついてくんなや。剣の稽古をするだけやから、おもしろうないで』

『剣の稽古って言ったって、相手をする人もいないじゃない。私がつき合ってあげる』

『馬鹿言うな。相手できるわけないやろう。怪我させるわけにはいかんで、あっちに行きや』

三郎が、不機嫌な顔で冷たく言い放つ。

「三郎は、いつも意地悪だったわね」

思わずそう言うと、三郎が驚いた顔をして私の顔を見る。それから、ゆっくりと目尻を下げ、私の頭を優しくなでた。

「あなたが稽古をしている間待っていようと思うのに、いつもここで寝ちゃうの」

三郎を追いかけるだけでヘトヘトになった女の子は、待ちきれなくて寝てしまう。三郎の言葉は冷たいが、眠っている女の子の頭をそっとなでてくれる。

「そうやったなあ。わがままで、うるさくて、……かなわんかったわ」

三郎はそう言った後、背中が痛むのか身体を起こして顔を歪めた。肩を支えると、三郎は横向きになって、私の膝に顔をのせた。

「でも、そういうところが、かわいらしい子やった」

境内に視線を向けたまま、三郎はひとり言のようにつぶやいた。

女の子は、愛姫(まなひめ)と呼ばれていた。この辺りを支配する豪族の娘だった。愛姫はいつも、三郎の後を追いかけていた。

身分のある方の子を身籠り、人知れず山奥の村に逃れてきた都の美しい女性。その忘れ形見の三郎は、色の白いきれいな顔をしていた。母親ゆずりの京風のしゃべり方も、耳心地がよかった。それが、自分を邪険に扱う言葉だとしても、ずっと聞いていたかった。

それに、三郎はいつも寂しそうだった。決して上州の言葉に染まろうとはしない。血筋だけはよく、何の後ろ盾のない若者に、村人はどう接していいかわからず、親しくするものはまれだった。

孤独な目をした三郎を、愛姫はいつも追いかけまわしていた。

あの日も、絶対ついてくるなという三郎の言葉を無視して、愛姫はそっと後をつけた。そして、三郎が恐ろしい悪霊に立ち向かおうとするのを目撃した。

悪霊に捕まり、愛姫は殺された。愛姫が最期に聞いたのは、悲痛な声で自分の名を呼ぶ三郎の声だった。

『悪霊を退治しても、娘は帰って来ない。そん時に初めて気付いたんや。わしのことを気にして、かまってくれる人間は、もうどこにもおらんって。……そん時に、初めて孤独っちゅう言葉の意味を知ったなあ……』

三郎の言葉を思い出した。三郎が大天狗と取引をするきっかけが、愛姫の死だった。何百年もの間、愛姫の生まれ変わるのを待つために、大天狗から不老不死の身体を手に入れた。

「……私の、せいなのね」

無意識に、口にしていた。あの時、三郎の後を追わなければ……。三郎の言いつけを守っていれば……。千年もの間、孤独の中に置き去りにすることはなかったのに。

「……」

三郎が、私の手を握った。手のひらが冷たい。

高くなった太陽を高い杉の葉がさえぎってくれる。セミの声だけがじりじりと響く。

はるか昔、このセミの声を聞いた。三郎に背負われて帰る道すがら、眠ったふりをしながら、割れるようなセミの声を聞いた。起きている時は意地の悪い言い方をする三郎は、寝ている時は優しかった。

「あんたぁのせいやない。……わしが、選んだことや。どうしても……、また会いたかったんや」

三郎が、私の手を強く握る。膝に頭をのせる三郎の表情は見えない。ぼさぼさの髪、こめかみの下のにじんで固まった血、とがったあご。

「……あんたぁのことが好きやったから」

顔は見えなくても、三郎が幸せそうに笑ったことは、その声でわかった。

「私も、三郎が大好きだったの。……疎まれても、邪魔にされても、それでも、一緒にいたいって思うくらい……」

一緒にいたい。いつだって願ったのは、それだけだ。

「……あんたぁには、まいるなあ」

手の甲に、三郎の唇が触れた。声に愛おしさがあふれる。この瞬間が、永遠に続けばいいのに。

セミの声が降り続くふたりだけの境内。高い杉の木に閉ざされた境内は、ここだけ別世界なような気がした。

ジーンズ越しに三郎のぬくもりを感じる。ぼさぼさの髪を、指でそっとすいた。安心したのか、三郎の安らかな寝息が聞こえた。

セミの声がうるさいくらいに空から降ってくる。

このまま、ずっと一緒にいられたら……。

「……」

私の手を握っていた三郎の手が、かくんと前に落ちた。膝の上の三郎の頭が急に重くなる。

「……三郎?」

恐る恐る三郎の肩に触れた。ぐらりと物のように三郎の身体があおむけになった。目を閉じたままの三郎の青白い顔。やけどをした背中を板の間につけたのに、痛みで顔をしかめることもない。

三郎は、息をしていなかった。

「三郎! 目を開けて、三郎!」

三郎の肩を揺する。まだ、ぬくもりは残っている。けれど、どんなに名前を呼んでも、三郎は目を開かなかった。

「三郎!」

諦めきれず何度も名を呼ぶ。身体を揺すっても、三郎はぴくりとも動かない。

「そんな……」

全身の力が抜け、指を床につけた。

その時、ふと視線を感じた。いつの間にか、うるさかったセミの声がやんでいる。

境内の片隅に、三郎が立っていた。ぼう然とこっちを見ている。

膝の上には、目をつぶったままの三郎の顔。ここにいるのは、三郎の抜け殻。魂が、私を見つめている。

三郎の魂が、ゆっくりと振り返った。緑の苔に覆おおわれたひときわ太い杉の木、その手前に、何かがいた。修験者のような服装。鼻が長くて真っ赤な顔。手には太い杖を持った、身長二メートルはありそうな天狗だった。

『お久しゅうございます、大天狗様』

三郎の魂が、そう言って片膝をついた。

『ご苦労だった。おまえが天狗道を習得して、昨日でちょうど千年だ。今まで、この町をよく守ってくれた』

『いえ。いたらぬこと、ばかりでありました』

頭の中に直接響く荘厳な声の主に、三郎は深く頭を下げる。

『天狗道を得たことを、後悔しているのか』

大天狗が、三郎の前に音もなく歩み出る。

『いいえ』

三郎が、一瞬こっちに目を向けた。

『……長く、辛い日々でしたが、今思うと、あっという間で幸せな時でもありました』

三郎がそう言って、大天狗を見上げる。

木漏れ日が、三郎の髪に降りそそぐ。三郎は、さっぱりとした顔をしていた。

『そうか。それでは、褒美を与えよう。ここに、ふたつの実がある。そのうちのひとつをおまえに授けよう』

大天狗が、右手に赤い実を持って差し出した。

『赤い実は、我と同じ大天狗になる力を持つ実。再び不老不死の身体を手にし、永遠に山神として祀られる』

さらに、大天狗は、左手に青黒い実を取り出した。

『もうひとつは、地獄へいざなう青い実。これを食べれば、おまえの命は絶たれる』

私は、ごくりとつばを飲み込んだ。

再び不老不死の身体を手に入れるか、このまま死ぬか。残酷な選択に思えた。

三郎がこっちを見た。質感のない透きとおるような三郎の身体、その目だけがしっかりと黒く色を放つ。『もう、ええやろう』と、三郎が言った気がした。

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