33.潜龍院と大天狗の二択5
山道を下り、まばらな集落脇の小道を駆ける。大通りに出て、大戸行き最終のバスに乗り込んだ。
もう今夜中に家には帰れない。
美紅に電話して、今晩は帰らないかもしれないと伝える。お父さんは、おそらく撮影の後打ち上げで遅くなる。
『まかせておいて、うまくごまかすから!』
物わかりのいい美紅が、理由も聞かずそう言った。
『頑張ってね! 妃芽ちゃん!』
好きな人に会いに行くと思われているのだろう。美紅ならうまくやってくれるに違いない。その言葉は心細い背中を確かに押してくれた。
月は再び薄雲に隠れている。濃い藍に近い空。その手前に、山のシルエットが黒く存在感を示す。
明るいところで見た子持ち岩は、あんなにも慈悲に満ちたオーラを放っていたのに、今日は不気味な気配を隠すことはできなかった。
危険、不穏、憎悪、様々な負の空気が満ちて、だんだんと濃くなるような気がした。
終点の大戸に着くと、そこからは徒歩で行くしかない。街灯のまばらな歩道は暗くて足がすくむけれど、急ぐ気持ちが勝った。速足は、駆け足になる。
大柏木入口の三叉路を右に進む。橋を渡った直後、ボンという遠くで何かがはじけるような低い音が響いた。足元が揺れる。
「……地震?」
思わず橋のらんかんをつかんだ。揺れはすぐに止んだ。らんかんの冷たい感触に勇気づけられ、再び走り出す。
向かう先の山の向こうから、灰色の煙のようなものが見えた。胸がぎゅっと苦しくなったのは、坂道を走り続ける疲労のせいだけではない。
何が起こったの? あそこに三郎がいるの?
問いかけても、誰も答えてくれない。焦燥感につぶされそうになる。
急な坂を上りあげると、なだらかな下りになる。その先に寂しいと泣いていた少女のような岩があった。かつては山の上で祀られ、村人から忘れられた岩は、三郎の孤独に寄り添ってくれた。
岩が、私を呼んでいる。
『三郎を、助けて』
「三郎がどうしたの?」
『三郎が、戦っているの』
岩に駆けより、そのごつごつとした岩肌に手を置いた。
その瞬間、脳裏に光の映像が流れ込む。あまりの勢いに一瞬ひるむ。けれど、その光の先に黒い翼が見え、私は目を凝らした。
背中に大きな黒い翼を持つ大きな男が、大岩で穴をふさごうとしている。その姿は、まるで天狗そのものだ。細身の三郎とは似ていない。だけど、三郎に間違いない。抱える大岩は、見覚えのある浅間石だ。
穴からは風が吹き出している。風に押されないように天狗が力を込める。風と共に黒い塊や、毒々しいマグマのような液体が吹き出そうとしているのがわかった。
『助けて。三郎を、助けて』
手のひらから、振動が伝わる。
『悪霊が外に出ようとしているのを、三郎が止めようとしているの。だけど、力が足りない。みんなで協力するから、あなたも力を貸して』
「みんなって?」
他に誰がいるのだろう。私は、目の前の岩に問いかけた。
『この地を形作っているのは、私たちよ』
触れるごつごつとした岩肌が、ほんのりと温かくなった。子持ち岩や、へそ岩や、岩殿や、岩櫃の岩壁や……、人々から見上げられ、崇められた岩たちの力がみなぎってくるのを感じる。
私は、目の前の岩に触れる手に力を込めた。
光の中を凝視する。マグマのような赤い光に押し返され、天狗の翼が炎に包まれた後、姿を消した。
「お願い! 三郎を、助けて!」
思わず叫んでいた。
手のひらに触れる岩が、硬度をあげた気がした。足元の石ころも、山のシルエットも、それに応えるように、固く固く力が満ちる。
赤い光が吹き出している穴がほんの少し小さくなった。傷つき翼を半分なくした天狗が再び姿を現した。
「三郎!」
みんな、三郎を助けて。
背中から風を感じた。大きな力が背中を押した気がした。その気は、私の身体をすり抜け、三郎のいる七不思議伝説の山に向かう。
白い光と、赤い光がぶつかり合い、一瞬何かがはじけた。その後は、暗闇に包まれる。
力を使い果たした私は、寂しがり屋の岩にそっと寄りかかる。
そのまま気を失った。
◆
朝露が額に落ち、目を覚ました。朝もやのうっすらとたなびく。鳥のさえずりが聞こえる。まだ人が起き出す前の始まったばかりの朝。
「三郎は……、三郎はどうなったの?」
目の前の岩に問いかけるも、何の返事もなかった。岩は静かにただそこにあった。
「三郎……」
泣きたい気持ちになって、舗装された道路を山に向かった。薄手のパーカーでは肌寒かった。いつ傷ついたのか、ジーンズが破れ、膝からは血がにじんでいる。
三郎は無事でいるだろうか。
はやる気持ちを抑え、私は足を動かす。いくつかの集落を超え、曲がりくねった坂道を登る。
東の山に太陽が顔を出すと、思い出したかのようにセミが鳴き出した。その途端、のどの渇きを覚える。昨夜から何も口にしていなかった。
今日初めての車が通りすぎる。白い軽トラック。運転席に乗っていたのは、農作業に向かうおじいさんだった。
急な坂道を上りあげると、しばらくはなだらかな道になった。右手前方の斜面の上に、赤い鳥居が見える。入口の石段の前に、人影があった。よろよろと足を引きずるようにして歩く姿に、ドクンと大きくひとつ胸が鳴った。
疲れものどの渇きも吹き飛んで、駆け出す。
「三郎!」
土とほこりにまみれ、こめかみの下から血がにじんでいる。作業着の上着は半分破れ、むきだした腕には、やけどをしたような痕があった。
三郎は私の姿を見つけると、まぶしそうに目を細めてほほ笑んだ。そのまま、よろよろと石段に座り込む。
「三郎。大丈夫?」
そばによって見れば見るほどひどい怪我だ。
「あんたぁが、……近くにおるような気がしたんや」
「救急車を……」
リュックからスマホを出そうとした手を、三郎がつかんだ。その手の甲が、紫に腫れていた。
「あかん。……医者になど、見てもらいとうない」
「でも……」
「あれこれ聞かれてもめんどうやし……。警察に通報されてもやっかいや」
時折痛みに顔をしかめながら、三郎が言った。
「頼みがある。この上に神社がある。そこまで、連れて行ってくれんか?」
あご先で、石段の上の方を指す。
「ここにいたら、目立つ」
「……うん」
本当に病院に連れて行かなくていいのだろうか。一瞬迷った気持ちを押しのけてうなずいた。悪霊と戦って怪我をしたとも、地中から吹きだすマグマを止めようとしてやけどをしたとも、説明するわけにはいかない。
比較的怪我の少ない左腕に肩を回し、立ち上がった。
大きさの違う石を積み上げた古い石段を、一段一段上がる。三郎の息が荒い。支える身体が熱かった。
赤い鳥居をくぐり、石段を上りきると、荒く舗装された農道が二百メートルくらい続いている。三郎がかすかにあごを上げて示した先に、鬱蒼と杉の大木が茂る森があった。そこにも石段らしきものが見える。
農道をそれ、二つ目の鳥居をくぐると、『大柏木諏訪神社(おおかしわぎすわじんじゃ)の杉並木』とかかれた石柱があった。
樹齢何百年だろうか。杉の幹が太い。根っこが侵食したせいで、狭い石段はでこぼこになり、一部が盛り上がっていた。
幹の太い木々は、空に近いところで青青とした葉を茂らせる。上り始めた太陽も、人々の視線からも、ふたりを匿ってくれているような気がする。
神社の境内は、正面にどこの神社でもあるような拝殿があり、賽銭箱がおかれていた。隣には赤い屋根の神楽殿があり、拝殿と渡り廊下で繋がっている。
静まり返る境内。高い立派な杉の木を見上げると、この風景がなぜかなつかしい気がした。
神楽殿の舞台は開け放たれていて、階段で上がれるようになっている。ここなら雨風も防げるし、人の目も日差しも、気にならずにすごせそうだった。
「大丈夫? 三郎」
壁際に腰を下ろして背中をつけると、三郎が顔をしかめた。作業着の上着が大きく破れて、やけどのような赤黒い傷が見えた。
舞台の隅に積んであった丸めたゴザを運んできた。壁と腰の部分にそれをはさみ、傷が直接壁に触れないようにする。
三郎が目をつぶった。荒い息を整えようとしている。
痛々しい姿を見るのが辛くて、私はリュックを下ろして中身を探った。虫よけや、虫刺されの薬、消毒液の入ったポーチとタオルを取り出す。外水道を見つけ、タオルの半分を水に浸して絞った。
三郎の頬の汚れをタオルでぬぐい、折りたたんで、血のにじむこめかみにあてた。
「つっ……」
三郎がかすかなうめき声をあげる。
「痛い?」
「ああ、痛い。……こんなに、痛いもんなんやな」
言葉とは裏腹に、三郎は目を開けてほほ笑んだ。
「ごめん」
「謝ることやない。……痛いっちゅうのは、生きている証拠や」
「冷やした方がいいかな」
「もう、ええ」
もう一度水道へと行こうとした私の腕を、三郎がつかんだ。
「でも……」
「ええから、ここにいてくれ」
三郎の声が、穏やかに響く。
「ここに、いてくれ」
それは懇願のようだった。
33.潜龍院と大天狗の二択5