32.潜龍院と大天狗の二択4


その時にふと頭によぎったのは、大場の七不思議伝説の書き出しだった。あるやんごとなき姫君が許されざる恋に落ち、身籠った子どもを守るために東国に下る。人里離れた山奥で、姫君が産み落とした命が、三郎だ。

テントの隅に小道具の入った箱が見えた。刀や提灯や下駄などの時代劇っぽい小道具が集められている中に、いくつかの面があった。般若、ひょっとこ、白狐……。その中にあった天狗の面を手に取った。

「私が、これをつけて撮影に出ます」

「え?」

驚いた青白い顔が私の手に向けられる。目と鼻だけの天狗の面。これをつければ、見えるのは口元だけだ。

「高いところだから、エキストラには気付かれないと思います。最後のアップのシーンまでに入れ替われば……」

「いいの……?」

涙目のまま、彼女はたずねた。

「岩櫃山は、天狗伝説の舞台でもあるんです。……きっと、天狗様が助けてくれます」

私は、そう言ってこくりとうなずいた。

「これ食べたら、監督にかけあって来る。しっかり食べなきゃ、身体が持たないもんね」

そう言ってハンバーガーにかじりついた桜川あゆみの瞳には、もう涙はなかった。

「……おいしい。パンがふわふわで」

「よかった!」

そう言って笑った彼女と、私は目を見合わせてほほ笑んだ。

生暖かい変な空気だった。足場に上がって空を見上げると、余計に不気味なものを感じた。

さっきまで出ていた満月が雲に隠れる。月も一緒に撮影したいからと、私は足場の上で待機していた。上空は風が強いらしく、雲が勢いよく流れていく。雲がきれたところで、撮影が再開する予定だった。

潜龍院跡の草原ではエキストラが浴衣姿で撮影を待っている。下をのぞくと、豆粒のような人が見えるだけだ。おかげで人前に出るという苦手は克服できそうだ。

「あゆみさん、スタンバイだけお願いしていいっすか」

天狗の面をつけた私を、桜川あゆみだと思い込んでいる佐藤さんが、帯の下に巻かれたベルトに金具をつけた。

私はふうっと長く息を吐く。緊張していると思ったのか、佐藤さんは必要以上に話しかけてこなかった。

高いところは苦手だ。けど、きっと大丈夫。この山は、天狗が守ってくれる山だから。胸の前で指をくみ、鼓動の静まるのを待つ。

大きな黒い雲が、勢いよく流れていく。ほんのりと月明りが戻りつつある。

「準備オッケーです」

トランシーバーで佐藤さんがやり取りしている。

「あゆみさん、お願いします」

「はい」

佐藤さんの合図で、身体がふわりと浮いた。ライトの強い光がこっちに向けられる。まぶしくて目がくらんだ。

下からわあっと歓声が上がった。

次の瞬間、強い風が吹いた。生暖かい不穏な風。身体が大きく揺れると同時に、ガタっとクレーンが止まった。

黒い雲が再び満月を覆い隠した。

「トラブル発生! 撮影、一時中断」

慌てた佐藤さんの声が耳に届く。

「……!」

ライトの光が弱まる。宙づりのまま真正面からの強い風を受ける。風が岩櫃の岩肌にぶつかり、はねかえった。後ろからなま温かな風に包まれる。その時、頭の中にある映像が見えた。

……見たことのある森の風景だった。一本の太い幹の木に寄り添うように、ひとつの苔むした岩があった。

大場の七不思議のひとつ、めくら神だ。三郎が悪霊を閉じ込めて封印した岩。

作業員が太い幹をチェーンソーで切り倒す。ブルドーザーが切り株を根っこごと引っこ抜く。その瞬間、岩が転がった。そこには黒い穴があった。そこから何か黒いものが勢いよく吹き出す。上空に漂うこの不穏な空気は、そこから流れ出ているものだと、その映像は教えてくれた。

「風でロープが引っかかったみたいで、操作ができません」

足場の上で佐藤さんがやりとりをしている。

細い二本のロープだけで身体を中吊りにされ、その先のクレーン自体が風の吹く度に揺れる。嵐の夜の木の葉のようだった。黒い悪意にもてあそばれるように、くるくると身体が回る。

はるか下で、エキストラが悲鳴を上げた。

遠のく意識のどこかで、はためく翼の音が聞こえた。木の葉のように揺れた身体が誰かに抱きかかえられたようにぴたりと止まる。

「月が!」

群衆がどよめいた。月を覆った黒い雲が、そこだけ薄らいだ。満月が姿を現し、そのまわりに二重、三重の光の輪が輝く。

「……三郎」

私は思わず名前を呼んだ。三郎の気配を感じる。すくそばにいて、私を支えてくれている気がした。

「三郎。ごめんなさい。あなたの故郷が……」

『いい。わかっとる』

頭の中に直接響くように、声が聞こえた。

『封印がとけた。ここが終わったら、あっちを片付ける』

「え?」

さっき頭に思い浮かんだ映像は、現実のことだった。あの岩に対面した時の不気味な黒い影を思い出し、ぶるっと身体が震えた。

三郎にもっと早く伝えていたら、こんなことにはならなかったのかもしれなのに。

『大丈夫や。心配すんな。あんたぁの岩を借りてもええか』

三郎の言っている岩が、赤い社の中に収められている浅間石だと気付いた。お国と三郎の思い出の岩。

『手頃な大きさやし、あんたらの思いの詰まっている岩や。きっと、わしに力を貸してくれる』

「……うん」

少しのためらいの後、私はうなずいた。

『ありがとう。礼に、ええもん見せたる。一度しかできひん。ええか、ひめ』

腰の金具が外れた気がした。それでも空に浮かんでいる。かすかに聞こえる羽ばたきの音。

「佐藤さん! カメラ回すように監督に言って」

私は、クレーンの操作と格闘している佐藤さんに声をかけた。

『わしが最後にあんたぁにしてやれることは、これだけや』

しばらくして、やわらかな光に包まれた。エキストラが『わあっ』と声をあげる。二重三重の光に包まれた満月。その方向から、雪が舞い落ちるみたいに、光のつぶが降りて来る。

『笑いや、ひめ』

三郎が耳元でささやく。そっと見上げると、黒い翼が見えた。

私は胸を張って、カメラに向かう。顔の半分は仮面に隠されているから、口元で笑みを見せただけだ。

会いたかった。やっと会えた。あなたに会えない何百年もの時間を超えて、今ここに一緒にいることが、たまらなくうれしい。

岩櫃の山から、天狗の面を被った天女が、光に包まれて優雅に舞い降りる。幻想的な光の正体は蛍だった。

蛍が群衆の方に飛んでいく。

「わあ、きれい」

群衆からため息がこぼれた。蛍に気をとられているうちに、再び闇に紛れて木の陰に降り立つ。

「ありがとう、三郎」

下駄で大地を踏みしめ、私は振り返って礼を言った。

そこに三郎の姿はなかった。木の枝の向こうで翼のはためく音が聞こえただけだった。

「桜川さん」

私は急いで、テントの影に隠れている桜川あゆみに駆けよった。

「一体何が起こったの? トラブルがあったみたいだけど」

「大丈夫です。すぐに交代してください」

戸惑う桜川あゆみに、私は天狗の面を差し出した。

「後はお願いします。私は急いで行かなきゃいけないところができたので……。お父さんに聞かれたら、適当にごまかしてもらえませんか」

切羽詰まった声だったのだと思う。桜川あゆみは、一瞬目を見開いて、それから、頬をゆるめた。

「……好きな人に会いに行くの?」

「はい!」

「そう……」

天狗の面を受け取った彼女の手が私の手をぎゅっと握った。

「本当に、ありがとう」

首を横に振ると、彼女は手を自らの腹にあてる。まだ、少しも膨らんでいるようには見えないその華奢な身体に、愛しい人の命が宿っているのだろうか。

「桜川さん! すごくいい画が撮れたよ!」

スタッフの呼ぶ声が聞こえる。

「撮影、頑張ってください!」

私がそう言うと、桜川あゆみはにこりと笑ってうなずいた。

スタッフ用のテントには誰もいなかった。浴衣を脱ぎ、用意しておいた黒いパーカーとジーンズに着替える。足が痛くなった時のために、念のため持ってきておいたスニーカーに履き替えた。

エキストラの興奮した声が聞こえた。桜川あゆみが登場したのだろう。マイク越しにスタッフが次のシーンの説明をしているらしいが、その声もかき消されそうだ。

みんなが桜川あゆみに視線を向けている間に、私はそっと潜龍院を後にした。

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