27.幕末の薩摩藩士6
「それにしても、遅いねえ。何してんだか……」
朝食の準備が整ったというのに、卓堂も三郎も帰って来ない。ひとりで家にいるのは好きじゃない。目が覚めてふたりがいなかったあの日の不安がよみがえる。
「まったく、仕方ないねえ」
強がったひとり言を吐きながら、お国は勝手口から外に出た。草履の下でざくざくと霜が音を立てる。
大宮神社までは、そうは時間がかからない。口からこぼれる白い息。歩みはだんだん小走りになる。すっかり葉の散った大きな銀杏の木に向かって、お国は足を速めた。
空気を切り裂く音と、固い何かがぶつかり合う音。耳慣れたかけ声と荒い息。
大人が三人手を広げたほどの太さの大銀杏。大宮神社の御神木の影から、お国はそっとのぞいた。
上段の構えで荒々しい声をあげる卓堂と、静かに足音も立てずに竹刀を構える三郎。動と静、まったく醸し出す雰囲気の違うふたりが、竹刀を手に向き合っていた。白い息を吐き、にらみ合う目は真剣だった。
背が高い卓堂が頭上から力強く竹刀を振り下ろす。三郎の竹刀がしなやかにそれを受け止めると同時に、身体をひるがえす。その瞬間、銀杏の木の陰にいるお国と目が合った。
カランと三郎の竹刀が石畳の上に転がった。
三郎が片膝をついて、頭を下げた。
仁王立ちする卓堂の背中が、上下に揺れている。
「三郎さぁ、付き合ってもらってありがとうございもす」
「お見事でした。……そろそろ、帰らんとお嬢に怒られます」
「ああ。そうでごわすなあ」
卓堂が振り返るより先に、お国は銀杏の影に隠れた。
「三郎さぁは、どこで剣を習ったでごわすか」
「どこでっていうても……、子どもの頃遊びついでに、独学や。あえて言えば、松の木かなあ」
「松の木?」
「へえ。松の木を相手に稽古してたんです」
ふたりの会話を背中で聞きながら、お国は見つからないようにそっと走り出した。
卓堂の稽古に三郎が付き合わされていただけだ。それはわかっているのに、なぜか見てはいけないものを見たような気がした。
◆
卓堂と暮らし始めて三か月が経ったその日、初めて雪が舞った。
三郎とふたりで作った干し柿を、初めてお茶うけにして卓堂に持っていく。南国育ちのせいか寒さに弱い卓堂は、文机の脇に火鉢を置いて書き物をしていた。
「先生。少し休みませんか」
干し柿と熱いお茶を用意し、お国は声をかけた。
「それは、ありがたか。ちょうど、お国さあに話があったでごわす」
卓堂はそう言って、文机を背に座り直した。改まって何だろうと思いながら、お国は卓堂の前に盆を置き、自分も正座をして向き合った。
裏庭から三郎が薪を割る小気味いい音が聞こえる。
「昨夜、正太郎さぁと話をして、正式に塾を開くことに決めたでごわす」
そういえば、昨夜訪れた正太郎が、帰り際ずい分機嫌よかったのを思い出した。
「それは、おめでとうございます。みなさんもお喜びのことでございましょう」
お国は畳に三つ指をついて、頭を下げた。念願だった正太郎はもちろん、この山間の町に住まう若者にとっての朗報だ。
「でも、先生。本当にいいんですか?」
卓堂ほどの人ならば、もっと大きな町でより多くの門弟を持つことができる。より大きな富を得ることもできるかもしれない。
「大坂からずっとあちこち放浪してきて、さすがに疲れたでごわす。おいももう若くはなか。一か所に腰を据えて、学問と向き合うのも悪くはなかと思いもす」
「そうですか」
お国は、卓堂にほほ笑みかけた。卓堂がこの地に留まる決心をしたことは、うれしかった。いつかどこかへ旅立つ選択もあると思っていたから。
ただ気楽な三人の生活がこのまま続かないのではないかという一抹の不安も残る。
三郎の薪を割るスコーン、スコーンという音が響く。
「そんで、おいとお国さぁのことでごわすが……」
言いづらそうに視線を落とした後で、卓堂は続けた。
「正太郎さぁやお父上から、お国さぁとの縁談を勧めていただいたとでごわすが、それは一旦なかったことにしてもらいたか」
「……」
思ってもみなかった言葉に、お国は一瞬言葉を失った。
ここに定住するということは、そういうことだと思い込んでいた。そう思いあがっていた自分が恥ずかしく、かあっと頬に血が上った。
「もちろん、先生にその気がないのでしたら、父の戯言など聞かなかったことにしてかまいませんよ。婚家でやりたい放題して、出戻った年増なんかを無理して嫁にすることはないんですから……」
「お国さぁ」
すらすらと言い訳のように出てくる言葉を、卓堂が怒ったような声で止めた。
「自分を貶めるような言い方はやめて欲しか。正太郎さんに聞かせてもらいもした。……お国さぁが嫁ぎ先から戻った理由を……」
「え……」
加代のぺろりと舌を出す顔が思い浮かんだ。加代ちゃんめ……。あれほど口止めしたのにと、お国は唇を噛み締める。
「卓堂先生。そのことは、どうぞ父には内密にお願いできませんか。父の耳に入れば、さすがに黙ってはおりますまい。万が一、あちらのご両親に聞かれたら面倒なことになります」
加代への怒りはひとまず置いておいて、お国は卓堂へ頭を下げた。人の口に戸は立てられないが、真実を知る人は最小限に留めたい。
卓堂が近付き、大きな手がお国の腕に添えられた。
「お国さぁが頭を下げることでは、なか」
そっと身体を起こすと、近いところで卓堂と目が合った。
「おいは、わからん。なぜお国さぁだけが悪者にならなきゃならんのか」
卓堂は本気で怒っているように言葉を吐き出した。
「それが一番傷つく人が少ない方法だったんですよ。あたしは、お相手の方をそれほど好きじゃなかった。実家の居心地が悪かったから、なんとなく嫁ごうとしただけなんです。でも、お相手には他に本気で好きな方がいた。ただその方が身分違いだっただけ、だったらあたしが身を引くのが一番幸せになる方法なんじゃないかって……」
嫁ぐ相手に想う人がいるらしいと情報をくれたのは、耳年増の加代だった。どうやら相手は、その家の女中らしい。『それでもいいの?』と加代に真顔で問われた時に、動揺しなかったと言えば嘘になる。
細やかな配慮のできる背の高い男のことは、決して嫌ではなかった。だから、嫁ぐ気にもなった。
縁談の決まる前に、好きな人がいることなんて普通にある。結婚後も隠れて逢瀬を続けられたとしたら、それは頭にくるけれど。嫌ならその女中には暇を出せばいいだけのことだと、その時は納得したつもりだった。
ただ、ふたりは身分違いではあったけれど、真剣に想い合っていた。それがわかったから、喧嘩して大暴れしたことにして実家に戻ったのだ。もともとお転婆でわがままな天狗小町と陰口を叩かれていたお国なら、仕方ないと町のみんなが思っただろう。
嫁に逃げられた傷心の男とそれをなぐさめた女中は、今は結婚して幸せになっている。
「お国さぁの気持ちはようわかりもした。おいはできることなら、お国さぁと一緒になりたか。けんど、お国さぁの気持ちを第一にしたい。おいがここで暮らすことと、お国さぁと一緒になることは、全く別だと知って欲しかったでごわす」
言葉を選びながら、卓堂が言った。
確かに、ここに残る条件で一緒になってくれと言われれば、困惑して悩んだだろう。その心遣いがありがたかった。
「お国さぁは、前においのことを鳥のように旅をしてきたと言ってくれもした。おいは、お国さぁこそ、好きなお人と、鳥のように好きな場所で生きて欲しいでごわす。身分なんぞ、関係なか」
「……」
卓堂が誰のことを言っているのか気が付いて、お国はさあっと血の気が引いた。お国があえて考えないようにしていたことを、卓堂は気付いていた。
薪を割る音は、いつの間にか消えている。
「……先生、あたしと三郎は、誓ってそんな仲じゃ……」
「そげなこと、わかっちょる。ひとつ屋根の下で暮らしていたのでごわす。……じゃっどん、お国さぁと三郎さぁが、お互い強い絆で結ばれているのも、痛いほどわかりもした」
「……」
お国は、かすかに首を横に振った。
「少なくともあん人は、お国さぁのことを大切に思っているに違いなか。川沿いの空き家に向かったあの朝、浅間石の前でおいを待っていたでごわす。恋敵の命などどうでもいいが、お国さぁのお客様だから、ひとりで行かせることはならんと。帰れと言っても聞かんかった」
恋敵、という言葉におののいた。三郎はそんな素振りを微塵も感じさせなかった。主に尽くす使用人として完璧だった。長年使える忠実な下男のように、気が利くけれど決して出しゃばることない。そばにいるのが当たり前な存在になっていた。
「そんなはずはありません」
そう言ったお国の顔を見ながら、卓堂は一瞬唇の端を引きつらせた。笑ったようにも、怒ったようにも見えるその表情。
「……あたしは、この家で、三人で暮らすのが楽しかったんです。先生のことも、三郎のことも、同じくらい……」
好きだったと、言葉にするのははばかられた。夫になるかもしれない大切なお客様と、ただの使用人。決して比べてはならないふたりだ。
「先生がここに残ってくれると聞いて、本当に安堵しました。……お言葉に甘えてじっくり考えさせていただきます」
気持ちの混乱をこれ以上悟られないよう、お国は無理に笑って言った。
卓堂の決意を喜ばなければならない。だけど、これで居心地の良かった三人の、微妙な関係が少しずつ崩れていく。
不安を打ち消すように、お国は立ち上がる。
「今日はごちそうにしましょう。準備しないと……」
逃げるように奥の間を後にして、台所へと向かう。そこに三郎の姿はなかった。
先生が正式に開塾することに決まったよ。今日はごちそうだ。何をこしらえようか。
笑顔でそう言おうと思っていた気持ちが空回りする。ほっとしたような、肩透かしをくらったような、複雑な気持ちのまま立ちつくす。
『少なくともあん人は、お国さぁのことを大切に思っているに違いなか』
卓堂の言葉が、頭から離れなかった。
大切に思ってくれている。そのことに異論はなかった。自分を雇い主として、忠実に仕えてくれているのだと思い込もうとしていた。
『この人に、汚い手で触らないでもらえるか』
けれど、初めて助けてもらった瞬間から、三郎は当たり前のようにそうだった。
「三郎」
お国は裏庭に出て、三郎がいつも薪割をしている場所をのぞいた。けれど、そこに三郎の姿はなかった。
薪割の音はずいぶん前に途絶えていた。
食材の調達にでも行ったのだ。そう思おうとしたのと同時に沸き上がる違和感。……きっちりと同じ大きさに割られ、くくられている薪の束が、いつもより多い。軒先に積まれている束は、いつもの三倍はある。
冬場は多く使うにしても、三人暮らしではたかが知れている。三郎は、こまめに身体を動かすのが好きだから、こんなにもまとめて置いておくことは、今までにはなかった。
「三郎」
名を呼びながら、お国は台所へ戻った。
かまどの前にも、薪が三束置いてあった。普段は二束で、ひとつがなくなりそうになると三郎が取りに行っていた。まるで三郎がいなくなった後、お国が困ることのないよう準備していたかのように。
お国は、三郎が寝起きしていた物置の引き戸を開けた。
「……」
きちんとたたまれた布団の上に、着物と帯が三組、几帳面に積まれていた。給金を受け取ろうとしない三郎に、お国が縫って与えた着物が三着……。その代わり最初に着ていた三郎の古びた着物がなかった。
三郎は、このまま姿を消すのではないか。心臓が凍り付くような気がして、お国は膝から崩れ落ちた。
「お国さぁ、どげんしたでごわすか」
ドスドスと足音が近付き、卓堂がお国の肩を支えた。
「……先生、三郎が……」
震える声でお国は、やっとそれだけ言った。卓堂が三郎の部屋の中をうかがい、お国を支える手に力を込めた。
「まだ遠くには行っとらんはず……。探しましょう」
耳元で力強くささやかれ、お国ははっと我に返った。
草履に足を通し、勝手口から再び外に出る。粉雪が頬を打った。
「お国さぁ」
裏門をくぐり抜けようとしたところを卓堂に呼び止められた。
「これを……」
追いかけてきた卓堂が、自らの褞袍(どてら)を脱いでお国の肩にかけた。
「遠慮は無用じゃ。行くがよか……」
まるで別れの言葉のように、卓堂の声が響いた。
「生きておってよかかと悩んどったおいの背中を押してくれたのは、お国さぁでごわす。今度は、おいの番じゃ」
「先生……」
「さあ……」
大きな手のひらで背中を押される。
「……」
こくりとうなずいて、お国は駆け出した。卓堂は泣き出す寸前のような顔をして、笑っていた。
27.幕末の薩摩藩士6