26.幕末の薩摩藩士5


お国は、着物のすそがまくれるのも気にせずに走った。

まだ人通りの少ない街道から、巨大な槻ノ木の下をくぐり抜け、吾妻川へと続く小道を下る。三郎と初めて会ったのは、この辺りだ。

切り立った崖の下を吾妻川が流れている。その崖の上に取り残されたように、ポツリと大きな浅間石はある。ここまで水が押し寄せてこの重い岩を運んだのだと想像するだけでゾッとする。

その脇を通りすぎる時に、濡れた落葉樹の葉に足を滑らせた。

お国は、湿った落ち葉の上に手をついた。

『大丈夫か』

いつだったか、こんな風に何かを怖がって逃げた。転んだところを助けてくれたのは、誰だったのか。

顔をあげると、そこには誰もいなかった。

少し先につぶれそうな古い空き家が見える。卓堂を襲った男たちがねぐらにしている家は、おそらくそこだ。

ふところの文に、お国はそっと手を当てた。大塩平八郎から門弟の卓堂に当てた文だった。

乱から既に七年。卓堂は役人の目を逃れるために大坂から離れ、各地を放浪しながらこの地までやってきた。

追手の顔を見た時の卓堂の驚いた顔。卓堂を追う者が乱の関係者を取り締まる役人でないとしたら……。

お国ははやる心に追い立てられて足を動かした。

土間と板間のみの小さな古い空き家には、冷気が入り込む隙間がいくつもあった。その中のひとつをそっとのぞいた。

板間に正座をしている卓堂の前に、浪人風の男が刀を抜いていた。鼻先に突きつけられた刃先にひるむことなく、卓堂はまっすぐに男の顔を見上げている。

卓堂は、刀を抜いていなかった。それでも、苦しげに顔を歪ませているのは、刀を抜いた男の方だった。

土間では他の四人が、三郎を取り囲んでいた。鞘(さや)に手をかけ、少しでも油断ならない動きがあればすぐに刀を抜く準備ができていた。

三郎の方は丸腰だというのに、いつもの涼しい表情をして、卓堂と対峙している男の方に視線を向けていた。

「おはんらの狙いは、おいの首でごわそう。三郎さぁは、関係ありもはん。帰してやって欲しい」

「黙れ! こいつが勝手についてきたんだろう」

「こいつは、丸腰でも油断ならんぞ!」

卓堂の訴えに声を荒げたのは、三郎を取り囲んだ男たちだった。

「卓堂先生。先生さえ命じてくれれば、こいつらすぐに始末しますが、どうしましょか」

刀を持った男たちに取り囲まれた三郎が、表情を崩さぬまま言った。

「何だと!」

怒った男のひとりが刀を抜いて三郎に斬りかかった。すばやい動きで三郎は男の腕をつかみ、同時に腹を蹴り上げた。声にならないうめき声とともに、男は土間に転がった。三郎の手には、男の刀だけが残された。

「先生、命じてください」

「それはなりもはん!」

目を見開く男たちをよそに、卓堂が三郎を止めた。

「お国さぁが心配しちょる。三郎さぁは、早く帰ったらよか。これはおいどんの問題でごわす。これ以上関わってはなりもはん」

「先生は、お嬢のお客様でしょう。急にいなくなられたら、お嬢が悲しみます。先生の意志で旅立たれるならともかく、ここで無下に命を落とすことは許しません」

冷たい笑みを浮かべながら、三郎が刀をかまえる。町人風情の殺気ではなかった。空気が変わる。男たちが一歩後ずさった。

「動くな。動いたら、この男の命がないぞ」

卓堂の前に立つ男はそう凄んだが、声は震えていた。その前に座る卓堂が、哀れんだ目を男に向けた。

「殺したければ、殺せばよか。そんために、ずっとおいを追ってきたのでごわそう」

「そうだ。おまえを殺すために来た。その前に答えろ! なぜあの方を裏切ったのか!」

男の顔が歪んだ。泣き出す前の幼子のように。

「おまえは、あの方から特別かわいがられていたではないか。あの方も、あの方を慕う門弟たちも、多くが命を落としたのに、なぜおまえはあの日姿を消した? なぜあの方を裏切った!」

「……」

卓堂の肩が揺れた。何かに耐えるように、膝の上で拳を握る。

「何を言っても言い訳にしかならん。おいを殺して、気がすむならそうすればよか。……三郎さぁは手出し無用でごわす」

卓堂がそう言って目をつぶった。

「……」

男が唇を震わす。刀を上段に振り上げた。

「三郎! 先生を助けて!」

お国は思わずそう叫んだ。

同時に三郎の身体が、俊敏に動いた。そばにいるふたりの間をすり抜け、卓堂を斬りつけようとしている男の刀を、奪った刀で受け止める。次の瞬間、男の刀がカランと音を立てて転がった。男が顔を歪めながら、手首を押さえている。

お国は、たてつけの悪い戸を勢いよく開けた。

「何かっこつけてんだい。言い訳もしないでこんなところで死んじゃあ、あのお方が悲しむんじゃないのかい?」

お国はそう啖呵をきって、卓堂の前に進み出た。ふところの文を取り出す。

卓堂が目を見開いた。お国のそばに寄り添った三郎は呆れたように唇の端を下げる。

「読んでごらんよ。これを見れば、卓堂先生は逃げたんじゃない、嘘の集合場所を教えられて、乱に参加できなかったってことがわかるよ」

「お国さぁが、どうしてこれを……」

「あいにく、あたしの知り合いに腕のいいくノ一がいてね。欲しい情報はすぐに手に入るんだよ」

お国はそう言って、男の前に文を広げた。

「この筆跡は、大塩先生の……」

大塩平八郎から、門弟の卓堂に向けた手紙は、謝罪から始まっていた。平八郎は、卓堂に偽の集合場所と時間を教えた。そして、大事にしていた文献とその知識を卓堂に託したのだった。

学問にひときわ熱心だった若者を道連れにするには、忍びなかったのかもしれない。しかし、そのせいで最も可愛がられていた門弟のひとりが、乱から逃げたという不名誉な烙印を押されることになった。

がくりと、男が肩を落とした。

「……卓堂先生、後の世の誰かにわかってもらえばそれでいいって思って、この文を託したんだろうが、お生憎様だったね」

「……本当は、おいも大塩先生と一緒に戦いたかったのでごわす。それに、もう姿を隠して逃げ回る生活にも疲れもした」

「大塩様が託したかったことを、あなたはまだ十分なさっておられないでしょう。貴重な文献だけ預かっても、正太郎さんの頭じゃあ理解できないかもしれませんよ。先生がしっかり教えてくださらないと。まだまだ死んで楽になんてさせません」

うなだれる大男に、お国は言い放った。

「お嬢は人使いが荒いで。お互い、とんでもない人と出会っちまったもんやなあ、先生」

のんびりとした口調で、三郎が言った。

「本当に。お国さぁには、まいるでごわす」

卓堂がそう言って、泣き出しそうな顔をして笑った。

北風が吊るされた柿を揺らす。秋から確実に冬の入口に季節は移りつつあった。

「ああ、今日は冷えるねえ」

蔵に白菜の漬物を取りに行ったお国は、勝手口から台所に入るとほっとした。三郎がかまどに薪をくべていて、十分に暖かい。

「言ってくれれば、わしが取りに行ったのに……」

「いいよ、これくらい。先生は、これを気に入ってくれたからね。たくさん作っておいてよかった」

お国がそう言うと、三郎が目尻をほんの少し下げた。

「先生は、まだ帰って来ないのかい?」

「まだみたいやなあ」

「あの人も困ったもんだねえ」

卓堂は、教えを求める若者を積極的に迎えるようになった。それだけでなく、足の怪我がよくなると、毎朝素振りをするようになった。大きなかけ声を上げながらの素振りはかなりうるさい。文句を言ったら、大宮神社まで走って行き、境内で素振りをするようになった。

「朝飯の時間には戻って来て欲しいって、あれほど言っておいたのに」

「先生は、薩摩の示現流の使い手や。足がようなって、身体がなまってないか気になるんやろう」

お国が文句を言うと、三郎が苦笑してかばった。

学問は熱心に教える卓堂だったが、剣を教えるつもりはないらしかった。それは、薩摩の流派をむやみに広げたくないという強いこだわりがあったからだ。

「悪いけど、呼んで来てくれるかい?」

「へえ。お嬢が怒っているって言えば、真っ青な顔をして走って帰ってきはるやろ」

三郎が、頭にかぶっていた手拭いを首に巻きなおして立ち上がった。

「寒いとこ悪いね。ぐずぐずしていると、朝飯は抜きだよって脅していいから」

「へえ」

お国がわざと怖い顔をすると、三郎がくすりと笑う。

「頼んだよ」

軽い足取りで勝手口から出て行く三郎の背中に声をかけた。

三人での生活にもすっかり慣れた。囲炉裏端に三人分の朝飯の準備をしながら、お国はささやかな幸せを感じていた。

卓堂はここを拠点として暮らすのも悪くないと感じているようだ。正太郎の開塾の提案も、前向きに検討を始めた。

父はすっかりふたりが一緒になるものと思っているが、卓堂からそんな素振りは見られない。だから、安心してお国は三人での暮らしを楽しんでいる。

三郎は、相変わらず何を考えているかはわからない。けれど、お国をとても大切にしてくれているのは確かだ。

『お国ちゃん。あの人、本当に大丈夫なの?』

一昨日、加代が訪ねて来て、真顔で言った。

『三郎のこと、何かわかったの?』

お国は急き込んでたずねた。三郎は、相変わらず自分の過去のことは言おうとしない。のらりくらりとはぐらかしてしまう。

『ううん。何もわからないの』

怯えたような目をして、加代は続けた。

『私が本気で調べてみて、こんなの初めてよ。誰もあの人のこと知らないの。突然この町に降ってわいたみたいに。……でも、あの人この辺りに土地勘はちゃんとあるでしょ。なんだかおかしくない?』

『……』

言われて初めて気が付いた。いや、気付きたくなくて、考えないようにしていたのかもしれない。

三郎は、山に入ればすぐにキノコを見つけてくる。要助がひいきにしている朝陽堂から頼んでおいた物を取って来てくれと頼んでも、それがどこで何をと聞かれたことはない。三郎はこの地と、ここでの人々の暮らしを熟知していた。

それなのに、三郎の過去を知る人がこの町にひとりもいない……。

『本当に、大丈夫なの。お国ちゃん』

加代の大きな瞳の奥に、かすかな好奇心と、それよりも大きな畏れが見えた。

『……大丈夫よ。三郎なら、大丈夫』

お国はそう言い切った。

三郎は、お国を傷つけるようなことはしない。そこだけは自信があった。それでも、お国の心に、小さなトゲがささったまま留まっている。

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