28.幕末の薩摩藩士7
北風にのって運ばれてくる雪は、次第に強くなる。
お国は、三郎の姿を探して走った。大通りの人通りはまばらだ。いつも三郎が用立てる八百屋や粉屋に聞いても、三郎の姿を見た者はいなかった。
三郎が姿を消すとして、一体どこに行くのだろうか。元々どこから来たのかもわからない。自らの意志で三郎が姿を消したとしたら、もう探す手立てはない。
大通りの朝陽堂の前まで来ると息が切れた。足を止め、息を整える。顔を上げると槻ノ木が見える。
槻ノ木の脇の小道を下り、三郎と初めて会った場所にさしかかる。
三郎はもしかしたら、男たちがねぐらにしていた空き家にいるのではないか。お国は川に向かって走った。
浅間石が見えてくると、鼓動が早くなる。
「……!」
その大岩の脇に三郎が立っていた。雪の降る空を見上げる。その身体が空に吸い込まれていく、そんな気がした。
「三郎!」
叫ぶと同時に、うっすらと雪で湿った枯葉に足を滑らした。前もこんなことがあった気がする。咄嗟に地についた手の冷たさに、お国ははっとした。
いつの間にか三郎の足が目の前にあった。素足にすりきれた草鞋。
「大丈夫か」
三郎がしゃがんで、お国の顔をのぞき込んた。お国の手をとり、汚れて血のにじんだ手のひらの土をそっとはらった。
「お嬢、どないしたんや。血相変えて」
いつもと変わらないのんびりとした口調で三郎が言った。いつも通りの態度に、お国はわけがわからなくなる。三郎はたまたまこの辺りに用事があっただけで、姿を消すつもりではなかったのかもしれない。お国のはやとちりだったのか。
「ごめん。取り乱して……。いやね、あの岩昔から苦手でさ……。不吉な予感がしちまったもんだから……」
荒い息を整え、平静を装ってそう取り繕おうとする。
「お嬢は、浅間石が怖いんやもんな。……すまんなぁ」
血のにじんだ手のひらに手拭いを巻きながら、三郎は言った。本当にすまなそうな言い方だった。
「……」
お国は、三郎の顔を凝視した。白い整った顔が辛そうに見える。とても大事なものを扱うように、お国の手に注がれる視線。
その時、ふと思い出した。
お国がまだ五つか六つだった頃、かくれんぼをしてここに迷い込んだ。初めて浅間石を見て、怖くて駆け出した。途中で小石に足をとられ、思いっきり顔から転んだ。
その時、泣いているお国を抱き上げてくれた若い男がいた。
『そうか。あの石が怖いかあ。……すまんなぁ』
男は優しい手でお国の背中をさすりながら、何度も何度も謝った。なぜこの人が謝るのだろうと、幼心に不思議に思った。
その時の若い男の顔も、聞きなれないなまりの言葉も、三郎にそっくりだった。
「……三郎。あんた、何者だい?」
思わず口に出た声がかすれた。
「……!」
三郎が目を見開いて、お国の顔を見た。
「昔、ほんの子どもだった頃、ここで助けてもらったことがあったろう。あんたは、さっきと同じことを言っていた……」
他人の空似だと思いたかった。お国が子どもの時大人だった男が、自分より若いはずもない。なんのことやと笑って欲しかった。
「覚えて、おったんか……」
三郎は、傷ついた顔をしてつぶやいた。真っ青で、今にも泣きそうな顔の三郎に、雪が静かに降りそそぐ。
「わしは、バケモノや……」
「バケモノ?」
「年をとらん。そんなん、バケモノ以外の何物でもない」
諦めたように三郎は言って、立ち上がった。くるりと背を向け、浅間石の方に向かって歩いていく。
どういうことだと問う前に、全てが腑に落ちた。三郎の、見た目が若いくせに妙に落ち着いている物言いも。台所仕事も、大工仕事も完璧にできることも。卓堂と同じくらい、いやそれ以上の剣の腕前を持っていることも。誰も三郎を知らないのに、この町に土地勘があることも……。
「卓堂先生、ここで暮らすことを決めたらしいな。あの人は一本気のあるええお方や。あの人ならお嬢を任せられるって思うて、安心したわ」
浅間石の前に立ち、三郎は言った。まるで自分に言い聞かせるように……。
「だから、姿を消そうと思ったのかい?」
お国はその背中に問いかけた。三郎の背中が、一瞬硬直した。
「……わしは、用心棒としてお嬢に雇われたんや。卓堂先生を襲う者はもうおらん。先生とお嬢が夫婦になれば、寝込みを襲われる心配をする必要もない。わしは用済みや」
「でも、あたしは……。三郎と離れたくない。一緒にいたい」
お国は三郎に駆けよった。その背中にしがみつく。こわばった背中は温かく血が通っていた。胸に回した手のひらに鼓動を感じる。三郎が、バケモノだなんて思えなかった。
「連れて行って。一緒に……」
すべてを捨てても三郎といたい。お国の望みはそれだけだった。
「無茶言うなや……」
長く息を吐いた後で、三郎は振り返った。
「年も取らん男と、一緒にいられるわけないやろう」
三郎が振り払おうとした手を、お国は三郎の首に回した。肩にかけた褞袍が、雪の上に落ちる。
立ち尽くす三郎の首元に、唇が触れる。次の瞬間、三郎がお国の身体をきつく抱きしめた。深く重なる唇に、熱い何かが入って来る。立っていられずに、お国の背中が浅間石に寄りかかった。
息が出来ない。深い水の底に落ちていくような、そんな感覚に襲われた。溺れる。
お国は、三郎の背にしがみついた。黒い渦にのみ込まれ、このまま三郎とふたり、深い水の中に沈んでいく。
どうしてそう思ったのかわからない。けれど、それは確かにどこかで体験した記憶だった。このまま死んでしまうのかもしれない。それでもいいと、背中で感じる恐怖よりも、三郎の存在を感じていたい感情の方が勝った。
どのくらいの時が経ったのか。気が付くと、積もる雪を避けるように大きな木の下で座っていた。褞袍に包まれたお国の身体を、三郎が温めるように後ろから抱きしめている。
「ああいうのは、やめてくれ。……辛抱がきかんようになる」
耳元でささやく声が聞こえる。三郎がどんな表情をしているのか、お国にはわからなかった。
「わしは、あんたぁが幸せになるところが見たかったんや。ずうっと昔から……」
「ずっと、昔?」
不思議なことに、その言葉に納得する自分がいた。
「あんたぁが強く大きゅうなって、自分の意志を曲げることなく生きていける。あんたぁを大切にしてくれる男と一緒になって、立派に子どもを育て上げて、よぼよぼになっても後悔のない人生を送る。そんな姿が見たかったんや」
「それは、三郎がそばにいてはだめなのかい?」
「……残酷なことを言うなや。あんたぁが誰かと夫婦になるそばで、わしは暮らせん。想像しただけで気が狂いそうになる」
三郎の腕の力が強くなる。三郎がどんなに離れがたく思っているのか。お国を大切に思ってくれているのか。三郎の気持ちが胸に染みる。
お国は、三郎の冷たい指先に手を添えた。
「あたしは幸せになるって、約束する。三郎が満足してくれるように……」
「ああ」
三郎はもう一度お国の身体を強く抱きしめた。目をつぶり、三郎の胸に顔を埋めると、湿った森の香りがした。
木枯らしがふたりの間に吹きつける。ゆっくりと目を開けると、そこには三郎の姿がなかった。
なぜか三郎は空に帰って行ったような気がした。立ち上がり空を見ると、粉雪がお国の上に舞い落ちる。凍える寒さに耐えるように、お国は褞袍で首元を温めた。
疲れた足を引きずって裏口から入ると、家の中はほんのりと暖かかった。下駄を履いたままの卓堂が、土間に立ち尽くしていた。
「お国さぁ。すっかり冷え切っとる。早く火のそばへ」
卓堂が、お国の肩に大きな手を添えた。囲炉裏端へ連れて行く。囲炉裏の火が消えないように、卓堂が番をしていてくれたのだろう。
こわばった心と一緒に、身体の冷えが薄らいでいく。
「それで、三郎さぁは……?」
顔をのぞき込んだ卓堂に、お国は首を振った。パチリと火が跳ねる音が聞こえる。
「三郎は、もう戻って来ないでしょう」
「……そうでごわすか」
気遣うような声が聞こえた。ほっとするよりも先に、お国を心配している。自分で背中を押したくせに、お国の帰りを今か今かと待っていただろうに……。
この不器用な男が、かわいらしく思えてくる。
三郎にそう言われるまでもなく、お国にもわかっていた。信頼のおけるいい男だ。
「……先生」
「うん?」
「あたしを、もらってくださいませんか。先生さえよろしければ」
顔を上げて大きな男を見上げると、卓堂は目を見開いた。
「……お国さぁは、それでよかでごわすか」
遠慮がちな卓堂の問いに、お国はこくりとうなずいた。
「あたしと一緒に、幸せに暮らして欲しいんです。先生となら、幸せになれそうな気がするんです」
それが三郎の願いだから……、とはさすがに言えなかった。けれど、この人となら幸せに暮らしていける自信があった。
ためらいがちに卓堂の手のひらがお国の頬に触れた。
「まだ、冷たか」
卓堂はそう言って、壊れ物を包み込むように優しく抱きしめた。
28.幕末の薩摩藩士7