25.幕末の薩摩藩士4
「傷はだいぶよくなりましたねえ」
めずらしく訪問者のない小春日和の午後、縁側で日向ぼっこをしながら、お国は卓堂の足に薬を塗っていた。
「この薬がよく効いたでごわすなあ」
「山で採れた薬草を、いくつか混ぜて作る秘伝の薬なんですよ。血も固まったし、膿むことなく、きれいに治りそうでよかった」
よく鍛えられた足には、他にも古い傷がいくつもあった。お国は、その傷の理由を聞くつもりはなかった。
脱藩するなど、よほどの理由があったのだろう。大塩平八郎の名も、卓堂が語らない限り、お国の方から口にするつもりはなかった。
「お国さぁは、薬に詳しいでごわすか?」
「家に代々伝わるものです。父の方が詳しいですよ。薬だけではなく、毒や火薬なんかもね。戦国の世から、代々我が家に受け継がれているんです」
「それで、あん時……」
卓堂が納得したようにうなずいた。
最初に会った時に覆面の男たちに投げつけた栗爆弾は、護身用にいつも持ち歩いているものだ。
「あと十日もすれば、歩くのに差支えはなか。お国さぁに、長く迷惑をかけるわけにはいかんと思うちょります」
「まあ、そうおっしゃらずにゆっくり養生してください。せっかく三郎が干し柿をこしらえているんだから」
治療を終え、薬箱に薬を仕舞いながら、お国は卓堂に笑いかけた。
「じゃどん……」
卓堂は一瞬戸惑った表情になった。
少し離れたところで、柿の実をむいている三郎がちらりと視線をよこした。ざるには、むきおわった柿が山盛りになっている。裏庭に鈴なりになっている渋柿を干し柿にするつもりで、今日一日ふたりでむいていたのだ。
「昨夜、お好きだとおっしゃったでしょう」
あちこち旅をしてきた卓堂が、各地のおいしい食べ物の話をしていた。海の幸に恵まれない上州ではつまらないでしょうとお国が聞くと、寒い地方の干し柿が好きだと言っていたのだ。
「お国さぁは、こげな正体不明な男の世話をするのが、ほんのこち嫌でないでごわすか」
「全然。……それどころか、気づまりな実家から出られて、清々しているんです」
そう言ったのは本心だった。卓堂が複雑そうな顔をして見返した。
「いえね。元々はひとり娘のあたしが、婿をとるものとばかり思っていたんですよ。だけど、父に後妻が入って、年の離れた弟が生まれたんです。慌てて嫁入り先を探したっていうのに、出戻ってしまって。……実家では、少し居心地が悪かったんですよ。友だちも、みんな嫁に行っちゃいましたしね」
ここでの暮らしは快適だった。このまま三人で暮らしていくのも悪くはない。そう思ってしまう。
「ですから、卓堂先生は、あたしに気を使わないでください。ただ、父上や正太郎さんの言うことを真に受ける必要もありませんよ。先生は、今まで鳥のように旅をして来たお方でしょう。先生の気持ちのおもむくままに、行きたいところに行けばいいんです」
男に生まれていれば、そういう人生もいいとお国は思った。生まれ育ったこの地しか知らないお国は、卓堂をここにしばりつけていいのかわからなかった。
「……お国さぁは、ずい分男前な方でごわすなあ」
卓堂がそう言って目を細めた。
「かかあ天下って言いますやろう。上州のおなごは男より強いですから。薩摩隼人(さつまはやと)には、ちょうどええかもしれませんよ」
包丁を動かす手を休めることなく、三郎が口をはさんだ。
「夫婦喧嘩は、壮絶なものになりそうだね」
三郎の言葉に、お国は冗談っぽく続けた。
「そげは、恐ろしか」
卓堂はそう言って豪快に笑った。
「負けませんよ」
お国もつられて笑う。
三郎の包丁の動きが止まった。塀の向こうに顔を向ける。庭で何かをついばんでいた雀が、驚いて飛び立った。
三郎が、指を口元にあてた。
「誰か様子をうかがってはる」
お国は、卓堂と目を見合わせた。表門から入らず、塀の向こうをうろうろしているなんて、この間卓堂を襲った男たちだろうか。
「捕まえますか」
「いや。その必要はありもはん」
三郎の申し出を、きっぱりとした口調で卓堂は断った。
「もしかしたら、先生。追手が何者か、わかっているんですか」
「……」
お国が問いただすと、卓堂は何も言わずに目を伏せた。
三郎が、足音を立てずに塀の近くに近付く。誰も声を発しない状況に、不穏なものを感じたのだろうか。塀の向こうの足音が小さくなっていく。
「行ったようや」
三郎がこくりとうなずく。
「……お国さぁに、迷惑をかけることはさせもはん。足の怪我もおかげ様でよくなりもうした。おいどんが出て行けばいいだけのこと……」
「先生!」
そう言って立ち上がった卓堂の手を、お国は思わずつかんで引き止めた。大きな手は思いがけず冷たかった。卓堂は驚いた顔をして、お国を見つめる。
「その足で長旅は無理です。無茶をしたら、また傷が開きますよ」
「しかし、ここにいては迷惑が……」
「迷惑かどうかは、こちらが決めることです。あの男たちは、役人ではありませんよね。先生は、一体誰に狙われているんですか?」
「……」
苦し気な表情をして、卓堂がうつむいた。
「お国さぁには、関係ないことでごわす……」
手を振り切り、吐き出すように卓堂は言った。大男の身体が小さく感じる。何かに苦悩している。それはわかるのに、その胸の内を吐き出すほど心を開いてはいない。
「この間のやつらなら……」
ぼそりと三郎が言った。
「五人そろって、川沿いの空き家をねぐらにしとる。この間先生を拾った浅間石の先の……」
「え? 三郎、あんたどうしてそんなこと知っているんだい?」
「前にこの家の様子を見に来とったから、こっそり後をつけたんや」
「まあ……」
いつの間に……。お国は、一見不機嫌そうに見える若い男の顔をまじまじと見つめた。
「二度と先生に近付かないよう、脅してきましょか」
裏庭の柿を採ってきましょか、と言った時と同じ口調で三郎が言った。
「その必要はありもはん」
卓堂がきっぱりと言って、続けた。
「ふたりには、迷惑をかけんようにするつもりでごわす。どうか、しばらくは容赦いただきたか」
卓堂はそう言って頭を下げ、背を向ける。大きな背中はお国を拒絶していた。奥の間へと消えて行く背中を見送った後、お国はちらりと三郎の方に目をやった。
三郎は何もなかったかのように、ムシロの上に座る。柿を手に取り、再び包丁を動かした。
「……三郎」
「へえ」
先生は、何を隠しているんだろう。
三郎、あんたは一体何者なんだい。
同時に湧き出たふたつの疑問に、お国は言葉に詰まる。包丁の手を止めた三郎が、お国を見上げた。
「……だいぶむきあがったようだね。柿を吊るす糸を用意してこよう」
お国はやっとのことでそう言って、三郎に背を向けた。
◆
ここ数日一気に冷え込んだ。縁側に吊るした柿が、北風に揺れている。冷えると傷が痛むようで、卓堂は一日中奥の間に入って考え込んでいる。
今年初めての霜が降りた朝、支度を整えて台所に行くと、いつものようにかまどに火が灯っていた。囲炉裏にも炭がおきていて、ほんのりと暖かい。
いつもと違うのは、そこに三郎の姿がなかった。パチッと時々火が跳ねる音が聞こえる以外は、シンと静まり返っている。
勝手口を開け、井戸の方をのぞく。
「三郎」
呼んでみるが、そこには誰の姿もない。お国の吐く白い息が立ち上るだけだ。こんなことは一度もなかった。お国がいて欲しい時に、三郎がいないなんて……。きゅっと胸が縮こまる。心臓が凍えるような気がするのは、外の冷気にあたっただけではない。
「どうしちまったのさ……」
苦笑とともに、お国はつぶやいた。
三郎を何だと思っているのだ。ついこの間雇っただけの間柄だ。三郎だって、時には息抜きをしたいこともあるだろう。味噌汁の豆腐を買うついでに、立ち話でもしているのかもしれない。
ほんの少しの間三郎がいないだけで、こんなに動揺するなんてどうかしている。
台所に戻り、朝食の準備にとりかかる。
そのうち三郎も帰ってくるだろう。いつものように身体を動かせば、胸騒ぎも消えていくに違いない。そう思うのに、どうしても落ち着かなかった。
台所から囲炉裏端に上がろうとして、もう一つの違和感に気が付いた。板間の上り口にそろえてあるはずの下駄がない。家の中からは、自分以外の人の気配が全くしなかった。
「先生!」
お国は駆け足で板間に上がり、囲炉裏端を通り抜けて、奥の座敷に向かった。ふすまを開けると、そこに卓堂の姿はなかった。布団はきっちりとたたまれ、積み上げられた書籍もなくなっていた。
不思議と心が凍る感触はなかった。どこか予感していたのかもしれない。卓堂は、一カ所に落ち着く人ではなかったのだ。別の場所に行こうとしたのか、それとも……。
「まさか、先生……」
部屋の隅に置かれた文机の上に、貸していたすずりと筆がきちんと並んでいた。
……迷惑がかからないように姿を消したのか。
一言の文も残されていない。それでも、最後の最後まで言葉を探していたのだろうか。筆はまだ乾いていなかった。
「お国ちゃん! お国ちゃん、いる?」
玄関の方から慌ただしい声が聞こえた。加代の声だ。
「加代ちゃん、どうしたの?」
「卓堂先生が……」
走って来たのか、肩で息をした加代が板間に手をついた。
「荷物を、……うちに、おいて行ったみたいなの。書置きがあって、……貴重な書物だから、学問に役立てて欲しいって……」
「先生が正太郎さんの家に荷物を……?」
荷物を持ち、新たな場所に旅立ったのかと思っていた。でも、そうでないとしたら。
「まさか、先生……」
卓堂の行先を想像して、お国の顔から血の気が引いた。
「お国ちゃん、これ……」
加代が手渡したのは、古びた文だった。
「先生の荷物の中にあったの。もしかしたら、先生が狙われている理由に繋がるかもしれないと思って……」
「さすが、原町一のくノ一!」
文に目を通したお国が、加代に言った。
「天狗小町には言われたくないわ」
加代がにっと笑い、真顔になって続けた。
「気をつけてね、お国ちゃん!」
お国は大事な文をふところにしまい、こくりとうなずいた。きっと大丈夫。三郎がここにいないことが、そう思わせる唯一の根拠だった。
25.幕末の薩摩藩士4