23.幕末の薩摩藩士2


「あ、女がいたぞ」

「捕まえて、居場所を吐かせろ」

「くノ一かもしれん。女とて侮るな」

男たちの人数を確認しながら、すべて追いかけていることがわかると足を速めた。逃げ足の速さは子どもの頃から自慢だった。しかも、地の利を知り尽くしている地元だ。

決して油断したわけではない。ただひとり、長身の男だけが抜群に足が速かった。

急な上り坂を駆け上がるとさすがに、息がきれた。西の空が赤く染まり、槻ノ木の大木の影が手前に黒くそびえる。

「待て!」

大通りに出るという直前で、腕をつかまれた。もつれた草履が脱げ、土煙が舞う。

「殺しはせぬ。だが、手向かえば容赦はせぬぞ」

長身の男は、お国の耳元でそうすごんだ。その話し方にかすかな違和感。薩摩なまりほどではないが、この辺りの話し方ではない。

どうする。相手は刀を持っている。こっちはふところの小刀だけだ。振り切って、逃げられるか。

悩んでいるうちに、他の追手の足音と荒い息が近づく。

「あの男をどこに隠した? 白状せねば……」

刃がのど元に近付く。お国は、ごくりとつばを飲み込んだ。

「その人に、汚い手で触らんでもらえるか」

「……」

突然、腕をつかまれた手の力がゆるんだ。

耳慣れない京なまりの男が立っていた。町人風の短い着物を着た若い男は、長身の男の腕をねじりあげていた。

「何だ、おまえは……」

「邪魔だてすると、ただではすまぬぞ」

追いついた男たちが、息を荒くしてまくしたてる。

「ずい分疲れとるみたいや。そんなんで刀がつかえんのか」

若い男が、お国をかばうようにして追手の前に立つ。丸腰で五人の侍を相手に勝てるとは思われなかった。

「貴様、死にたいのか」

男のひとりが斬りかかる。

「……!」

思わず息を飲んだ次の瞬間、若い男がすばやい動きで相手の胸に肘鉄をくらわせた。目を見開いた男の身体が、ゆっくりと倒れる。

驚いて身体が固まった男たちのあご先を、若い男は続けざまに鋭く蹴る。かすっただけなのに、男たちは膝をついて倒れた。

「な……」

残るはさっきの長身の男ひとりだった。ねじ上げられた腕が痛むのか、顔を歪ませている。

「まだ、やるか?」

「ひ、ひけ!」

男たちは、お互いに身体を支えながら逃げていく。

「怪我はないか?」

若い男が振り返った。色の白い、整った顔をしている。その割には、古ぼけたすその破れた着物を着て、伸びた髪をひとつに結わえている。

「あんた、一体何者だい?」

武士には見えない。それなのにこんなにも強いなんて。

「わしは、三郎や。何者って言うても、何にもしていないっていやあ、していないし、頼まれればなんでもするし……」

間の抜けたような口調で、三郎と名のった男は言う。脱げた草履を、お国の足元に置いてくれた。

「頼まれれば、何でもするんだね。もうひとつ頼まれてくれるかい?」

お国は両手を胸の前で合わせ、三郎の顔を拝んだ。

「今回のことは何と礼を言ってよかか。しかも、お嬢さんを危険な目に巻き込んだこと、誠に申し訳ありもはん」

「いやいや。うちのお国は、お嬢さんって柄ではないですし、昔っからはねっかえり娘で……。いやあ、もう娘というほどの年でもないですが」

卓堂が何度も頭を下げる前で、要助も恐縮している。

屋敷まで卓堂を三郎に背負ってもらい、足の手当をした。娘が縁談相手を屋敷に連れ帰ったと聞き、最初は驚いていた要助だったが、上機嫌で卓堂の相手をしている。

「新井様のお屋敷にいつまでもお邪魔するのも心苦しく、おいとましようとしたでごわすが、思わぬ邪魔が入りまして……」

「いや。まだまだここにいて欲しいと、新井どのも言っていました。せめて怪我が治るまでは、ゆっくりしてください。それでも、他人の家で客扱いでは休まらないでしょう。おい、お国」

「はい」

隣の座敷で控えていたお国は、畳に膝をついてふすまを開けた。

「明日から、卓堂先生にはうちの空き家に移ってもらおう。女手が入り用になるだろうから、おまえも一緒に行ってお世話をしなさい」

「そげんこつ……」

驚いた声をあげたのは、卓堂だった。

「世話など、こちらのお嬢さんにしていただくのは、申し訳なか。おいのような正体不明の者と一緒に暮らすなど、世間様からどのような噂になるか……」

後半、声を少しひそめて卓堂は言った。

太い眉に、強い目力、大柄な身体の男は、見た目よりはずっと細やかな配慮のできる方なのだろう。

「はい。わかりました」

お国は、畳に指をついて頭を下げる。

「しかし……」

「私は一度嫁いで出戻った身、今さらどう噂になろうとかまいませんよ」

「おいは命を狙われている身でごわす。だからこそ、一カ所で長居することなく過ごしてきもうした。ここにいたら、みな様に迷惑をかけるかもしれもはん」

「追手に心当たりは?」

要助に問われ、卓堂は苦しそうに顔をしかめ、首を振った。

「けれど、その足では長旅は無理でしょう。それなら、父上におひとつ願いがあります」

お国は要助に向かって言った。

「用心棒を雇いたのです」

「用心棒?」

要助は首を傾げた。

「ええ」

お国はにっこりと笑った。

「支度はできた?」

「へえ」

客間に声をかけ、返事を聞いた後襖を開けると、小ざっぱりとした着物に着替えた三郎が如才なく立っていた。

「あら、似合うじゃない。見違えたわ」

背も高く、色白で整った顔をしている。きちんと支度をして、髪も整えればどこに出しても恥ずかしくない若者に見えるだろう。

「こんな上等な着物、わしにはもったいないで……」

「父の若い時のものだから、気にしないで」

お国は客間に入り、三郎の前に膝をついて指をついた。

「今日は、本当に助かりました。とりあえず、これは今日の分のお礼よ」

たもとから紙に包んだ銭を取り出し、お国は三郎の前に置いた。

「別にたいしたことした覚えはないし、飯ももろうて、風呂にも入れてもろうて……、もう十分やから……」

そう言って遠慮しようとする三郎に、お国はほほ笑みかけた。若いくせに、欲がないところが好ましい。

「それなら、三郎、もう少し頼みごとがあるんだけど、引き受けてくれるかい?」

「どんなことやろう」

三郎がいぶかし気な顔をしながら座った。

「あんた、下働きはできるかい?」

「まあ、力仕事でも、台所仕事でも一通りは」

「それなら、雇われてくれないかい。用心棒兼下働きとして、私たちと一緒に住んで欲しいんだ」

「このお屋敷に?」

三郎が、怪訝な様子でたずねる。この屋敷には、すでに下働きの下男は大勢いる。

「いや。今日背負ってもらった卓堂先生の新しい家に、私と三郎でお手伝いに行くっていう話さ」

「ああ。また、さっきの侍たちが狙うかもしれへんしなあ」

三郎は納得した様子で、あごに手を当てた。

「それも、あるんだけど……。あの薩摩の先生が、万が一、よこしまな気持ちになった時に、私の身を助けてもらいたいんだ」

お国は三郎の瞳を見つめて言った。見た目よりは繊細ないい人かもしれない。でも、それとこれとはまた別だ。足を怪我しているとしても、寝込みを襲われたら敵わない。

三郎は二度ほどゆっくりとまばたきして、遠慮がちに言った。

「あの先生は、お嬢さんの縁談のお相手やて、さっき台所で話しているのを聞いたけど」

「それは父が勝手に言っているだけで、卓堂先生もその気はまったくないの。だけど、ふたりきりで住むのは、さすがにちょっと心配でね。他の下男は、父の息がかかっているかもしれないし。ね、頼むよ」

身を乗り出して、耳元でささやいた。

女に慣れていない若造なら、これで耳を真っ赤にしそうなものだが、三郎は特に動揺する風もなく腕をくんだ。

「まあ、ええけど……」

「よかった。ありがとう」

三郎の態度は気にくわなかったけれど、一応了承したことで、お国はほっとした。

「それで、その髪はどうするのさ」

「このままじゃあかんかなあ」

「別に、いいけど。月代(さかやき)をそるのはいやかい?」

お国はそう言って、三郎の髪にそっと触れた。

この時代、頭のてっぺんをそってちょんまげを結うのが、普通だ。三郎のように、伸び放題の髪をひとつに結うのは、浪人風情の者と思われても仕方ない。

「そってもすぐ伸びるやろう。つるつるの時はいいけど、伸び始めた時にちくちくするのがあんまり好きやないんや」

子どものようにすねた口調の三郎に、お国はつい吹き出した。

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