22.幕末の薩摩藩士1


なんでこの岩の近くに逃げ込んだんだ。いつもはおっかなくて、絶対近付かないようにしていたのに。

お国はめずらしく後悔し、自分の軽率さを呪った。

調子がよくて無鉄砲。こういう性格は改めないといつかきっと大怪我をすると、父の一場要助(いちばようすけ)にいつもお小言を言われている。『いつかきっと』は、今のことに違いない。

「おいのこつは置いて、お嬢さんだけでも逃げるがよか」

肩を貸している男が、お国の震えを感じ取ったのかそう言った。薩摩なまりの大男は、木村卓堂(きむらたくどう)という学者だ。名乗ったわけではないが、上州の山間の村に薩摩弁を話す大男など、そう何人もいるはずもない。

「何言ってんだい。その足で逃げられるはずもないだろう。震えているのは、武者震いだよ」

お国はそう言って強がる。震えるほど怖いのは、この大男のすねに刀傷を負わせた五人の覆面の男たちではない。

追手から逃れるために身を隠している背中ごしの浅間石だ。

神仏の宿る岩とは、お国は不思議と仲よくやってきた。こんなことを信じる人は、あまりいないけれど岩の気持ちがわかる。怒っているとか、穏やかだとか、赤子を心配しているとか、そんなことを軽々しく言うせいか、それとも子ども時分からの身体の身軽さのせいか、年頃になると天狗小町と呼ばれるようになった。微妙なあだ名だが、小町とつくからには美人には違いないと、要助は肩を落としつつ笑っていたが。

戦国時代に真田氏に仕えた一場家は、代々関所番を任される由緒正しい家柄だ。そのひとり娘として大事にわがままに育てられたお国は、恐いものなしの娘になった。実際、地震や火事は恐いが、親父や雷は恐いとは思わない。

なのに唯一恐れるのが、川沿いに点々と残されている浅間石なのだ。

どうして雷電神社(らいでんじんじゃ)の方に逃げなかったのか。隠れるにもう少しいい建物もあっただろうに。

五対一でやられそうになっていた大男をうっかり助けてしまい、足に怪我をしている男に肩を貸しながら逃げるのに、つい上りではなく下りを選んで川沿いに来てしまった。

隠れる物は浅間石しかなく、仕方なく唯一の弱点を背に追手から逃れている。

どうして、こんなことに巻き込まれてしまったんだ。お国は自分自身を呪った。

弘化元年(1844年)秋のこと、その日の昼過ぎ、お国は出産の祝いに幼なじみの嫁ぎ先を訪れていた。

「まあ、玉のようなやや子ね」

まん丸と太った赤ん坊の眠る顔を見ながら、お国は言った。

「こんなにたくさん、お祝いありがとう。それにしても、お供も連れずによくこんな大きなもの持って来たわねえ」

風呂敷包みには、赤ん坊の衣とおむつがぎっしり詰まっている。

「はりきって作りすぎちゃったのよ。ほら、私、裁縫は得意でしょう」

「もう、お国ちゃんたら……、お供を連れてくればって言っているのよ」

幼なじみの加代は、そう言ってコロコロと笑う。子どもを産んで、ふっくらとした頬。加代は子どもの頃からよく笑う子だった。嫁ぎ先でも幸せなのだろうと、お国はほっとした。

「最近、何かと物騒でしょう」

「でも、後ろをついて来られても気づまりでさ。……大丈夫よ。暗くなる前に帰るから。それに、私を襲うような勇気のある男がいたら、父が喜ぶわよ。あの天狗小町を、まだ女として見る強者がいるのかって……」

自虐的にそう言うと、加代は細い眉をちょっと下げた。

「また、そんなこと言って……。それより、うちの人がお国ちゃんのお父上に変なこと頼まなかった?」

「あ~あ。あれは、加代ちゃんの旦那様の差し金だったのね」

加代の言う『変なこと』の意味を察して、お国はため息を吐いた。

「ごめんね。うちの人もその気になっちゃって、引き止めるためにあの手この手を考えているみたいで……」

「あの手この手のひとつが私じゃ、あんまり効果はないわよねえ」

お国はそう言って肩をすくめた。

今朝方、要助から急に縁談話があったのだ。正確には縁談でもない。

薩摩出身の高尚な学者が知り合いのつてで、加代の嫁ぎ先の離れに身をよせている。全国を放浪しあちこちで教えを請う人が絶えないのだそうだ。加代の夫新井正太郎(あらいしょうたろう)は、ぜひこの原町の地に定住して、塾を開いて欲しいと思い、引き止める作戦を練っている。

そして、正太郎の作戦のひとつが、お国と結婚させることで、この地に留まらせるということだ。つまりは、その気があるかわかりもしない相手の家に泊り込んで、世話をして色仕掛けで落とせということらしい。

『おまえのような出戻りをもらってくれるなら、それこそありがたいことだ。木村卓堂先生は、元は薩摩藩士。いろいろあって今は浪人の身分なれど、素養、教養申し分ない。さらに、剣の腕前は、示現流(じげんりゅう)の達人であるとも聞く。前の夫は腕っぷしも強くなく、頼りがいがないのが嫌だと申したではないか』

父のくどくどとした雷は恐くないが、耳が痛かった。本心では、娘を心配しているとわかっている。

「……でもさ、色仕掛けで落とせだなんて、実の父親の言うこと?」

「お国ちゃんなら、大丈夫よ。黙っていればそれなりに美人だし」

加代はそう言って笑う。そういう問題ではない。何が大丈夫なんだかとひとり言ちて、出されたお茶をごくりと飲んだ。

「でも、本当にすごい人らしいわよ。剣の腕も立つし、博識で教養も深いって、うちの人絶賛よ。薩摩の言葉ってちょっと聞き取りづらいけど……」

加代の夫の正太郎は、役人の仕事はいまいちだが、学問にはひときわ熱心だった。それに、一度言い出したら引かない性格だ。

「悪い話でもないんじゃないかしら。こう言っちゃあれだけど、お国ちゃんのこと、この辺りじゃあ有名になっちゃったでしょう。天狗小町に縁談を申し込む強者は、なかなかいないでしょうし、お国ちゃんのお眼鏡にかなう人となると、ねえ……」

長いつきあいの友は、言いづらいこともはっきりと言う。

「それに、私、聞いちゃったのよねえ。お国ちゃんが実家に帰った本当の理由……」

「だ、だ、誰に聞いたの?」

それを知っているのは、数えるほどしかいないはず……。お国は、驚いて加代の顔を凝視した。

ふふふっと、加代はやわらかく笑みを浮かべる。可愛らしい顔とこの愛嬌のよさで、加代は知りたい情報を聞き出すのが得意だった。

「伸之助さんよ」

加代の口から嫁ぐはずだった男の名を聞き、お国は一瞬動揺した。でも、それはほんの一瞬だ。

「お国ちゃんばかり悪者にさせて、申し訳ないって……。お国ちゃんのこと、心配していたわよ」

「加代ちゃん、その話誰にもしていないでしょうね」

「していないわよ、まだ……」

「誰にも言っちゃだめよ! 向こうのご両親の耳に入ると面倒だから。頼んだわよ!」

頼むと言う割には、すごむような口調になってしまった。赤ん坊が目を覚ましてヒンと泣く。

「わかっているわよ。……でもさ、悔しいじゃない。お国ちゃんばかり、誤解されたままなんて……」

赤ん坊を慣れた手つきで抱き上げながら、加代は言った。抱かれた瞬間、赤ん坊の泣き声はやみ、母の肩に鼻をこすりつける。

「お国ちゃんにも幸せになって欲しいわよねえ」

赤ん坊に優しく言い聞かせるみたいに、加代は言った。

「……いいのよ。別に、あの人のことがそれほど好きでなかっただけ」

自分に言い聞かせるように、お国は言った。

ようやく決まった遅めの縁談をぶち壊して実家に戻ったわがままな出戻り娘の評判は、すっかり町に広まった。

後悔はしていない。線の細い男で、気配りのできるところが嫌いでなかった。けれど、この人とどうしても一緒になりたいと思うほどではなかった。ただ、それだけだ。

「本当、お国ちゃんらしい」

加代がそう言って口元だけ笑みを浮かべる。

もしかしたら、今度の縁談らしき話は、加代の夫だけでなく、加代の思惑もあるのかもしれない。

なんだかんだと長話になってしまい、早く帰るつもりが夕刻になってしまった。秋の日の落ちるのは早い。ちょっと近道をして帰ろうと、大通りではなく抜け道を選んだのが、また悪かった。

キンと金属のぶつかり合う音がした。耳をすますと、何人かの男の話声と足音。竹林の向こうから剣呑な気配がする。

侍の一対一の決闘ならば、女の身で出しゃばるつもりはなかった。物陰からのぞくと、ひとりの大男に対して、五人の男が取り囲んでいた。しかも、五人は五人とも覆面をしている。正々堂々と勝負しているとは思えなかった。

風呂敷を背負っている大男は、その構えでかなりの強者だとわかった。見たことのない上段の構えでふたり、三人との剣を避ける。大男の刃が、ひとりの男の覆面を斬った。はらりと、顔の半分が見える。

「おはんは……?」

大男の顔色が変わり、動きが止まる。

「お命、ちょうだいする!」

斜め後ろから別の男が斬りかかった。一瞬何かに気をとられた大男の動きは鈍かった。

最初の一撃を寸でのところでかわすも、次の刃がすねをかすめた。体勢が崩れ、膝をついた。

危ない……。咄嗟に身体が動いていた。ふところに入っていた笛を思いっきり吹く。突然の甲高い音に男たちの動きが止まる。その隙に、大男のそばに駆けよった。

「逃げるよ」

低く大男に言い放ち、腕を肩に回した。同時に、たもとに入っていた栗を敵に投げつける。栗とは言っても、栗の殻の中に入っているのは、胡椒と唐辛子の粉だ。投げた勢いで栗の実が割れて、粉が吹き出す。くしゃみと目の痛みで身動きが取れないうちに、大男に肩を貸して逃げ出した。

足に怪我をした男と逃げるのに、つい下り坂を選んでしまったのは一生の不覚だった。唯一の弱みである浅間石に隠れながら、お国は冷や汗をかいた。

岩の向こうでは、男たちがふたりを探す足音が聞こえる。

「助けてもらったこつは、ありがたく思いもす。じゃどん、お嬢さんには関わりなか。おいが出て行けば済むこと。無駄に命を危険にさらすことはありもはん」

いつまでもここに隠れているわけにはいかない。荷物を背中から下ろしながら、大男がささやいた。

「もし頼めるなら、この荷物を新井正太郎様の屋敷に届けてもらいたか。貴重な文献が入っちょる。少しは役にも立ちもうそ」

「遺言でしたらお断りしますよ。卓堂先生」

名を呼ぶと、男は驚いた顔をした。南国の生まれらしい目鼻立ちのくっきりとした顔。その目を丸くする。

「なあに、すでにちょっとした縁ができちまったみたいなんですよ」

お国はそう言いながら、傷ついたすねのまわりを手拭いで素早くしばる。大男は顔をしかめたが、さすがに声をあげることはしなかった。

「私が追手の気を引きます。笛の音を聞きつけた家の者もそのうち駆け付けるでしょう。先生はここに隠れていてください」

「そげんこつ……」

「ご縁があったら、また会いましょう」

目を見て笑いかけ、お国は次の瞬間岩の影から飛び出した。

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