19.へそ岩の贖罪4


聞きたいことも、伝えたい気持ちもたくさんあるのに、うまく言葉にすることができない。沈黙の続く狭い空間。重苦しい雰囲気の中、軽トラックは軽快に道路を進む。

いく分雨脚が弱まった。斜め前方に岩櫃山の荘厳な姿が見えてくる。

最初にぼんやりとした記憶を思い出したのは、岩櫃山を間近に見た時だ。三郎と一緒にいた幼い私は、戦の最中家臣に殺された。

少し時代が下って、ふたり目の私は代官の娘で、三郎が剣術の指南をしていた。『強うなれ』と言うのが三郎の口ぐせだった。一緒にいたいと願ったのに、突然姿を消した三郎を待ち、ひとりで過ごした人生。

三人目の私は、天明の浅間山の噴火で濁流に流された。はっきりとした記憶はないが、残された浅間石を見ると、今でも恐怖を感じるのはそのせいだ。

何のために生まれ変わるのだろう。生まれ変わって、その度にこんなに辛い思いをするのなら、どうしてこんな運命にとらわれる必要があるのか。それに……。

そっと、三郎の横顔を盗み見た。

三郎からしたら人の一生など一瞬だ。年をとらない三郎は、誰かの一生に寄り添うことさえできない。『バケモノ』と自虐的に口にするのは、心を許した誰かにそう罵られたことがあるに違いない。

『なあ……、わしを殺してくれんか? もう疲れたわ。できれば、あんたぁに殺してもらいたい。あんたぁにしかできんことや』

絞りだすように口にした言葉に、どう応えたらいいのか。私以上に辛い思いをしてきたのは、おそらく三郎だ。

ノースリーブから出ている肩を両手で抱いた。

「寒うないか?」

三郎が気にかけて、エアコンを弱にする。

「……風邪なんかひかれて、またあのボウズに責められたら、かなわん」

言い訳のように言って、三郎は苦笑した。

「あのボウズ、あんたぁのこと心配しとったで。わしみたいな得体の知れん大人と出かけて、急に身体を壊したって。何をしたんだって、食ってかかってなあ。まっすぐな目をした、ええ子や。年があんたぁよりいくつか小さいことを気にしとるけど、もうちょい年をとれば、気にならんようになるやろう」

三郎は急に冗舌になって続けた。沈黙に耐えられないかのように。

「……そういやあ、昔似たような目をした子がいたなあ。いつだったか、あんたぁのまわりでうろちょろしとったろう」

三郎の言う『あんたぁ』が、いつの間にか私のことではなくなった。三度目の『あんたぁ』は、私じゃない。咲のことだ。それだけのことで、なぜだか傷ついた。

「なんで、一緒にならんかったんやろうなあ。大人になったら、まあまあいい男になったやろうに」

三郎のつぶやきは、ひとり言みたいに響いた。だから、返事をしなかった。

咲のまわりでうろちょろしていた亮太郎は、三郎の見立て通りに、大人になって、いい男になった。咲の前で、気持ちの一端を吐き出したのは、おれとおまえの子じゃダメなのかと口にした、あの時だけだ。

亮太郎は、代官の右腕として出しゃばらず、それでいて完璧に役目を果たした。陽気で気立てのいい妻を大事にして、子宝に恵まれ、聡明な次男を咲の養子に出してくれた。

その実直な生き方が、咲には好ましく、そして、何よりありがたかった。

だけど、三郎に亮太郎とのことをとやかく言われるのは心外だった。心外で、傷つく。唇を噛み締めて、窓の外を見た。

岩櫃山の姿は後方に流れ、見えなくなった。もうすぐ家についてしまう。

このまま家に送り届けられたら、また今度いつ会えるかわからない。こんな風になるのなら、何も思い出さない方がよかったかもしれない。思い出さないふりをしていたら、また岩の写真を撮る名目でつきあってくれただろうか。

駅前を通りすぎ、槻ノ木の信号で止まる。葉っぱがハートのシルエットに見える古木。頑張れって、応援してくれるような気がした。

「また、会ってくれる?」

両手を胸の前でくんで、私はたずねた。ほんの少し、勇気を出して。

「さあ、わからへん」

三郎は、最初に会った日みたいにそっけなく言って、車を発進させた。

大通りをそれ、住宅街に入る。人通りの少ない家の近所の空き地に、ゆっくりと車を停めた。細い車の滅多に通らない線路沿いの道を進むと、卓堂碑があり、線路を渡ればすぐ家だ。

「この辺りでええか」

キッとサイドブレーキを引く音がした。私を知る誰かに会うことを、警戒していたのかもしれない。

雨は、いつの間にかやんでいた。

「うん」

次に会う約束ができない以上、もう話すことはない。正体を明かした三郎は、もう二度と会うつもりはないかもしれない。咲との別れの時のように。

もう二度と会えないのだとしたら……。十七年間で一番の勇気を振り絞った。

私のシートベルトをはずそうと顔を寄せた三郎の、頬にそっと手を当てた。一瞬身体を固くした三郎の唇に、触れたか、触れないかのところで離れる。

三郎が目を見ひらいた。途端に恥ずかしくなって、手を放した。

「ごめんなさい……」

蚊の鳴くような声で謝って、助手席のドアを開けようとする。その腕を突然掴まれた。

「……!」

抱きしめられ、唇を重ねられた。触れるだけではない深い口づけに、熱いものが流れ込んでくる。

身体の奥の何かが、三郎に吸い尽くされて空っぽになる気がした。溺れる。思わず目を閉じ、身体がすくんだ。

それは、とても長く感じられたけれど、たぶんほんの刹那の時間だったのだろう。

「……勘弁してや。こういうのは、やめてくれと、前も言ったやろう」

気が付くと、三郎ののどぼとけが目の前に見えた。おでこの上で、三郎の声が響く。苦しくないぎりぎりの力で抱きしめられていた。

鼓動を感じる。温かな胸。この人がバケモノだなんて思えなかった。

「はなれるのが、お互い辛くなるだけや。頼むわ……」

腕の力がゆるみ、三郎が手で髪をなでた。愛おしいと伝わるような優しさで。

顔をあげると、三郎が困ったように顔をそむけた。

「ありがとう。送ってくれて……」

それだけ言って、軽トラを降りた。三郎は、それから私の方を見ようともせずに、黙ったまま軽トラを走らせた。

白いトラックが小さくなるまで、私はそれを見送った。

「ただいま……」

玄関を開けると、大きな汚れた靴が転がっている。いつものように、涼くんが来ているらしい。顔を合わせづらいと思いながら、リビングのドアの前でため息を吐く。

「もう休憩にしようよ~。おやつに涼くんの好きな名水ゼリーのトマト味あるよ!」

勉強に飽きたのか、美紅の声がした。

「ああ、後にする」

そっけない涼くんの声。

「なによ。急にがり勉になっちゃって。どうしたの?」

「受験生だから、当たり前だろう。第一希望にはどうしても受かりたいし……」

「ふうん」

美紅の足音と、冷蔵庫を閉めるバタンという音。

「妃芽ちゃんと一緒に高校に通いたいんだもんねえ。って言っても、妃芽ちゃん、女子高だから一緒の高校に行くわけじゃないのに」

涼くんの第一志望の高校は、県内では進学校で、私の通う女子高と同じ最寄り駅だ。

「別に、そんなんじゃねえよ。でもさ、電車の中で誰かに絡まれるかもしんねえし……」

「一緒に通うって言ったって一年だけじゃん。妃芽ちゃん、すぐに大学生になっちゃうもん」

「だから、勉強しているんだろ」

涼くんが、苛立ったように舌をならす音。

「妃芽ちゃん、頭いいもんねえ」

「まったく、妃芽ちゃんはどこに行ったんだよ」

からかうような美紅の声を、涼くんは既に聞いていないようだった。そっとドアの隙間からのぞくと、ぶつぶつと文句を言いながら涼くんが問題集に向かっている。

「高校生なんだから、いろいろあるでしょう。いつまでも、お母さんみたいな役目ばかりじゃ、妃芽ちゃんだってかわいそうじゃん」

「おれだって、好きで中坊なわけじゃねえや」

文句を言う美紅に、涼くんはさらに不機嫌そうな声を出した。

涼くんの気持ちには、気が付いていた。けっこうずっと前から。でも、気付かないふりをしていたし、家族同然の弟みたいな存在だった。

涼くんは、最近ちょっと様子がおかしい。いらいらする感情を隠そうともしない。

咲の記憶を思い出してから、涼くんの気持ちを感じるたびに、罪悪感が胸にうずまく。

涼くんはもしかしたら、亮太郎の生まれ変わりなのかもしれない。けれど、亮太郎は、こんな風に気持ちを表して困らせることはなかった。それはきっと、江戸時代の身分が関係している。咲を困らせぬよう、気持ちを封じ込めていたのだと思い知らされる。

身分も家柄も関係ない今の時代に、想いが通じないのは年が二つも違うせいだと、涼くんは思っている。中学生と高校生では、確かに年の差は大きい。

でも、それだけではない。涼くんが同級生だったとしても、気持ちが揺らぐとは思えなかった。

私は、思わず唇に手を当てた。

「あれ、妃芽ちゃん」

ゼリーを二つ手にした美紅と目が合った。

「……ただいま」

「どこに行ってたんだよ。妃芽ちゃん、最近出かけてばっかりでさ」

「うん、……ちょっと」

不満げな涼くんを直視できずに、視線をそらした。

「……おれ、レトルトカレーもう飽きたんだけど」

ぶつぶつと文句を言いながら、涼くんは問題集に視線を落とす。

気まずい空気が流れて、リビングに入るのをためらう。このまま部屋にこもってしまおうか。一瞬、そんな考えが浮かんだ。

「あれ。妃芽ちゃん、濡れてるじゃん。傘持っていなかったの」

「うん。でも、大したことないから……」

「だめだよ。風邪ひいちゃう。早くお風呂入っておいでよ。さっきまですごい豪雨でさ。お姉ちゃんの部屋の窓も閉めておいたよ」

「……ありがとう」

「というわけで、涼くんは、今日は帰った、帰った」

美紅はそう言って、涼くんの宿題を片付けようとする。

「何だよ。まだ、途中なのに……」

「妃芽ちゃんは、これからお風呂なの!」

「……」

美紅の言葉に、涼くんは黙り込んだ。涼くんもヒロさんも、家族同然で夜ご飯の時間まで家にいるけど、私と美紅がお風呂に入るまでには帰るのが、暗黙の了解になっている。

「妃芽ちゃんが風邪ひいたら、ずっとお昼カレーだからね。はい。ゼリーあげるから、今日の宿題タイムはおしまい!」

美紅は手にしたトマト味のゼリーを涼くんに押し付けた。どんどん片付けさせて、追い立てている。

美紅がいるおかげで、気まずい空気が少し薄らいだ。

「ごめんね、涼くん。後で、おじさんと夕ご飯食べに来て」

そう声をかけると、涼くんはのろのろと立ち上がった。涼くんが玄関に向かう後姿を見送り、ほっとして風呂場に向かった。

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