18.へそ岩の贖罪3


「怒っているわけじゃない。ただ、あの人は、三郎と一緒にいたかっただけなの」

私は咲の生まれ変わりなのかもしれない。はっきりとした記憶は、その証なのだろう。

けれど、私は咲ではない。生きる時代も、その生き方も……。

三郎の右手が、私の肩に触れる。

「あかん」

低くうなるようにつぶやいて、三郎が身体を離した。

それでも、左手はまだ私の手のひらの下にある。骨ばった冷たい手を離したら、またどこかに行ってしまう気がした。

今離れがたいのは、咲の気持ちではなく、私の気持ちだ。

「……バケモノと、いつまでも一緒にいられるわけないやろう」

どこか傷ついた顔をして、三郎がつぶやいた。

「バケモノ?」

「年も取らん、殺しても死なん。そんなヤツ、バケモノでしかない。仲良うなっても、十年、二十年も一緒にいたら、みんなわしのことを気味悪がるのや」

自嘲気味に三郎が笑った。まっすぐに雨粒がガラスを叩く様子を見つめる。

「不老不死にあこがれる人間をぎょうさん見てきたが、実際に出会ったら、みな恐れる」

不老不死という言葉が、ずしりと胸に響いた。

今ならわかる。年をとらない三郎が、あのまま咲と一緒に暮らせないことも。三郎が、それをどんなに辛く感じていたのかも。

「あなたは、天狗様なの? 七不思議伝説の、大場、三郎?」

『いまがわ新聞』に書かれた記事には、天狗になった大場三郎は、不老不死の身体となりこの村を守っているとあった。

「さあ、苗字など忘れてしもうた。わしは三郎や。それしか覚えておらん。覚えているのは、ずっと昔、わしのまわりに、うろちょろした女の子がいたってことくらいや」

「女の子?」

待って、三郎。誰かを追いかけた記憶が、頭の奥で光った。背の高い男の人を追いかけまわした……。その顔は……。

ズキンと頭が痛んで、思わず顔をしかめた。それ以上は、何も思い出せない。

「剣の稽古についてきて、一緒に遊ばんと泣く。困った子やった」

三郎の顔が少しだけほころんだ。

「わしには、父親がいなかった。母親と一緒に暮らしとったが亡くなった後は、ここらへんの豪族の長が、面倒を見てくれた。その娘だから、邪険にもできん。母親の顔は忘れたっていうに、その娘の顔だけは今も覚えている」

三郎の語るそれは、やはり七不思議伝説を連想させるエピソードだった。

「その娘は、ある日悪霊に殺されてしもうた。わしは、その悪霊と戦い、そいつを岩の下に閉じ込めたんや」

「それが、あの時の岩……」

初めて三郎に出会った時に見た、恐ろしい岩のオーラを思い出した。人間の心の奥の罪や欲、罪悪感を刺激するような負のオーラ。

「ああ。悪霊を退治しても、娘は帰って来ない。そん時に初めて気付いたんや。わしのことを気にして、かまってくれる人間は、もうどこにもおらんって。……そん時に、初めて孤独っちゅう言葉の意味を知ったなあ……」

「……」

「わしは、運命を呪った。そうしているうちに、わし自身が悪鬼になり変わるところやった。自分を作り出した父親を殺そうと思ったんや。……京に上り、当時の帝を」

思わず息をのんだ。新聞で読んだ、身分の高い人の子どもを身籠った母親。その相手は当時の帝……。

「そんなわしを見かねて、大天狗様がやって来たんや。このまま悪鬼になるのがいいか、天狗の修行をして不老不死の身体を得るのとどっちがいいか選べってな。大天狗が言うたんや。あの子はこの地に生まれ変わるだろうってな。天狗になったら、この町と、生まれ変わったあの子を守ることができると……。わしは、ここでずっと生きていくことを選んだんや」

「……三郎は、天狗になって、この町を守ってくれていたのね」

大場の七不思議伝説や岩櫃山の天狗伝説。それは、三郎がこの地を守ってくれている証なのだろう。

私の言葉に、三郎はかすかに首を横に振った。

「……守れたことなんて一度もない。最初の姫は、戦で命を落とした。奥方様に気を取られて目をはなしたちょっとの間や。悔やんでも悔やみきれんかった……。だから、ひいさんの時は、強く育つよう力をつくしたんや。何があっても、生きていけるよう……」

三郎は、咲にいろいろなことを教えた。剣や弓だけでない。代官として知るべき村人の暮らし。山に生える植物とそれを活かす知識。『強うなれ』は、三郎の口ぐせだった。

おかげで咲が不本意に婿をとらずとも、伊能家は父の重三郎から養子へと家督をゆずることができた。咲は、自分の意志を貫いて生きることができた。

それでも、咲は一緒にいたかった。どうして何も言わずに、姿を消したのか。すべてを話してくれたら……。喪失感は多少和らいだだろうか。

「大きく賢くなるのを見守るのが楽しくてなあ。長く一緒にいすぎたんや。あのまま一緒にいたら、わしは、再び悪鬼になりはてたかもしれん」

「どうして……?」

三郎が、私の手から逃れるように左手を引き抜いた。ハンドルの上に手をおき、おでこをつけた。

「ひいさんの婿になるかもしれん男を見た途端、何とも言えん感情がわき上がってきたんや」

「……」

それは、嫉妬だろうか。人が持つ当たり前の感情かもしれない。けれど、人よりも強い力を持つ三郎が嫉妬に狂うことがあれば、どんな結末になるか想像もできない。

「……あの岩、何か言っていたか?」

こっちを見ないまま、三郎は小さくたずねた。激しい雨の向こうにかすむ大きな岩のことだとわかる。

「何も……。ただ……」

あの岩は、何も言葉を語らなかった。ただ、映像を見せてくれただけだ。

「三郎が、何度も何度もこの道を通っていたのが見えた。おじいさんが、三郎の身体を心配していたの……」

「ああ。加部安左衛門(かべやすざえもん)様やな」

三郎が、ほんの少し顔をあげた。目だけしかみえない三郎は、それでもなつかしいという風に目尻を下げた。

「加部安っちゅう江戸時代の豪農で、上州三大富豪のひとりとよばれたお方や。天明の浅間山の大噴火で被害のあった村々に米を送って救ったんや。わしは、それを届ける手伝いをしただけや」

たいしたことじゃないという口調で、三郎が言った。

「でも、どうして三郎が……?」

晴れの日も雨の日も、身体にむち打って、物資を運んだ。何かに責め立てられているかのように。

「わしが、見殺しにしたからや。安左衛門様の孫に、嫁ぐことになっていたひいさんの生まれ変わりの娘を……」

ピカっと西の空が光る。贖罪という言葉が頭に浮かんだ。

三郎の目がまっすぐにフロントガラスに向けられている。雨の向こうをにらんだままだ……。

「見殺し……?」

「ああ。救えたのに、救わんかったんや。吾妻川沿いの村の庄屋の娘で、生まれ変わりだってわかっていたのに。仲良うなっても、別れるのが辛いだけや。そう思うて、遠くから眺めるだけやった。顔を覚えられんよう、数年に一度こっそり会いに行った」

三郎がこっちを見た。けれど、その瞳に私の顔は映っていない。見ているのは、もっとずっと遠くの誰かだ。

「天明の夏の日、大きな噴火があって、川沿いの村で多くの人が流された。近くにいたらあの子を助けられたのに、わしは近くにいることを避けたんや。……どこか思っていたのかもしれん。あんな思いをして自分から離れるよりは、出会わん方が、辛くないんやないかって……」

ふたりの息で、フロントガラスが真っ白に曇る。そこに、容赦なく打ち付ける雨にかき消されそうな声で、三郎は続けた。

「すまんかった……。あんたぁが、浅間石が怖いのはそのせいやろう」

この謝罪は、私に向けられたものだろうか。それとも、その時に濁流に流された人への

贖罪だろうか。

私は、首を横に振った。

「三郎の、せいじゃない」

やっとのことでそれだけ言った。誰も、三郎を恨んではいない。私に繋がるかもしれない人は誰も。それは確かだった。

「もう、ええやろう。……送ってく」

三郎がキーをひねる。生き物のように、エンジンが動いた。暑苦しい空気を消し去るようにクーラーを強に回すと、車が低くうなる。ふたりの息で曇ったフロントガラスを、三郎が手拭いで乱暴にぬぐった。

軽トラックがゆっくりと走りだす。雨の向こうで、へそ岩がこっちをにらんでいる。その風景もすぐ後ろに消えた。

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18.へそ岩の贖罪3