17.へそ岩の贖罪2


三郎のことが知りたければ、へそ岩に聞いてみればいい。

『おいものおじさん』の言葉を信じ、私は坂上行きのバスに乗った。運転手と私だけ乗っている小型のバスは、軽快に目的地に向かう。

今日は涼くんが来る前に家を出た。昔の記憶を思い出したら、顔を合わせづらかった。私は咲の生まれ変わりで、涼くんは亮太郎の生まれ変わりなのかもしれない。

それなら、三郎は……。

その真意を確かめるために、へそ岩に話を聞こうと思ったのだ。

途中、お父さんと一緒に見た子持ち岩の前を通る。母親の形の岩が歓迎してくれている気がした。

「ごめんね、この間は無視して……」

運転手には聞こえないように、岩に向かってささやいた。

夏の日差しを浴びながら、緑の葉から突き出た独特な形の岩たちがくすくすと笑っている。こんなにも、世界は明るかっただろうか。岩の声に耳をすますと、心を閉ざしていた頃よりも少しだけ空が高く感じられる。

終点でバスを降りると、セミの大音量に迎えられた。

真っすぐ歩けば嫌でもへそ岩が見えると、お父さんから聞いていた。けれど、途中で寄り道をしようという気になった。

右に曲がり橋を渡ると大柏木。この道の奥が大場、七不思議の舞台だ。山の中にぽっかりと開いた空間。そこまではとうてい歩けないけれど、この間帰り道で、気になる岩があった。しくしくと寂しそうに子どものように泣いている岩。あの子は、どうして泣いていたのか。

人家のまばらな割には広く立派な道路は、上りあげた後になだらかに下り、橋を渡る。

道の左手には山がせまり、右手には畑と民家がある。オクラやトマトの実る小さな畑と道路の間に、その岩はあった。直径二メートルほどの大きな岩が、車の往来する道路のすぐ脇にあるのは不自然だ。それに他の岩とは何か違う。

岩の上には小さな社がある。人々に祀られた岩だとは思うのに、荘厳な雰囲気がないせいだろうか。

『こんにちは。来てくれたの?』

うれしそうに、その岩が語りかけてきた。少女のようなか細い声。この間、しくしくと泣いていたのはこの声だ。

「どうして泣いていたの?」

『寂しかったの。三郎が、寂しいって……』

頭の中に沁みこんでくる声。寂しい気持ちがあふれてくる。

『どうして、姿を消したの?』と三郎に問い詰めた時の、三郎の傷ついた顔。

突然姿を消した三郎を探し回る咲を、重三郎はなだめた。『三郎は、元々家来というわけではない。本人の意思でどこにでも行けるのだから』と。その顔はどこかほっとしているようだった。

それでも、咲は三郎を探した。夜中にひとり岩櫃山をさまよったこともある。暗闇の山道で足を滑らし、崖から落ちて気を失った咲は、気付くと自分の部屋で寝ていた。三郎が助けてくれたのだ。そう確信する一方で、三郎はもう二度と姿を見せるつもりはないのだとわかり、がく然とした。喪失感は想像を絶するものだった。寂しくて泣き明かした夜。

『あなたも、寂しかったのね。私たちみたいに……』

この岩は寂寥岩(せきりょういわ)だ。寂しい者を引き付ける岩。力を持った岩に近付くのは危険だと思いながら、あらがうことができなかった。この岩は三郎を知っている。

手を触れると、岩はひんやりと水を含んでいるようだった。夏の太陽の日差しを直に受けているとは思えない。それは誰かの涙を含んでいるようだった。

……ある風景が見える。この寂しがり屋の岩は、もともとこの道端にあったのではなかった。眺めのいい山の上にあった大岩は、そこで大黒様と呼ばれ祀られていた。春になると村人が山に登り、岩の前で酒を汲みかわす。着物姿の子どもたちも一生懸命親について岩のそばまで登り、母親が用意したごちそうを食べるのを楽しみにしている。

岩のまわりではしゃぐ子どもたちを、岩は心待ちにしていた。けれど、いつの時代からか、その風習はすたれ、祭りは行われなくなった。

山の上には、寂しい岩だけが残された。

岩の傍らで三郎が泣いていた。修行僧のような姿。ぼろぼろの丈の短い着物姿。武士のようなはかま姿。いくつもの時代が過ぎ去る。それでもなお三郎は、何度も何度もここを訪れた。この岩と同じように、孤独の中に取り残されたまま……。

『三郎が、山の上から私を落としてくれたの。村の人たちの近くに行けって』

長雨にさらされて地盤のゆるくなったある日、三郎が岩を動かした。山の斜面を下って、道路の脇にその岩はたどりついた。

山の上での祭りを言い伝えに聞いていた村人が、大黒様が降りてきたのだと、岩の上に小さな社を建てた。

子どもたちに会いたい寂しがり屋の岩が、ここにいるようになったのは、それほど大昔のことではない。だから、神として祀られている他の岩のような荘厳さがないのだ。幼い子どものような無邪気さが漂う。

『三郎のおかげで寂しくないの。でも、三郎はまだ寂しがっている。三郎のこと助けてあげて……』

「……うん。わかった」

咄嗟にそうつぶやいていた。

『ありがとう。会いに来てくれて……』

くすぐったいような、うれしそうな声が頭の奥に響く。私は岩の表面から手を放して、目を開けた。

大柏木入口の橋を戻り、丁字路を右へ。ここからまっすぐ西に向かうと、へそ岩があるはずだ。

お父さんが行けばわかると言った意味をすぐ理解した。入道雲に向かって進む舗装された道路。両側に緑のこんもりとした低い山が連なる。右側の前方に、岩肌が見える。景色がだんだん大きくなるにしたがってそれが目指している岩だとわかった。洞窟のような窪みに、大きな丸い球体の岩が埋め込まれている姿は、人間のへそに見えなくはない。

近付くと、その存在感に圧倒された。外気温が、急に五度下がったような荘厳な雰囲気がある。

「あれが、へそ岩……っていうか」

へそというより、人の目に見える。巨大な瞳が私をにらむ。心の迷いや、怠慢や、弱さを、見透かされているような気がする。

圧倒的な存在感の岩は、強い意思を持って、頭の中に直接映像を送ってきた。

……季節は夏だった。舗装されていないぬかるんだ道を、粗末な着物を着た三郎が、大八車を引いていた。大八車の上にはぎっしりと積まれた米俵。何度も何度も、何往復も、へそ岩の前を休まず三郎は通った。草鞋がすり切れ、泥だらけの親指に小石が食い込む。はだけた着物に、乱れた髪……。それでも、三郎は足を休めることはない。

へそ岩がそんな三郎を見つめている。この道を通るたびに、三郎はへそ岩ににらまれているかのように、疲れた身体にむちを打つ。

『助かるが、おまえさんも休んだらどうだ。そんなに根を詰めて働いていては、おまえさんの方が倒れてしまうぞ』

白髪の老人が三郎に声をかけた。小奇麗な身なりをした、裕福な商人といった姿。

『いいえ。吾妻川沿岸の村々では、加部安様のほどこしを今か今かと待っていますんで。特に、鎌原(かんばら)村はひでえ有様で……』

『鎌原は、村ごとのみ込まれたというのは本当なのだな。浅間山の噴火の音は、こっちまで聞こえたからなあ……』

『大切な米を、一刻も早く届けなきゃあかんのです。休むわけにはいきません』

三郎は老人の止めるのも聞かず、大八車を引き出した。

天明の浅間山の噴火だと、直感的に感じた。江戸時代中期、噴火した土石流が鎌原という村をのみ込んだと聞く。そして、吾妻川をせき止め、自然にできたダム湖が決壊し、川沿いの村々を襲ったことも……。

熱い岩が煙を上げたまま、黒い濁流が村を襲う。

その状況を思い出して、背中に汗をかいた。暑いからではなく、寒気がするほど怖い。

『なぜあんなにも、自分を追いつめるまで、人を助けようとするのか』

三郎の後姿を見送りながら、老人がつぶやいた。

贖罪(しょくざい)という言葉が、脳裏に浮かぶ。

ゴロゴロと雷が鳴り、雨が降り出す。三郎はそれでも足を止めることはなかった。自分の身体を休めることも許さないほど、後悔と懺悔にさいなまれた三郎の心を、へそ岩は見透かしていた。

ポツリと、水滴が肩に触れた。

どのくらいの時間、そこに立ち尽くしていたのだろうか。ピカリと稲妻が光った数秒後に、ドドンと雷が鳴った。いつの間にか西から黒い雲が立ち込めている。

ポツポツと、大粒の雨が火照った身体を冷やす。ノースリーブから出た腕の冷たさで、現実に引き戻された。

にらんでいるようにこっちを見つめているへそ岩。

なぜ私は、ここに立っているのだろう。現実に戻ったというのに、どこか平衡感覚が戻らなくて、その場から動けなかった。

さっきよりも近くで、雷鳴が轟く。

「何やっとんのや」

突然腕を引っ張られた。よろける身体を支えられ、見上げると怒ったような三郎の顔があった。

「……」

なぜここにいるのと問う暇もなく、引っ張られるままに足が動いた。軽トラックの助手席に押し込められる。カチカチとハザードが鳴る狭い空間。

「送ってく」

反対側から回り込んで、三郎がバタンと運転席のドアを閉めた。

「この辺りは、バスもあんまりないで。どないするつもりだったんや」

エンジンをかけようとギアに触れた三郎の左手を、思わず握って止めた。

「……やっと、つかまえた」

三郎の白いTシャツをつかんで、顔をうずめる。湿った森の香りがした。三郎の身体が岩のように硬直し、息を止める。

ザーッと土砂降りになった雨が、フロントガラスを叩いた。雷を遠くに聞く。

「……すまんかった」

絞りだすように、三郎があやまった。

『どうして、姿を消したの?』

責めるように問われた咲への謝罪だとわかった。

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