16.へそ岩の贖罪1


「妃芽ちゃん、大丈夫?」

ノックの音で、目を覚ました。ドアの隙間から、美紅の顔がのぞく。

「お昼食べられる? レトルトのおかゆ、温めようか?」

「え? もうそんな時間?」

「ああ。起きなくてもいいよ」

起き出そうとすると、頭がガンガンした。美紅が慌てて言う。

「お昼の準備は、自分でするから平気だよ。レトルトのカレーだけど」

「……ごめんね。お腹空かないから、もう少ししたら起きて食べるね」

「うん。ゆっくり寝て」

そっと音を立てないようにしながら、美紅がドアを閉めた。

昨日一度にたくさんの記憶を思い出したせいか、夜の間も夢を見ているみたいで、身体がだるかった。

『どうしてあの時姿を消したの?』

三郎はその問いに答えてくれなかった。

『わしを殺してくれへんか』

三郎の思いつめた横顔に、それ以上問うことはできなかった。

あの記憶をどう捉えればいいのか。ゆっくりと天井を見ながら考える。

咲は、私だ。ありありと思い出せる。触った感触も、悔しい思いも、身を切り裂かれるような悲しみも。

私は、咲の生まれ変わりなのだ。そう考えるのが、自然なのかもしれない。

前に岩櫃山で思い出した記憶も。岩櫃城が落城する際に家臣に殺された姫君、あれも私の前世なのかもしれない。

共通するのは、岩の言葉がわかること。そして、傍らには三郎がいたこと。

『あなたが、ここに来て十年以上が経ちます。子どもだった咲は年頃の娘になり、わしも年老いた。髪もずい分白くなりました。でも、……あなたは、少しも年をとらない』

重三郎の言葉を、咲は考えないようにした。三郎のそばにいたかったから。

三郎が突然姿を消した後の胸の痛みがよみがえり、私は目をつぶった。三郎と再び会う約束もしなかった。このまま二度と会えないのかもしれない。あの時みたいに。じんわりと、涙がにじむ。

しばらくうとうとして、起き出した。いくら考えても仕方ない。そろそろリビングに行こうと、パジャマから着替えた。

コンコン、と遠慮がちにノックする音がした。

「はい?」

「具合、どう?」

顔をのぞかせたのは、涼くんだった。心配そうな表情が亮太郎と重なる。そうだ。涼くんと亮太郎は、よく似ている。

「顔、真っ青だよ。まだ、寝ていた方がいいよ」

「ううん、平気よ」

涼くんの声を聞くと、少しだけ混乱した。ここは私の部屋だ。机の上に手をつく。鉛筆立てに、あの日拾った黒い羽根があった。

「あのさぁ、昨日あの男に何かされたの?」

涼くんが遠慮がちに声をかけた。

「だって、おかしいじゃん。昨日まで元気だったのに、あの男と出かけた後急に具合が悪くなるなんてさ」

昨日おいて行かれたのが相当不満だったのか、心配する表情はみるみる不機嫌なものになる。

「あいつに聞いても黙ったまんまで、何にも言わないしさ。それに……」

「え?」

私は思わず、涼くんの言葉をさえぎった。

「あの人に会ったの?」

そう聞くと、涼くんはしまったという表情になった。その後、しぶしぶという感じで口を開く。

「踏切の脇の赤い社のところにいたんだ。でっかい石碑みたいなやつあるじゃん。あそこの前に……」

「石碑の前ね」

私はそうつぶやいて部屋を出ようとした。涼くんの脇をすりぬける。

「もういないと思うよ。会ったのは、お昼前だもん」

涼くんの言葉を背中で聞いた。でも、振り返ることはなかった。

三郎が来ていた。すぐ近くに。

玄関から、夏の太陽の下に飛び出した。

もう二度と会ってもらえないと思っていた。記憶がよみがえったと知った時、三郎が明らかに傷ついた顔をしていたから。

赤い小さな社は、いつもそこだけ時間が止まったように見える。緑のあざやかな芝の庭の脇にある、ひし形を立てたような大きな石碑。

「おじさん!」

駆けよって思わず話しかけた。

『……久しぶりでごわすなあ』

時代劇のような仰々しい口調で、その石碑から声が聞こえた。まだ岩と話をするのが当たり前だと信じていた幼い頃、話し相手として一番のお気に入りだった近所の石碑。

「少し前に、ここに男の人が来なかった? 中学生の男の子に話しかけられていたと思うんだけど……」

『ああ、三郎さぁのことでごわすか』

「三郎を、知っているの?」

当たり前のように帰ってきた返事に、私は拍子抜けした。どうして、この岩は三郎の名を知っているのか。

『三郎さぁとは、三月ほど、一緒に住んでいたでごわす。いろいろと、世話になりもうした』

「……一緒に、住んでいた?」

私は、改めてそのつるりとしたなめらかな碑を見上げた。『卓堂先生碑』と書かれた大きな石碑。

先生の死を悼んで石に名前を刻む人の思いがかすかに残っている。『先生も、維新まで生きておられたらなあ』と残念がる門弟たち。

そういえばその岩の話し方は、幕末の時代劇で聞く薩摩藩士のようだった。西郷隆盛みたいな。幼い頃『おいものおじちゃん』と言って、お母さんから変な顔をされたのを思い出す。

「卓堂先生と、三郎は、幕末に一緒に住んでいたってこと?」

『幕末かどうかは知らんが、おいと三郎さぁとお国で、一緒に暮らしたことがあったでごわす』

「それで、三郎はどこに行ったのか、知っている?」

『さあ……』

「何か言っていなかった?」

『おいどんの方を見ていたが、何も言ってはいなかったでごわすよ。その後、すぐにボウズが来て、話をしていたでごわすが……』

「涼くんね……」

涼くんが三郎に何を言ったのだろう。また、変なことを言わなきゃいいけど……。

「それで、……何を話していたか、教えてくれる?」

声をひそめて、私はたずねた。

カンカンと音がして、電車がゆるやかに走って行く。炎天下の中、普段から人通りのまばらな線路際の小道は、人影もない。

『ボウズが何やら絡んでいたようでごわすなあ。どうして二歳も年下に生まれたんだと、悔しそうに』

「……」

涼くんは、私のことになると時々おかしい。それは私に好意があるせいだと、わからないほど鈍くない。わからなくはないけど。

「そんなこと言われたって、三郎は困るでしょうに……」

『三郎さぁは、うらやましいと言ったでごわす』

「うらやましい……?」

『一年や二年の違いなど、一生の中ではなんでもないと、一緒に年をとり、生きていけるだけでうらやましい、と』

頭の奥で響く優しい声に、じわりと胸の中の何かが溶けた。

一緒に年をとり、生きていけるだけで。

『三郎さぁのことが知りたければ、へそ岩に聞いてみればよか』

「へそ岩?」

『おいのつれ合いと一緒にへそ岩を見たことがあったでごわす。三郎さぁの思い入れのある岩だと、つれ合いが言っていたでごわす』

どこかで聞いた名前だった。お父さんなら知っているだろう。

「ありがとう、おいものおじさん!」

子どもの頃のように呼びかけると、その岩はくすぐったそうに笑った。

『縁談話があるんだ。おれも、そろそろ年貢の納め時かな』

亮太郎が重い口を開いた。剣の稽古の後、汗をふいて縁側に腰かけた。そのついでのように。

『そうか。そうだろうな』

咲は、納得したように答えた。そっけない物言いだったかもしれない。

三郎が突然姿を消して、十年以上の月日が流れていた。茂木家の後継ぎとして妻をめとるのには、遅すぎるくらいだ。

『咲の相手を見つけるのが先じゃないかって、ずっと思っていたんだが……、親父の具合が悪くてな……』

言い訳をするように、亮太郎が言った。誰に対する言い訳なのだろう。咲にだろうか。それとも、自分自身に対してか。

亮太郎の気持ちはわかっていた。わかっていて、いつもそばにいて、気付かないふりをしていた。すっかり大人になった亮太郎は、咲よりも背が高く力も強い。本気で剣を打ち合えば負けるかもしれない。互角になるよう手を抜いていることも、わかっていながら気付かないふりをしている。

『おまえは、まだその気にならんのか』

『ああ。なかなかこの人だと思う人がいなくてな。……完全な行き遅れだな。父上もウメも、そろそろ本気で諦めてくれたようだ』

亮太郎の真顔の問いに、咲は苦笑いを含んで答えた。男のような姿をして、髪も短めに切り、ひとつに結わえている。縁談話もめっきりなくなった。

『まだ、あの方が忘れられないのか?』

『……』

そう言われて胸が詰まった。

『三四郎様のこと、お気の毒だったな』

『え。……ああ』

一瞬、頭をよぎった顔と別の名が出て、咲ははっとした。

三四郎は、父岡登景能とともに、新しい土地で立派な用水を造り、未開の地に多くの実りをもたらした。しかし、切腹して果てたと人づてに聞いた。家来の罪を背負ったとも、あまりの名代官ぶりをねたんではめられたとも……。

それを聞いた時は悲しかった。はつらつとした少年の笑顔を思い出し、山に登り岡登代官ゆかりの岩とともに泣いた。

けれど、ついさっき思い出した顔はまったくの別人だった。

『なあ、亮太郎。頼みがあるんだが……』

『なんだ?』

『おまえに男の子がふたり生まれたら、ひとり養子にくれんか』

咲には心に決めた人がいた。自分の代わりに代官を任せられる人はその人しかいない。そうでなければ自分がする。そう決めていた。

あの出来事以来、重三郎を尊敬し、父の国の治め方を本気で学んだ。三四郎の予言のとおり真田伊賀守は改易になり、ここは幕領となった。以前よりはるかに、豊かな土地になっている。

あとは次の世代に繋ぐよう後継ぎを育てたい。亮太郎の子ならば間違いないような気がした。

『あのさあ……』

突拍子もない申し出に、亮太郎はためらいがちにたずねた。

『後継ぎが必要なんだろ。それって、おれとおまえの子じゃだめなの?』

夕暮れに赤く染まる空に、カラスが鳴いて飛んでいく。

『……』

咲は驚いて、隣で居心地の悪そうに座っている亮太郎の顔を見た。

驚いたのは、その可能性を少しも考えてなかったからだ。亮太郎の子なら間違いない。そう思っていたくせに。身体の弱い父の代わりに、既に重三郎の役に立っている亮太郎なら、咲の相手でもおかしくない。それなのに、亮太郎と夫婦になる未来は微塵も想像できなかった。

『……わかったよ』

じっと咲の方を見返していた亮太郎は、諦めたように目をそらした。そして、西の空を見上げる。

『おれは、器量よしの嫁をもらって、嫁をうんと大事にして、たくさんの子を産んでもらうよ。それで……』

亮太郎の横顔が、夕日で赤く染まっている。

『一番出来のいい子をおまえにやるよ』

『……すまんな』

詫びた声がかすれた。ひどいことを言っている自覚はあった。

『いいんだ。おれはおまえの右腕となって、一緒に生きていけたらそれでいい』

さっぱりとした口調で言って、亮太郎が立ち上がる。

見上げる広い背中に手をあてて、この人に頼れたら楽になれるのかもしれない……、そんな考えが頭によぎった。

けれど、身体は動かなかった。

『じゃあな』

亮太郎は竹刀を拾って裏門に向かう。頑としてこっちを見ようとしない亮太郎を、咲は呼び止めなかった。

顔を見たら、お互い決心が揺らぐ。他人が聞いたら呆れるだろうこの約束を、亮太郎は守ろうと努力するだろう。

カラスが笑うように鳴きながら、ねぐらに帰って行く。

『……バカだな、私は……』

幼なじみを傷つけてまで、突然姿を消したあの人の帰りを待っているのか。ひとりになった咲はつぶやいて、苦笑した。

待っていた。いつ、あの人が帰って来てもいいように。

西の空はいつの間にか燃えるような火の色から、漆黒の闇に変わる。

あの人は、どこにいるのだろうか。夕日を見ると切ないのは、あの人はきっと西の山にいるからだと思う。

『……三郎』

つぶやいた唇に塩からい涙が一粒入り、咲はその時初めて泣いていることに気付いた。

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