15.岡登代官と岩櫃の天狗様8
『待たせたなあ』
間の抜けた京風の声が耳元に響いた。
『さ、三郎……?』
『亮太郎を引き上げるのに時間がかかってなあ……。遅くなって堪忍や』
三郎は少しも怒っている風もなく、咲にそう笑いかけた。
内緒でこんな企てをしたというのに、当たり前のように助けに来てくれる。
『三郎』
咲は、思わず三郎に抱きついた。胸から森の朝の霞の匂いがした。
『……怪我したんか。もう大丈夫や。ちょっと待っててや』
三郎が、そう耳元にささやいた。コクリとうなずく。大丈夫。三郎がそう言えば、きっと大丈夫。身体の力が抜け、斜面の草の上に寄りかかった。咲は目をつぶった。
『この岩櫃山で、ずいぶん無体なことをしてくれたらしいな。ここは、御留山やで。決めたのは沼田の殿様のご先祖やろう。あんたぁも知らんはずはないで』
耳心地のいい三郎の声。穏やかな口調だが、怒っている。
『何だ、おまえは。邪魔をするものは、ただではすまぬぞ』
『ただではすまぬのは、おまえらぁの方やで。大事なひいさんに怪我をさせて、このままですむと思うなよ』
山の湿度が変わった、気配がした。背中にぞくりと悪寒が走り、咲は薄目を開けた。
見なれた三郎の後ろ姿。ぼんやりと光が放たれる身体から、カラスのような黒い羽根が吹き出した。
咲は、再び目を閉じた。夢を、見ていたのかもしれない。
落ちていく意識の中で、何かが飛び立つ羽音と、男の叫び声が聞こえた、気がした。
◆
『さすが、伊能様ですね。無事切り抜けられたようで、安心しました』
ふらりと訪れた三四郎が、座敷に上がるように勧めるウメを丁重に断り、縁側に腰かけながら言った。この人は、屋敷の中よりもお日様の下が似合うと、咲は思う。
『どのような手を使ったのですか? 沼田からの使いを諦めさせるなど……』
三四郎は、隣に座る咲の耳元でそうささやく。
『さあ……。私は何も……』
咲は立ち上がって、笑みを浮かべる。
何が起こったのか、本当のところはわからなかった。あの晩気が付くと、自分の部屋で寝ていた。いつもの寝間着を着て、いつもの布団で。右腕に包帯がまかれ、怪我の治療がしてあったことが、夢ではないことの唯一の証拠だった。
夜中に目を覚ました咲は、三郎を探しに部屋を出た。三郎が寝起きしている部屋は真っ暗でだれもおらず、父の部屋からかすかな灯りがこぼれていた。何気なく隙間からのぞくと、父が三郎と向かい合っていた。
『そうか。……帰ってくれたか』
『ええ。沼田はもう、岩櫃の木のことは諦めてくれるでしょう』
『ご苦労だったな』
『いえ』
重三郎のねぎらいの言葉に、三郎の声がふっとやわらかくなる。
『それはそうと、お聞きしてもいいですか』
『何ですか、改まって……』
重三郎が姿勢を正した。身分の上の方を目の前にしたように手を畳につく重三郎に、三郎の背中が怖気づいたようにこわばる。
『あなたは、何者ですか?』
『……旦那様、何を……』
『あなたには、出会った時から助けていただいて、感謝の言葉もありません。今度のことも、我々だけではどうしようもなかった。咲のことも……』
重三郎は視線をさまよわせ、言葉を選んだような間の後、続けた。
『兄のように、愛情をかけてもらった。礼の言いようもありません』
『やめてください。素性も知らぬ者をここにおいてもらうだけで、ありがたいのに……』
『あなたが、ここに来て十年以上が経ちます。子どもだった咲は年頃の娘になり、わしも年老いた。髪もずい分白くなりました』
『……』
『でも、……あなたは、少しも年をとらない』
背を向けている三郎の肩がわずかに揺れた。何かにおののくように振り向く横顔。その表情を見る前に、咲は急いで部屋に帰り、布団にもぐりこんだ。
次の日、三郎は普通だった。何も聞かずに傷の手当てをした。
傷が痛まなくなると、あの夜のことは夢だったのかもしれないと思えてくる。
三四郎がわざわざ訪ねて話題にしたことで、再び思い出そうとしても、やはり霞がかかったようにすっきりとしない。
『父の話では、沼田からの使者は、岩櫃山は無理に立ち入っては、どんな災いが起こるかわからぬと、そう報告したそうです。それでご家老も諦めたとか。本当でしょうか?』
三四郎が顔色をうかがうように咲を見る。
『さあ……』
咲は、首をかしげて肩をすくめてみせた。
『岩櫃山には、戦に敗れた斎藤のお殿様が、天狗になってあの地を守っているという言い伝えがあります。岩櫃の天狗様が守ってくれたのではと噂する者もありますが……、本当のところはなんとも……』
『ふうん』
三四郎は興をそがれたそうな顔でうなった。その仕草が少し子どもっぽく見える。
『てっきり天狗姫と呼ばれるどなたかの仕業なのかと思ったのにな……』
ふふふと袖で口元を隠し、咲は笑った。
『天狗姫なんて、そんな者はいません』
『そうでしょうか』
挑発的な三四郎の視線から、咲は目をそらした。なぜだか三四郎と一線交えようという気持ちにはならなかった。
『あの山に住む天狗様が、私たちを守ってくれたのです。そう考えるのが一番しっくりくるような気がします』
西の山に目を向けながら、咲は言った。言葉にすると、本当にそうだと思えてくる。
あの晩、三郎は私を助けてくれた。ただ、沼田からの使者を追い払ったのは、あの山に住まう天狗様に違いない。
そう信じることで、沸き上がってくる一抹の不安を消し去ろうとしていた。父があの晩口にした言葉もきっと夢だったのかもしれないと。
『あなたがそう言うのなら、ひとまず引き下がりましょう。今日は……』
三四郎は、縁側から立ち上がった。咲のすぐ近くまで歩み、言葉を継いだ。
『お別れを言いに来たのです』
『え?』
振り返ると、目が合った。三四郎は、寂しそうに笑って続ける。
『父が国替えを命じられました。東毛の方に移らねばなりません』
『それは、岡登様が、父に沼田の動きを伝えたことが原因なのですか?』
『そうとも言い切れません。国替えの話は前からありましたし……、ただこんなに急に話がまとまったのは解せぬと、父は言っていましたが……』
きゅっと胸の奥が音を立てた。代官が土地を移ることは、まれにあることだ。けれど、三代にわたり領民に慕われた岡登代官が国を移るなんて、思ってもみなかった。
『どこで、どのような動きがあって決まったことかはわかりませんが、伊能様と父上が懇意にするのが、おもしろく思わない方もいたのかもしれません』
確かに、隣国に名代官がいるというのは、目障りと思う方もいるだろう。特に、領民からできるだけ搾取したいと考える殿様からしたら……。
こぶしをきゅっと握ると、かすかに腕の傷が痛んだ。
『沼田の悪行は、長くは続きません。お上の耳にも入っていて、それゆえ父上が沼田の動向を探るよう言いつかっていたのですが……』
それで、岡登代官は沼田の思惑を知っていたのだ。そして、いち早く伝えてくれた。見合いのように装ってまで。
『残念です。せっかくお会いできたのに……。岡登様の代官としてのお考えをもっと教えていただきたかった』
咲が素直に別れを惜しんだのに、三四郎は一瞬すねたような顔をした。
『残念なのは私との別れではなく、やはり父の方なのですね』
『あ、いえ。……そういう訳では』
『いいんです。父の治める隣国で、私も同じように代官として生きられたらと、考えなかったかと言えば嘘になりますが、……あなたは、私の手には負えぬ方だったのかもしれません』
三四郎の寂しそうな笑顔を見ていたら、この人は私と一緒になりたかったのだろうか、と聞いてみたい気持ちになった。
けれど、それを確かめても仕方ないことだ。
おもしろい人だと思った。しっかりしているようでいて、時々子どもっぽい仕草を見せる。一癖ありそうで、油断ならない。いい戦友になれそうな気がした。別れを惜しんだのは、そのお父上だけではない。
『三四郎様は、きっとお父上様を越えるような代官になります』
お世辞ではなく、咲がそう言うと、三四郎はとてもうれしそうに目尻を下げた。
『今度行く領地は水が不足していて、田にならない土地が多くあると聞きます。今は貧しい土地ですが、父と一緒に用水を引き豊かな国とするつもりです』
三四郎がそう言って、東の方に視線を移す。その先に豊かな実りの大地が広がるのが見えるような気がして、咲はこくりと大きくうなずいた。
しばらくして、岡登景能はその息子たちと家来を連れ、東毛に旅立った。沿道には、領民が別れを惜しんで、列を作り見送った。
吾妻川の流れに沿うように続く街道。笠をかぶり東に向かう一行。先頭の馬に乗っているのが代官だろうか。その後に続く息子たちの一番後ろが三四郎だ。
咲は、彼らが立ち去る行列を山の上から見送った。
『残念やったなあ。せっかく見どころのありそうなお相手やったのに』
隣に立つ三郎が咲の様子をうかがいながら、遠慮がちに言った。
『そうね』
『こんなところで見送らんでも、別れを言いに行けばよかったやんか』
『う~ん』
少し考えて、咲は小さくなる背中を見送りながら言った。
『ここでいいの。三四郎様は別々の場所で生きていく人だったのよ。……でも、三郎はずっとそばにいてね』
いつの間にか、咲は三郎の袖をつかんでいた。
『約束よ』
『……ああ』
三四郎の姿が豆粒くらいに小さくなるころ、咲は三郎とそう約束した。
三郎が姿を消したのは、その晩のことだった。
15.岡登代官と岩櫃の天狗様8