15.岡登代官と岩櫃の天狗様8


『待たせたなあ』

間の抜けた京風の声が耳元に響いた。

『さ、三郎……?』

『亮太郎を引き上げるのに時間がかかってなあ……。遅くなって堪忍や』

三郎は少しも怒っている風もなく、咲にそう笑いかけた。

内緒でこんな企てをしたというのに、当たり前のように助けに来てくれる。

『三郎』

咲は、思わず三郎に抱きついた。胸から森の朝の霞の匂いがした。

『……怪我したんか。もう大丈夫や。ちょっと待っててや』

三郎が、そう耳元にささやいた。コクリとうなずく。大丈夫。三郎がそう言えば、きっと大丈夫。身体の力が抜け、斜面の草の上に寄りかかった。咲は目をつぶった。

『この岩櫃山で、ずいぶん無体なことをしてくれたらしいな。ここは、御留山やで。決めたのは沼田の殿様のご先祖やろう。あんたぁも知らんはずはないで』

耳心地のいい三郎の声。穏やかな口調だが、怒っている。

『何だ、おまえは。邪魔をするものは、ただではすまぬぞ』

『ただではすまぬのは、おまえらぁの方やで。大事なひいさんに怪我をさせて、このままですむと思うなよ』

山の湿度が変わった、気配がした。背中にぞくりと悪寒が走り、咲は薄目を開けた。

見なれた三郎の後ろ姿。ぼんやりと光が放たれる身体から、カラスのような黒い羽根が吹き出した。

咲は、再び目を閉じた。夢を、見ていたのかもしれない。

落ちていく意識の中で、何かが飛び立つ羽音と、男の叫び声が聞こえた、気がした。

『さすが、伊能様ですね。無事切り抜けられたようで、安心しました』

ふらりと訪れた三四郎が、座敷に上がるように勧めるウメを丁重に断り、縁側に腰かけながら言った。この人は、屋敷の中よりもお日様の下が似合うと、咲は思う。

『どのような手を使ったのですか? 沼田からの使いを諦めさせるなど……』

三四郎は、隣に座る咲の耳元でそうささやく。

『さあ……。私は何も……』

咲は立ち上がって、笑みを浮かべる。

何が起こったのか、本当のところはわからなかった。あの晩気が付くと、自分の部屋で寝ていた。いつもの寝間着を着て、いつもの布団で。右腕に包帯がまかれ、怪我の治療がしてあったことが、夢ではないことの唯一の証拠だった。

夜中に目を覚ました咲は、三郎を探しに部屋を出た。三郎が寝起きしている部屋は真っ暗でだれもおらず、父の部屋からかすかな灯りがこぼれていた。何気なく隙間からのぞくと、父が三郎と向かい合っていた。

『そうか。……帰ってくれたか』

『ええ。沼田はもう、岩櫃の木のことは諦めてくれるでしょう』

『ご苦労だったな』

『いえ』

重三郎のねぎらいの言葉に、三郎の声がふっとやわらかくなる。

『それはそうと、お聞きしてもいいですか』

『何ですか、改まって……』

重三郎が姿勢を正した。身分の上の方を目の前にしたように手を畳につく重三郎に、三郎の背中が怖気づいたようにこわばる。

『あなたは、何者ですか?』

『……旦那様、何を……』

『あなたには、出会った時から助けていただいて、感謝の言葉もありません。今度のことも、我々だけではどうしようもなかった。咲のことも……』

重三郎は視線をさまよわせ、言葉を選んだような間の後、続けた。

『兄のように、愛情をかけてもらった。礼の言いようもありません』

『やめてください。素性も知らぬ者をここにおいてもらうだけで、ありがたいのに……』

『あなたが、ここに来て十年以上が経ちます。子どもだった咲は年頃の娘になり、わしも年老いた。髪もずい分白くなりました』

『……』

『でも、……あなたは、少しも年をとらない』

背を向けている三郎の肩がわずかに揺れた。何かにおののくように振り向く横顔。その表情を見る前に、咲は急いで部屋に帰り、布団にもぐりこんだ。

次の日、三郎は普通だった。何も聞かずに傷の手当てをした。

傷が痛まなくなると、あの夜のことは夢だったのかもしれないと思えてくる。

三四郎がわざわざ訪ねて話題にしたことで、再び思い出そうとしても、やはり霞がかかったようにすっきりとしない。

『父の話では、沼田からの使者は、岩櫃山は無理に立ち入っては、どんな災いが起こるかわからぬと、そう報告したそうです。それでご家老も諦めたとか。本当でしょうか?』

三四郎が顔色をうかがうように咲を見る。

『さあ……』

咲は、首をかしげて肩をすくめてみせた。

『岩櫃山には、戦に敗れた斎藤のお殿様が、天狗になってあの地を守っているという言い伝えがあります。岩櫃の天狗様が守ってくれたのではと噂する者もありますが……、本当のところはなんとも……』

『ふうん』

三四郎は興をそがれたそうな顔でうなった。その仕草が少し子どもっぽく見える。

『てっきり天狗姫と呼ばれるどなたかの仕業なのかと思ったのにな……』

ふふふと袖で口元を隠し、咲は笑った。

『天狗姫なんて、そんな者はいません』

『そうでしょうか』

挑発的な三四郎の視線から、咲は目をそらした。なぜだか三四郎と一線交えようという気持ちにはならなかった。

『あの山に住む天狗様が、私たちを守ってくれたのです。そう考えるのが一番しっくりくるような気がします』

西の山に目を向けながら、咲は言った。言葉にすると、本当にそうだと思えてくる。

あの晩、三郎は私を助けてくれた。ただ、沼田からの使者を追い払ったのは、あの山に住まう天狗様に違いない。

そう信じることで、沸き上がってくる一抹の不安を消し去ろうとしていた。父があの晩口にした言葉もきっと夢だったのかもしれないと。

『あなたがそう言うのなら、ひとまず引き下がりましょう。今日は……』

三四郎は、縁側から立ち上がった。咲のすぐ近くまで歩み、言葉を継いだ。

『お別れを言いに来たのです』

『え?』

振り返ると、目が合った。三四郎は、寂しそうに笑って続ける。

『父が国替えを命じられました。東毛の方に移らねばなりません』

『それは、岡登様が、父に沼田の動きを伝えたことが原因なのですか?』

『そうとも言い切れません。国替えの話は前からありましたし……、ただこんなに急に話がまとまったのは解せぬと、父は言っていましたが……』

きゅっと胸の奥が音を立てた。代官が土地を移ることは、まれにあることだ。けれど、三代にわたり領民に慕われた岡登代官が国を移るなんて、思ってもみなかった。

『どこで、どのような動きがあって決まったことかはわかりませんが、伊能様と父上が懇意にするのが、おもしろく思わない方もいたのかもしれません』

確かに、隣国に名代官がいるというのは、目障りと思う方もいるだろう。特に、領民からできるだけ搾取したいと考える殿様からしたら……。

こぶしをきゅっと握ると、かすかに腕の傷が痛んだ。

『沼田の悪行は、長くは続きません。お上の耳にも入っていて、それゆえ父上が沼田の動向を探るよう言いつかっていたのですが……』

それで、岡登代官は沼田の思惑を知っていたのだ。そして、いち早く伝えてくれた。見合いのように装ってまで。

『残念です。せっかくお会いできたのに……。岡登様の代官としてのお考えをもっと教えていただきたかった』

咲が素直に別れを惜しんだのに、三四郎は一瞬すねたような顔をした。

『残念なのは私との別れではなく、やはり父の方なのですね』

『あ、いえ。……そういう訳では』

『いいんです。父の治める隣国で、私も同じように代官として生きられたらと、考えなかったかと言えば嘘になりますが、……あなたは、私の手には負えぬ方だったのかもしれません』

三四郎の寂しそうな笑顔を見ていたら、この人は私と一緒になりたかったのだろうか、と聞いてみたい気持ちになった。

けれど、それを確かめても仕方ないことだ。

おもしろい人だと思った。しっかりしているようでいて、時々子どもっぽい仕草を見せる。一癖ありそうで、油断ならない。いい戦友になれそうな気がした。別れを惜しんだのは、そのお父上だけではない。

『三四郎様は、きっとお父上様を越えるような代官になります』

お世辞ではなく、咲がそう言うと、三四郎はとてもうれしそうに目尻を下げた。

『今度行く領地は水が不足していて、田にならない土地が多くあると聞きます。今は貧しい土地ですが、父と一緒に用水を引き豊かな国とするつもりです』

三四郎がそう言って、東の方に視線を移す。その先に豊かな実りの大地が広がるのが見えるような気がして、咲はこくりと大きくうなずいた。

しばらくして、岡登景能はその息子たちと家来を連れ、東毛に旅立った。沿道には、領民が別れを惜しんで、列を作り見送った。

吾妻川の流れに沿うように続く街道。笠をかぶり東に向かう一行。先頭の馬に乗っているのが代官だろうか。その後に続く息子たちの一番後ろが三四郎だ。

咲は、彼らが立ち去る行列を山の上から見送った。

『残念やったなあ。せっかく見どころのありそうなお相手やったのに』

隣に立つ三郎が咲の様子をうかがいながら、遠慮がちに言った。

『そうね』

『こんなところで見送らんでも、別れを言いに行けばよかったやんか』

『う~ん』

少し考えて、咲は小さくなる背中を見送りながら言った。

『ここでいいの。三四郎様は別々の場所で生きていく人だったのよ。……でも、三郎はずっとそばにいてね』

いつの間にか、咲は三郎の袖をつかんでいた。

『約束よ』

『……ああ』

三四郎の姿が豆粒くらいに小さくなるころ、咲は三郎とそう約束した。

三郎が姿を消したのは、その晩のことだった。

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