14.岡登代官と岩櫃の天狗様7


夜中に降り出した雨は、次の日も一日中やむ気配がなかった。大地をたっぷりとうるおす恵みの雨は夕方になってやんだが、吾妻川の水位を上げるには十分だった。

やつらの思う通りにことは進んでいる。

風のないどんよりとした夜の空に、三日月の頼りない明かりがともる。ぴいいいっと頼りない草笛の音が、二度響いた。亮太郎の合図だ。

闇に紛れる黒ずくめの装束。蔵から取り出した忍び道具を風呂敷に抱え、咲は寝静まった屋敷を抜け出した。

『やっぱり今夜決行だ。今準備をしている』

『そうか。急ごう』

やはり黒装束の頭巾をかぶった亮太郎と目を見合わせてうなずく。

屋敷から離れた場所に用意しておいた馬にまたがり、岩櫃へ向かう。シンと静まり返った街道をまっすぐ西へ。平沢口の登り口につくと、馬を繋いだ。

『うえ、やっぱり気味悪いな』

かつての城下町から岩櫃城へ続く山道は、重々しい門が閉じられている。山城が破却された際に、建てられた立ち入り禁止の門だ。

見上げると、鬱蒼と茂った木々の葉が生き物のようにガサガサと音をたてる。

『天狗が怖ければやめておくか』

咲はそう言って、柵の隙間に身をくぐらせた。横になってやっと通れるだけの隙間で、大人では通ることができない。

『バカ言え! 父上ほど、おれは臆病じゃねえや』

明らかにムッとした顔をして、亮太郎は咲に続いた。

笑みを浮かべた咲は、急ぎ足で坂道を駆け上がった。亮太郎は必死でついてくる。

岩櫃山は御留山で、入山禁止。それは、暗黙の了解だ。

けれど、月のない夜、吾妻衆と呼ばれる者の中でも選ばれた忍びの一族のみが、ここで修行することも暗黙の了解だった。

咲も、重三郎に連れて来られた。最近はその役が三郎に変わった。月のない暗闇の岩櫃は、咲にとって庭のようなものだ。今夜は三日月の出ている分だけ明るすぎるほどだ。

背中越しに亮太郎の息づかいを感じる。離れすぎないように気を使いながら、咲は慣れた道を駆け上がった。

『よし、この辺りでいいだろう』

地図のバツ印のついた手前の辺りで手頃な木を見つけて、咲は立ち止まった。

『はあ……。疲れた』

亮太郎が、咲の足元にへたり込んだ。亮太郎にしては、がんばってついて来た方だ。

『休んでいていいよ。準備しておくから』

咲は背負ってきた風呂敷をといた。手裏剣や忍び刀、かぎ縄、まきびし、手裏剣、火薬や幻覚を見させる薬……、蔵に眠っている忍び道具たち。戦国の世ならともかく、徳川の世になってからは、おそらく使う必要もなく眠っていた道具たち。

その中から、咲はかぎ縄をつかんだ。

『なあに、おれだって……、平気さ』

息を切らせているくせに、亮太郎は強がって立ち上がった。怖がりで、いつも咲の後ろを泣きながらついてくる幼なじみは、気付くと背が少し高くなった気がする。

『……じゃあ、頼もうかな』

『ああ!』

咲はかぎ縄を木の枝目がけて投げた。縄を引っ張ると枝にしっかりと食い込む手ごたえを感じる。足を幹にかけながら、縄を頼りにするすると木に登った。

小道をはさんで反対側の木に亮太郎も登ったようだった。

『亮太郎、恐くはないか』

『……いや。大丈夫だ』

『もし天狗がいたとしたら、こっちの味方になってくれるさ』

準備を終えた咲は、木の枝の上で亮太郎を勇気づけるように言った。亮太郎が長く息を吐く気配がする。手の震えを、呼吸法で止めようとしているのだろう。

咲も、そっと息を吐いた。森の木々と、風の呼吸に合せるように。

……山は畏れるものや。けどなあ、少しも怖がることはない。

いつだったか、三郎がそう言ったのを思い出した。

……山も生きとるんや。ひいさんと同じや。山と一緒に息をしてみい。きっと、ひいさんの味方になってくれる。

風の音。風で枯葉が落ちる音。カモシカが鳴く声。竪堀の溝をカモシカが飛びこえる音……。小枝が不自然に割れる音。草鞋が枯葉を踏みつける音。男たちの息づかい……。

『……来る』

森の中に入り込んだ異物の音を聞き分け、咲はひそやかにささやく。亮太郎が息を飲む気配がした。

下の方から、提灯の灯りが見えた。二つ、いや三つだ。その倍以上の足音が聞こえる。

はやる心を落ち着けて、咲はヤツラが来るのを待った。

『今だ。いくぞ』

咲は、用意してあった紐を引いた。カランカランと別の木に仕掛けた鳴り道具が音を立てた。

『な、何の音だ?』

『あっちの方からしたぞ』

注意がそれた男たちに向かって、咲は次の仕掛けを落とした。乾いた苔玉に少量の火薬をまぶした火の玉だ。

『な、なんだ、あれは……?』

青白いぼんやりとした光が、山道を横切るように飛んで消えた。木の枝に仕掛けて、揺れている間に燃え尽きるよう火薬の量は調整してあった。

『ひ、人魂だ……。出た!』

叫び声は、亮太郎の父上のものだった。

『人魂のはずはあるまい』

『あ、向こうからも!』

今度は、赤く光る玉がふっと飛んで消えた。栗の木がわさわさと揺れる。

『天狗様がお怒りなのだ。夜の岩櫃に踏み込むなど、あれほどやめてくだされと……』

『なんだと、腰抜けめ。まだ、そのようなことを言っておるのか!』

『真田に敗れた斎藤の殿様は、天狗になってこの地に舞い戻り、山を守っておられるのです。この地に住む者はずっとそう信じてきたのです。罰があたりますぞ』

亮太郎の父上は、蛇目の男に言い返した。人間よりも天狗の方が怖いのだろう。

『旦那、やはり夜はやめましょうよ。こんなに暗くちゃあ、はかどらねえし』

『馬鹿者め。それでは人目につくではないか』

『だって……、こんなおっかねえ山だなんて聞いてねえや』

荒くれ者たちもさすがにやる気をなくしている。もう一息だ。

いい具合に風が吹いた。咲は黒頭巾をはずし、白い単衣を羽織った。長い黒髪で顔を隠し、山道の反対側の大木の枝に結わえた縄をつかんだ。

『不届き者。炎で焼き尽くされたくなければ、今すぐここを立ち去れ!』

縄をつかんだまま、木の枝から飛び降りた。

三日月のぼんやりとした光が、鬱蒼とした森の中にかすかに届く。男たちの目から見れば、ふわりと白い着物を着た女が空を飛んだように見えただろう。

『あれは、斎藤様の奥方では……』

『で、でた~!』

亮太郎の父上をはじめ、斎藤氏の落城の伝説を知っている者は、おののいて山道を下って行った。

別の木の枝に飛び移った咲は、着ていた単衣を脱ぎ捨てた。ここまでは、作戦通りだった。

『待て! おぬしら、どこに行く。待たぬか!』

『旦那、わしらも、退散しやしょうぜ』

『そういう訳にいくか。天狗や怨霊が怖くて逃げ帰ったなど、上に言うわけには……』

栗の木の枝がわさわさと揺れた。亮太郎が栗の木を揺らしている。

取り残された男たちの上に、バラバラとイガに包まれた栗の実と共に、まきびしが降りかかる。その中には、栗の中に胡椒や幻覚をもよおす薬が入ったものもある。

『うわ、何だ』

『あ、いてて……。何か踏んづけたぞ』

逃れようと慌てて混乱する男たちの声。

『落ち着け、落ち着くのだ!』

怒号と『いてっ!』と叫ぶ声、連発するくしゃみ。逃げ出そうとする者同士がぶつかり合う音。

『落ち着けというのに!』

蛇目の男が叫ぶと同時に、響く銃声。驚いた鳥が大きな翼をはためかせて飛び立った。

『うわっ!』

弾がかすったのか、亮太郎の驚いた声が聞こえた。

『誰かおるのか?』

蛇目の男が、再び銃を空に向ける。静寂な森の中に、大きな銃声が響く。

『……!』

栗の木から、ふらりと黒い人影が転げ落ちた。咲の心臓が凍りつく。亮太郎の身体は、やわらかい草の上に落ち、南面の斜面を転がり落ちた。

『くせ者だ。見てまいれ』

『……へえ』

蛇目の男に命じられ、男がふたり恐る恐る斜面をのぞき込んだ。斜面の下は真っ暗で何も見えないのか、戸惑う素振りを見せながらも、下に降りようとする。

『……亮太郎』

つぶやく声が震える。咲は握っていた縄に再び力をこめた。足で枝を蹴り、風を切りさく。

『うわっ!』

男の背中目がけて蹴りを入れる。続けて突然の乱入に驚く隣の男に、峰打ちを入れた。

『で、出た~! 天狗じゃあ……』

人足たちは、一目散に逃げだした。山道を下に向かって転がりながら走って行く。

残りは、ひとり。

『天狗など、いるはずもなかろうに』

舌打ちとともに聞こえた声は、ぞっとするほど低く、静かな怒りに震えていた。

一歩近付く男の足元に手裏剣を投げると同時に、木の幹の影に隠れる。

『戦国の世には、岩櫃に忍びの者が多くいたというが、今も忍んでおるということか。家老様の危惧されているとおりだな』

くっくっと笑いながら、男が近付く。ピシリと小枝が割れる音が聞こえる。

沼田の狙いは、岩櫃の木材だけではない。吾妻衆の分断だ。戦国時代、昌幸公の手足となって働いた吾妻衆の子孫たちが目障りなのに違いない。

『……う』

傾斜の下から、かすかなうめき声が聞こえる。

亮太郎だ。生きている。

ほっとすると同時に、この男を何とかしなければという焦りが生まれる。ふたりがつかまれば、父たちに迷惑がかかるだけでなく、吾妻衆の守ろうとしていたものも明るみに出るかもしれない。それでは沼田の思うつぼだ。

この男は、かなりの強者と見た。鉄砲も持っている。まずはそれを封じ、亮太郎から遠ざけなければ。

ピシリとさっきよりも近いところで音がする。咲は、音の方角に手裏剣を投げると同時に、隣の木に飛び移った。

『……っ』

手裏剣がかすめたのか、男のうめき声が聞こえる。次の瞬間、銃声が聞こえ、咲の隠れている太い幹に弾がかすめた。

鉄砲を何とかしなければ、動くに動けない。

風が吹いて月が陰った。頼りない三日月の明かりも消え、漆黒の闇が広がる。黒装束の咲は、闇に紛れ気配を消した。

『チッ……。どこだ?』

蛇目の男は、完全に咲の居場所を見失ったようだ。ズダーンと、明後日の方向に銃弾が飛ぶ。火薬を点火する時に生じるかすかな光。

咲は、足元の小石をわざと滑らせた。

『そこか……』

男が銃口をこっちに向ける瞬間に、咲は棒手裏剣を投げつけた。銃の筒にそれはぴったりと入り、銃が激しい音をたてて暴発した。

『よし……』

脱ぎ捨てた単衣を拾い、咲は身にまとって駆け上がった。白い単衣が揺らめくうしろ姿は、遠目でも見逃すはずはないだろう。

飛び道具をおさえた今、一刻も早く亮太郎から遠ざけなければならない。

地の利はこっちにある。岩櫃山には無数の竪堀がめぐらせてある。城を破却した後も、地形として残っているそれを利用しない手はなかった。

ヒタヒタと足音が聞こえる。蛇目の男は、白い単衣のうしろ姿を追いかけて来ている。

咲は身をひるがえして、山道からそれて竪堀を下った。この竪堀の長さは短いが、行き止まりから一カ所だけ上に登るための段差がある。

竪堀を追いかけた男は咲を見失い、行き止まりで足を止めた。

『やあ!』

竪堀の上から手裏剣を投げつける。振り向きざま、男は刀でそれをはじき返した。

風が吹いて、月が再び顔を出す。男の蛇のように冷たい目が、咲の顔に向けられた。

『……子ども? しかも、女か……』

『くっ!』

顔を見られたからには逃がすわけにはいかない。咲は斜面を駆け降りて、刀を抜いた。

二度、三度、甲高い音と共に火花が散る。強い。今まで戦った誰よりも、少なくとも咲に勝負を挑んだ見合い相手たちよりもはるかに、剣の腕は確かだった。

鼻先に、相手の剣がかすめた。恐怖で思わず、足がすくんだ。

『どうした。もう終わりか、子天狗め』

蛇目の男がにやりと笑う。

上段の構えから振り下ろした剣を、剣で受けとめる。腕に受けた衝撃の強さに、そのまま後ろに吹き飛ばされた。続けて繰り出されたつきを、寸でのところでよける。

『……!』

それでも、よけきれずに右腕に熱いものを感じた。左手で触ると、生温かな液体がそこからにじんでいる。思わず膝をついた。

三郎以外の相手で、こんなに歯が立たないのは初めてだった。三四郎は、どのくらいの腕前だったのだろうか。ここで命を落とせばそれを確かめる術はない。関係ないことが頭をよぎった。

『ふざけた真似をしおって、この代償は命で払う覚悟はできておろうな』

冷たい目でにらまれ、咲は肩を落とした。生温かな血が手の方まで流れてくる。

ここまでか……。亮太郎は無事逃げられただろうか。明日の朝、死体が父のところに届けられるのだろうか。今回の妨害が伊能家のもくろみと思われたりはしないだろうか。吾妻衆の責任となり、戦になりはしないか……。

やられるわけにはいかない。咲は左手で石をつかんだ。

『死ね!』

振り上げられた刀。近付いてくる男の顔目がけて、咲は石を投げつけた。

『うっ!』

石は男の顔に当たったようだった。咲は竪堀を上に向かって走る。右腕が熱い。身体が重く、思うように動かなかった。もうすぐ竪堀を上りきるところで、目の前が真っ暗になった。

『おっと』

前から現れた男に進路をふさがれた。それを避ける余裕もなくぶつかり、男に肩をつかまれた。力が入らず、そのまま倒れるように膝をつく。

ヤツの仲間が戻って来たのか。もう振り払う体力も気力も残っていなかった。

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14.岡登代官と岩櫃の天狗様7