13.岡登代官と岩櫃の天狗様6
『何があったのですか? 沼田で何か……』
三四郎は咲を見返し、目尻を下げた。
『さすが、勘が鋭い』
『いいから、何があったのか教えてください!』
茶化そうとする三四郎に、咲はもう一歩近付いた。思わずその胸ぐらをつかもうとする手を必死で押しとめようとする。宙ぶらりんになった手を、三四郎がつかんだ。
『教えてもいいですが、その代わりに考えてもらえますか?』
『な、何を……?』
咲が振りほどこうとした腕は、びくともしない。
『今は父には敵わない。けれど、数十年後には父以上の代官になるかもしれない』
耳元で三四郎のささやく声が聞こえた。かあっと全身の血が、ささやかれた耳に集まったかのように熱くなる。
にらみつけた咲に、三四郎はいたずらっぽく唇の端を上げた。
『沼田では城を作るのに、木材が足らぬようです』
手を離した三四郎は、そう言って空を見上げた。青い空。悠々と空を飛ぶ鷹。遠くの山を、目を凝らして眺める。
その横顔を、咲は少し距離をとって見つめた。油断ならない。つかまれていた手に、温もりが残っている。同年代の男の子に、このように気持ちを乱されたのは初めてだ。
『その木材を、岩櫃から伐るつもりです』
『なんですって?』
三四郎が見つめる西の方角には、岩櫃山がある。
『岩櫃は御留山(おとめやま)です。それは、真田信之公が定めたもの』
斎藤氏を滅ぼした真田が上州侵略の拠点とした岩櫃城。吾妻郡随一の城下の賑わいだったその地には、腕に覚えのある忍びたちが集まった。真田昌幸は、力ある忍びを武士として取り立てた。伊能家の先祖もそういった忍びだった。
岩櫃城下の賑わいに疑惑の目を向けた徳川家康を恐れ、岩櫃城を破却したのは昌幸の息子信之だ。それ以降、その山には地元の者であっても立ち入ることは許されない。
『木を伐り出すことなど、もっての外では……。吾妻郡奉行をはじめ、他の代官たちも黙ってはいません』
『だから、夜こっそりとことを運ぶようですよ。その手引きを伊能どのにさせるつもりなのでしょう』
『そんなこと……! 万が一他の代官たちに見つかれば、父の立場はどうなるのです』
『そこもヤツらの狙いなのですよ。力を持つ吾妻衆を分裂させ、争わせることで力をそぐ……』
池の淵に立つ柳の枝が大きく揺らいだ。身震いしたのは、秋の風の冷たさのせいだけじゃない。
『伊能様は、何か沼田を怒らせることをしたのでしょうか』
三四郎が振り返り、咲を見た。咲はその目を見返すことはできなかった。
怒らせることをした。昨日、私が……。
柳の枝がもういちど大きく揺れる。足元が崩れていく、そんな錯覚に襲われた。
◆
『まあ、なかなか見込みのありそうな男だったやないか。さすが、岡登様の息子の中でも聡明と評判の三男坊だけはある』
豪華な着物を脱ぎすてた咲は、文机にひじをつきぼんやりと三郎の言葉を聞き流していた。
『剣の腕もなかなかのもんやろう。今は互角でも、あと何年かしたら敵わんようになるかもしれん』
いつもなら聞き捨てならない三郎のつぶやきにも、咲の心にひっかからない。
『……ひいさんもそろそろ年貢の納め時かもしれんなあ』
三郎の声が、思いがけず真剣な色味を帯びた。
『どないしたんや。三四郎様が帰ってから、えらい大人しゅうなって』
三郎が音もなく近づいて、咲の顔をのぞき込んだ。
……私のせいで、父上が窮地に立たされてしまう。どうしたらいい?
思わず声に出そうになった言葉を、咲は飲み込んだ。
『岡登様は父上のことをほめていらしたそうよ。同じ代官として、感心していると……』
目をそらして、咲はやっとの思いでそれだけ言った。
三四郎の言葉は意外だった。けれど、咲の考えが間違っているのかもしれないと、自信を砕くのに十分な威力があった。
ガタガタと木枯らしが障子を揺らした。秋の日暮れは早い。
『さすがは、岡登様やなあ。よく見抜いていらっしゃる』
三郎が立ち上がって、行燈に火を灯す。
『岩井の代官は、どこよりも早く率先して水牢へぶち込むっていう噂があるが、遅くなればそれだけ寒くなる。もたもたしていたら凍え死ぬ者も多くなる。それを避けるために、あのお方なりに考えておるのや』
『え?』
『昨日は、今時期にしては暖かくて、天気もよかったやろう。こういう日がいつまで続くとも限らん。女たちがいくらかでも寒い思いをしないように、昨日を選んだかもしれん』
腹切石のぬくもりを思い出した。小春日和の穏やかな日差しも。
『……私、なんてことを……』
力が抜け、畳に指先をついた。
ガタガタと障子が音をたてて笑っている。これから本格的な冬がやってくる。
亮太郎と一緒に、水牢に入れる役人を妨害した。何とかして女たちが冷たい思いをするのを助けたかったのだ。けれど、昨日のような暖かい日は、これから年が暮れるまでないかもしれない。もっと冷たい木枯らしの日に再度実行されるとしたら……。
そして、女たちを逃がしたことが沼田の殿様の耳に入れば、どのように利用されるかなんて、考えもしなかった。
『三郎……』
沼田城を作る木材を岩櫃山から伐ろうとしている。その手引きを父が押し付けられる。どうしたらいい、とすがりたかった。
だけど、口には出せなかった。
行燈のやわらかな灯りが三郎の白い顔を照らしている。子どもの頃から見なれている心配そうな瞳。いつまでも三郎に頼るわけにはいかない。自分のまいた種だ。
『今日はひとりにしてくれない? なんだか、気疲れしちゃった』
そっけなく横を向いて、咲は言った。
『……わかった』
三郎が立ち上がって、部屋を出て行く気配がする。
外で、ひゅうひゅうと木枯らしが鳴る。咲は立ち上がって、障子を開けた。朱色だった西の空が、漆黒の闇に襲われていく。その向こうに岩櫃山がある。
咲は闇の先をにらんだ。
◆
『咲。作戦通りうまくいったぜ』
亮太郎が、ふところから紙を見せてにこりと笑った。
『咲からもらった眠り薬はよく効くなあ。夕飯の汁に少し混ぜただけなのに、父上も役人どもも朝までぐっすりだ。おかげで岩櫃の木材を運ぶ道筋の地図は、ばっちり写せたぜ』
『うん。ご苦労さま』
腹切石の上で紙を広げる。今日はあの日よりも風が冷たい。頬をなでる風が冷たければ冷たいほど、胸に灯る炎はめらめらと燃える。
『役人は何人いる?』
沼田から来た役人のうち、代表のひとりが重三郎にあいさつに来ていた。やせているが長身で、蛇のような目が印象的な油断ならない男に見えた。
亮太郎の父上が接待を兼ね、役人らの宿となっていた。
『家老の使いという男がひとり。あとは五人いるが、あいつら武士じゃないな。一応刀をさしてそれっぽい恰好をしているが、木を伐るために集められた荒くれ者って感じだ』
『急場で集めたか……』
万が一他の吾妻衆に見つかったら、その場で口封じのため斬るつもりなのだ。家老の使いと名乗る蛇目の男は、おそらく見張りだろう。剣もかなりの使い手と見た。
ひんやりとした腹切石に手を置いた。岩が、そっと応援してくれている気がした。迷うなと、声が聞こえる。
『それで、いつ決行するのだ』
『次の雨が降ったらだ。この辺りの木を伐って、ここからすべり落とす……』
亮太郎が地図の上の線をなぞった。岩櫃山から吾妻川に向かってのびるまっすぐな線。
『そこから、いかだにして吾妻川を下るのか。……考えたな』
吾妻川には一部底の浅い部分がある。そこを乗り越えられるよう雨で増水の日を選ぶのだろう。
『それじゃあ、明後日の夜だな』
『どうしてわかる? こんないい天気なのに』
思わずつぶやいた咲に、亮太郎が目を丸くしてたずねた。
風が強いが晴天だ。亮太郎が不思議がるのもわからなくない。それでも咲には自信があった。
『三郎が言っていたんだ。明日は一日雨だと……。だから、今日のうちに用事をすませてくるって』
『へえ。三郎さんが言うならそうなんだろうな』
三郎の天気の見立てはよくあたる。西から湿った風がふいてくる。岩櫃のある西の方角を、咲は唇をかみしめてにらみつける。
『……なあ。この間の見合い、うまくいったんだって?』
亮太郎がぼそりと言った。
『誰から聞いた?』
『もうみんな知っているよ。咲がめずらしく相手に会って、追い返さなかったって』
ムッとして聞き返した先に、さらに不機嫌そうな顔の亮太郎がいた。
『まあ、岡登様のご子息だもんな。いいお話だって、重三郎様も喜んでおられるだろう。めでたく話が運んでよかったな』
亮太郎が、口早に言った。よかったという表情には見えない。
『別に見合いみたいなもんで、本物の見合いってわけでもないし……。めでたいなんてこともない』
『なんだよ、それ……。見合いみたいなもんって、見合いなんだろう?』
『よくわからない。その話はなし! ……考えるのが面倒くさい』
咲はそう言って岩の上に仁王立ちした。それから、水に濡れないように川岸の砂地に飛び降りた。
『おい!』
『ほら、そろそろ帰るぞ。決行の準備を進めよう』
岩の上で慌てて地図をたたむ亮太郎をしり目に、咲は里に続く坂道を上がった。
考えるのが面倒くさい。それどころではない。それが本心だ。
それなのに、ウメはすっかりその気になっているし、反対に三郎はめっきり咲に近付いて来ない。重三郎は窮地に立たされているというのに、そんな素振りを見せない。それが咲には辛い。おまえの招いたことだ。何とかせよと言われたら、どんなにいいか……。
だから、見合いみたいなものに心を乱されている場合ではないのだ。
時折、頭の中にまとわりつく声を、咲は思い出さないようにしていた。
『今は父には敵わない。けれど、数十年後には父以上の代官になるかもしれない』
本気のような冗談のような、つかみどころのない人だった。いつか剣を交えてみたいと思う。本気で戦った後なら、いい戦友になれるという予感はあった。
それが夫婦になってもいいという気持ちに繋がるかどうかは、咲にはまだわからない。
『ちょっと待ってくれよ』
枯葉を踏み分けて、追いかけて来る亮太郎の足音。
『お父上の具合はどうだ?』
『胃が痛いのは、いつものことだ』
咲に追いついた亮太郎は、強がってそう言った。
『暗くなってから岩櫃山に行かなきゃいけないのが、気乗りしないようだ。あそこは、天狗や妖怪が出るって噂だからな』
『敗れた岩櫃城主斎藤様が、天狗になってあの山を守っているってヤツか』
『父上は、暗闇が大の苦手だからなあ。怪談話も嫌いだし……。沼田の使者に、天狗が怖いから夜はやめましょうと言って、笑われていたっけ……』
『そうか。……いつもすまんな』
ガラの悪い荒くれ者と、蛇目の使者の接待など、あの真面目で几帳面な人にとって、耐え難いことだろう。しかも、岩櫃山の木材の伐り出しの案内などという、嫌な役目も担わされることになる。
重三郎自身が動くわけにはいかない。けれど、誰にでも任せられるものでもない。口が堅く、信頼のおける者に頼らざるを得ない。
『なあに、父上は、重三郎様の右腕でいることに誇りを持っているのだ。なんだかんだ言っても、やるときはやるさ』
『そうだな。だから、父上は頼りにしているのだろう』
本心からそう言うと、亮太郎は自分のことのようにうれしそうな顔をして、へへへっと笑った。
『おれだって、今に立派な右腕になってやるさ。おまえの……』
細い腕で力こぶを作った亮太郎と目が合う。
『……だれが、新しい代官になったとしても、さ』
目をそらせた亮太郎は、しどろもどろに続けた。
さらさらとすすきの穂が揺れる。
右腕になって、この村を一緒に守って欲しい。男に生まれていたなら、幼なじみにそう言うことができたのに……。
西の方から風が吹いて、乱れた髪をそっと触った。
『私も、頼りにしている。明後日だ。頼むぞ』
本当に言いたい言葉は飲み込んで、咲はそう言って笑った。
『ああ!』
亮太郎の目が輝いた。
◆
ガタガタと風が雨戸を揺らした。嵐の気配がする。三郎の言うとおり雨になりそうだ。寝つけなくて、咲は寝床から起き出した。
三郎は、夕飯の時間にも帰って来なかった。重三郎に聞いても、どこに行っているのかわからなかった。
三四郎がここに来て以来、三郎とゆっくり話をしていない。三郎は、私たちの作戦を知ったら協力してくれるだろうか。それとも、止めるだろうか。三郎がいてくれたら心強いのに。
それでも、三郎に反対されるのではないかと思うと、相談することもためらわれる。
暗闇を壁づたいに歩き、台所で甕から柄杓で水をすくって飲む。水滴が一粒、土間に落ちた。
ふと、裏庭の方で人の気配がした。三郎が帰って来たのかもしれないと、勝手口の戸を少し開けのぞく。
黒い影が、裏門の方を向いて立っていた。風が吹いて、無造作にしばっただけの髪を揺らす。三郎だ。なのに、声をかけるのをためらった。空を見上げた三郎が、今にも飛びたとうとしているように思えたから。
『三郎!』
どこに行くの? 行かないで……。
沸き上がってきた言葉を、やっとの思いで飲み込んだ。勝手口の戸を開けて、二三歩外に出る。なぜどこかに行ってしまうと思ったのだろう。
振り返った三郎は、一瞬間驚いた顔をして、それから寂しそうに目を細めた。
雫がぽつりと額に触れる。雨が降り出す合図だった。
13.岡登代官と岩櫃の天狗様6