12.岡登代官と岩櫃の天狗様5


『まあ、亡き母上にも負けないお美しさでございますなあ。ウメが大切に育てた甲斐がありました』

ウメが大げさにそう言って、袖で涙を拭うふりをする。嘘泣きなんかしちゃって……、と軽口を叩きたいところだけれど、正月のように一張羅の着物を着せられ、結った髪にかんざしをさされた咲は、そんな元気もなく黙り込んだ。正座をしているだけなのに、帯が苦しくて、息をするのもやっとだ。この格好ならさすがに、亮太郎と剣の稽古をしても負けるかもしれない。

どうして女っていうだけで、こんな窮屈な思いをしなくちゃいけないのだ。あざやかな牡丹の刺繍された美しい柄も、ちっとも心はときめかなかった。江戸で流行っているとかいうかんざしは、目の前をひらひらしてうっとうしいことこの上ない。

蔵から解放された朝、説教が待っているものと覚悟した咲は、妙に機嫌よく張り切っているウメに促されるまま、風呂に入れられ、着替えをさせられた。

『いいですね。お客様がいらっしゃるまで、脱いじゃいけませんよ』

『お客様って?』

『説明している時間はないんです。おもてなしの準備をしなくちゃいけないですからね。……ああ、三郎。ここで、お嬢様を見張っていとくれ。逃がすんじゃないよ』

慌ただしく部屋を出て行くウメと入れ替わりに、三郎が障子から顔をのぞかせた。

『逃がすんじゃないよ……って、猫の子じゃあるまいし』

ふてくされた咲の顔を見て、三郎がぷっと吹き出した。

『猫の子見張る方がよっぽど楽やけどなあ』

唇の端に笑みを残し、三郎は咲の前に腰を下ろして手をついた。一端の家来のように、上座にいる咲に頭を下げる。

真顔で顔を上げた三郎も、今日ははかまをはいてきちんとしている。

『……馬子(まご)にも衣装やなあ』

しげしげと咲を見つめた三郎が、そう言って寂しげに笑った。

『うるさいな。窮屈で死にそうよ。何なのよ、今日は……。お客様って一体誰が?』

ウメだけでなく、屋敷内がそわそわとして落ち着かない。余程特別なお客様がお見えになるのだろうか。真田のお殿様がこんなところまで来るはずもない。沼田藩の重鎮が、昨日の騒ぎを知って見に来るのだろうか。

『そんな恐い顔しないで、笑っていた方がええで。……あんたぁの見合いみたいなもんやし』

『は?』

爪を噛んで考え込んでいた咲は、三郎の言葉に呆気にとられた。

『見合い? 聞いてないよ!』

『そりゃあ、言うてないからなあ。聞いたらまた逃げられるか、相手に襲いかかると思われたんやろ』

過去の見合い話を思い出したのか、三郎がくつくつと笑った。

『……ウメのやつ』

ウメがあんなにも張り切っていた理由がわかり、怒りに震えた。

今まで何度か、見合いの日にすっぽかしたり、見合いの前に自分より強い相手か確かめに行って打ち負かしたり……。伊能の姫は器量よしだけれども、とんでもない跳ね返り娘で、婿に名乗りをあげる若者もいないだろうと噂が立って、最近はそんな話もなくなっていたから、……油断していた。

『ひいさん。どこに行くんや』

勢いよく立ち上がった咲を、三郎が低い声でいさめた。

『だって……』

『まあ、座りいや。逃げたところで、何も変わらん。それに今日は見合いやない。見合いみたいなもんやって言うたろう』

『見合いじゃなくて、見合いみたいなもんって、どう違うのよ』

再び正座をしながら、三郎につっかかった。三郎が、ウメの味方になっているのもおもしろくない。

伊能家のひとり娘として生まれたからは、いつかは婿を取らねばならないことは、わかっている。わかっているからこそ、婿となる男は強い相手でなければと思っていた。強く賢く、代官としてこの地の民と、仕える家来を守れる男でなければならない。

沼田からの要求をただ聞いているだけの気弱な代官では、この家も、村々の民も守ることができない。考えなしの横暴な男が婿になったら、亮太郎の運命も、この村の人々の運命をも変えることになる。

『今まで、三郎は邪魔しなかったのに』

目の前にいる三郎に、苛立ちをぶつける。

三郎は、咲の剣術や体術を鍛えるだけでなく、村中を案内し、人々の暮らしの様子を見せた。作物が豊かに実る条件も、山の恵みで生き延びる知恵も。

本当は自分が父の跡を継ぎたかった。でも、女の身ではそれができない。だから、自分より強く賢い人間でなければ、決して認めまいと思っていた。

『向こうさんも、どうしても婿になりたいと思っているわけではないっちゅうことや。昨日、ひいさんも言っていた岡登の代官様やで』

『岡登様が……? でも、岡登様はもう結婚されているでしょう?』

会ったことはなかった。ただ、国境の村で噂になっていたのを聞いただけだ。『岡登の代官は、民のために水路を作り、田を広げる名代官。その隣の伊能代官は、率先して民を水牢にぶちこむ鬼代官』と。同じ代官なのに何が違うのだろうと、気になっていた。

『もちろんや。岡登様は、旦那様と国境の橋を架ける木材のことで相談にお見えになるのや。そこに三男の三四郎様がご同行される。三四郎様は、ひいさんと年もそう変わらんっていうことで、旦那様もウメさんも浮かれとるのや。あちらさんはどう思っているかわからん。そこを承知しとかんと、恥をかくのはひいさんの方やで』

意地悪く、三郎が言った。

『わかったわよ』

不満だったが、咲はしぶしぶそう言った。自然と背筋が伸びる。

どんな方なのだろうか。どうすれば、民から慕われる代官でいられるのだろうか。見合いなどということは、吹っ飛んだ。気になるのは、岡登代官のことばかりだ。

そんな咲を見て、三郎がにやりと笑った。

『失礼いたします』

緊張した面持ちで、咲は障子の前で声をかけた。

『うむ。入れ』

重三郎の声を聞き、両手でうやうやしく障子を開けた。しずしずと足音を立てずに部屋に入り、三つ指をつき、頭を垂れる。

『岡登どの。娘の咲です』

『咲でございます』

重三郎に紹介された咲は、もう一度深く低頭してから、顔を上げた。

目の前に目尻を下げている男がいた。日に焼けた肌、目尻に深く刻まれた皺、瞳の中に力強い光がある。

『これは、噂に違わぬ美しい姫ですな』

『いやはや。お恥ずかしい限りで……』

岡登代官の低くよく通る声に、重三郎は頭を掻いた。ただ、器量がよいだけの噂ばかりではないだろう。

咲はきゅっと唇を引きしめ、目だけでほほ笑んだ。

『岡登様。こちらこそ、名代官のお噂を度々耳にしていました。お目にかかれて光栄に存じます』

恥ずかしがっている場合ではない。目の前に岡登代官がいるのだ。この人がどんな風に村を治めているのかを知りたい。

正面から見すえると、岡登代官はふっと唇をほころばせる。

『ただ美しいだけの姫君ではなさそうですな。我が息子では太刀打ちできんかもしれぬ』

『父上』

岡登代官の隣には、利発そうな少年が座っていた。からかうような父の発言に、露骨に眉をひそめる。

『そう決めつけられては、不本意です。勝負事は、やってみなければわかりませぬ。……三四郎と申します。どうぞ、お見知りおきを』

父に向けて文句を言った後、少年はそう名乗った。整った顔立ちがまっすぐに咲に向けられる。

『三四郎様。……お初にお目にかかります』

三四郎の負けん気の強さは嫌いではなかった。すました声を出した咲は、にこりと笑みを見せる。剣の腕では、こちらこそ負ける気はなかったけれど。

『そうだ、咲。三四郎どのに庭を案内してさしあげたらどうだ』

咲の機嫌が悪くなさそうな様子を見て、重三郎が提案した。

『え。でも……』

上目づかいで岡登代官をのぞき見た。息子の三四郎よりも、代官と話がしたい。どのような村づくりをしているのか。用水を引くには村人の協力が必要だ。どうやって、村人のやる気を出させるのか。

『三四郎、そうしてもらうといい。我らは境界の森林のことで協議することがあるゆえ』

それなのに、岡登代官は涼しい顔でそう言った。

『はい。……咲さん。それでは、お願いします』

三四郎に屈託のない声でそう言われた咲は、引きつった笑顔を見せた。

『わざわざ代官様がお越しとは、国境で何か問題があるのですか?』

重三郎が丹精込めて手入れをしている松や見ごろのもみじが並ぶ伊能家自慢の庭で、案内もそこそこに咲はたずねた。

『いいえ。特には……。国境の新巻村と箱島村は、同じ氏子同士。村人は親類も多く、仲よくやっているようですよ』

『それなら、なぜわざわざ……?』

にこやかに答える三四郎の答えに、納得のいかない咲はつぶやいた。

『剣の稽古は普段どこでされているのですか?』

柳の枝の揺れる池の脇に立ち、三四郎は振り返った。頭ひとつ高いところにある目が、まっすぐに咲に向けられている。その視線をまっすぐに咲は受け止めた。

『裏庭やその辺の山の中とか、特に決まっていません』

『ご指南はどなたが?』

『家の者です』

『うらやましい。そのような腕の立つ方が身近にいるとは』

見合い相手の言葉とは思えない。三四郎の興味は、咲の剣の腕にあるようだ。

きっといい剣士なのだろう。三四郎は、咲よりも手足が長い。高いところから打ちこんでくる素早い剣先を想像する。

でも、負ける気はしなかった。三郎と比べれば、数段劣るだろう。

『三四郎様は、かなりの腕前なのでしょうね。一度お相手をお願いしたいところですが、残念ながらこんな格好では叶いそうにありません』

咲は口元を袖で隠しながら目だけで笑う。「天狗姫」と言われるには、もうひとつ理由がある。佳人と評判だった母に似た顔を、利用する術がだんだんわかってきた。

三四郎は、目をそらした。青い空を横切るように、鷹が悠々と飛んでいる。

『不思議な方ですね。咲さんは……。咲さんが縁談を断るのは、どなたか心に決めた方がいるのですか』

横を向いた三四郎の耳たぶが、ほんのり赤い。

『はい。おります』

咲は、きっぱりと答える。こっちを見た三四郎の眉間に、不本意そうな皺が寄った。

『私と結婚するお相手は、日の本一の代官となられる方です。……この地と、この地の民と、家来を守っていく知恵と力量のある方です』

咲の言葉に力がこもった。

『……そのような方がおられるのですか?』

『いいえ。残念ながら、まだお会いできていません。けれど、私の旦那様がそういう方でなければ、この地の民はあっという間に飢えて死んでしまうでしょう』

水不足に日照り、または、長雨の日照不足、そんな天災が一度起きるたびに、人々がどれだけ苦しい生活にさらされるか、咲は三郎に教わってきた。それなのに年貢は増すばかりだ。

『……さすが、伊能様の娘さんだけのことはある。お父上のような方でなければ……、ということですね』

三四郎がほっと息を吐いた後、そう言った。

『それは、皮肉ですか?』

咲は思わず三四郎をにらみつけ、続けた。

『名代官と名高い岡登様のご子息のお言葉とは思えません。岡登様ほどの方なら、私とて喜んで縁談をお受けします』

三四郎が一瞬驚いたように目を見開いた後、ゆっくりと目尻を下げた。そして、ほがらかに声を上げて笑った。笑い顔が、急に幼く見える。

『な、何がおかしいのですか?』

『……父と比べれば、敵う者はいないかもしれませんね』

咲は、ぎゅっとこぶしを握りしめる。気持ちを落ち着かせるように息を大きく吸うと、帯がさらにきつく感じられた。こんな格好でなければ、この無粋な男を思いっきり叩きのめしてやるのに……。

『……失礼しました。あなたは特別頭のいい方かと思っていましたが、安心しました。こんな風に子どもっぽいところもあるのだと……』

『な……!』

『同じ代官とはいえ、父は幕領。伊能様のところは、沼田の真田様の領地だ。年貢も違えば、細かな決まりも違う。同じ土俵で比べては、伊能様には気の毒でしょう』

『そんなこと、言われなくともわかっています』

ムッとしてくってかかろうとした咲に、三四郎は真顔で言った。

『少なくとも父上は、伊能様のこと評価しておられますよ。自分がこの地の代官であったら、あのように民を守れるだろうかと、日ごろから感心していました』

『岡登様が……?』

信じられなかった。沼田からの使者に頭をたれ、引きつった愛想笑いをする頼りない姿を思い出す。

『一見頼りなく演じているのも、相手を油断させるための仮の姿でしょう。言うことをきかない強者と思われれば、沼田はすぐさま戦をしかけ、伊能様を排除しようとする。そして、もっと言うことをきく代官をおく。そうすれば、より多くの年貢を取り立てることができる』

『……』

『そうでなければ、父上がわざわざ伊能様に会いにくるはずはありますまい。しかも、私をつれて、見合い風を装ってまで……』

『何か、あったのですね?』

咲は三四郎に一歩近寄り、詰め寄った。

国境の森林のことと言ったのは建前で、さらに見合いだと思わせるために三四郎を連れ立って、岡登代官がわざわざ会いに来たからには、とんでもないことが起こっているに違いない。

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