11.岡登代官と岩櫃の天狗様4


『咲! そのようなナリをして、今までどこに行っておった』

屋敷の裏門に着いた途端、父の罵声が飛んだ。普段は温厚な父、伊能重三郎(いよくしげさぶろう)の耳に既に入っているのかと、咲は小さくため息を吐いた。

『河原におりましたが、何かありましたか?』

平静を装い、咲は井戸の方に向かう。

『先ほど、役人から連絡があったのだ。水牢に向かう列を邪魔した者がおるとな』

重三郎は、咲の後ろを追いつつ、少し声を低くして続けた。

『その者らは、童のような姿でありながら、ひとりは恐ろしく腕っぷしも強く、役人どもをなぎ倒し、捕らえた女どもを逃がしてしまった、と。そして、風のように素早い動きで逃げた。それは、まるで天狗の子と思わせるほどだったそうだぞ』

『まあ、天狗の子とは、どのような者なのでしょう。私も見てみたいわ』

とぼけてそう返事をすると、重三郎の顔が真っ赤になって震えた。

『馬鹿もん!』

一見軟弱そうな重三郎の、本気の怒鳴り声が響いた。塀の上に止まっていた雀が一斉に飛び立つ。

『そんなことができる子どもなど、天狗姫とあだ名を持つ、おぬししかおらぬではないか!』

『天狗姫なんて、聞いたこともありません。人違いじゃないかしら。それに……』

咲は、キッと父親の顔を見すえた。

『その者らのおかげで、女たちは逃げられたのでしょう。よかったではありませぬか』

『何?』

『父上とて、我が領土の民を、しかも、幼子のいる女房を捕らえて、冷たい水牢に入れるなど、本意ではありますまい。民らの怠惰で米が獲れぬのではありませぬ。日照りの水不足のせいです。水牢に入れたところで、獲れぬ米は獲れぬでしょう』

『……しかし、それでは上に示しがつかぬ』

苦しそうに顔を歪め、重三郎は言った。咲の父は、岩井村に拠点を構え、太田地区の村々と新巻村、奥田村を治める代官だ。重三郎の右腕として働く年貢取り立ての責任者は亮太郎の父茂木偉一郎(もきいいちろう)だ。

『上とは、沼田の殿様のことですか?』

そんな悪習ができたのは、真田伊賀守(さなだいがのかみ)が沼田藩主になった、ここ数年のことらしい。信州松代(まつしろ)藩の藩主になりそこねた伊賀守は、見栄を張り三万石の沼田藩を十五万石と申告した。その上贅沢三昧で、吾妻奉行所を修理する費用はないくせに、吾妻各所に水牢を設置して、年貢を納められない者には罰を与えよと命令したと聞く。

『上には、滞りなく行ったと言えばいいではないですか。そうでなければ、決行しようとした日に賊に襲われ叶わなかったと……』

『そうすれば、賊を捕らえ、首をはねよと言われるだけだ!』

重三郎が絞りだすような声で言った。拳がわなわなと震える。

『よいか。沼田はおぬしが思っているほど、甘くはないのだ。賊を捕まえねば、示しがつかぬ。こっちへ、来い!』

重三郎は、咲の手首をつかんだ。

くるりと手を返し、父の腕から逃れることはたやすい。それは父もわかっている。

それでも、咲は父に手を引かれたまま、蔵の前まで連れて行かれた。家来や女中たちが何事かと裏口からのぞいている。父の威厳だけは保たなければならないと、遠慮心が沸いた。

『ここへ入って、反省しておれ。今晩は、ここから出ることは許さぬ!』

蔵の重い扉が、ギギギっと音をたてた。涼しくて、ほこり臭い空気が流れてくる。

『あっ!』

よろけた振りをして蔵の中に入る。ガタリと扉が閉まり、外から錠をおろす音がした。

『明日の朝まで、誰も蔵の扉を開けるでないぞ!』

重三郎がそう言った後、砂利の上を歩く音が小さくなる。明り取りの窓から頼りない光が照らす。ふうとため息を吐いて、窓の真下に腰を下ろした。膝を抱えて薄暗い蔵の中をにらむ。

父を恨んでいるわけではない。父の立場からすれば当然のことだ。だから、逃げだすこともできるのに、ここに留まっている。

悔しいのは、戦国時代真田昌幸公に仕えた吾妻衆(あがつましゅう)と呼ばれる忍びの中でも、数々の武功をあげ吾妻七騎と称えられた先祖を持つ父が、その実力を発揮する場を与えられることなく、民から米を搾取することだけを強いられていることだ。しかも、その米も財も、沼田にいる殿様に吸い取られている。

外でカラスの鳴く声が聞こえる。複数で山のねぐらへ帰るのだろう。夕刻が近付いている。だんだん濃くなる闇をにらみながら、咲は微塵も後悔していなかった。

初めて水牢に繋がれた女たちを見た時の衝撃は忘れられない。数人の女房が、手を数珠繋ぎに縛られて、腰まで冷たい水に浸かる。塀の外には、夫のすすり泣き、母の名を呼びながら泣き叫ぶ子どもの声。唇まで真っ青になっていった女のひとりが意識を失って倒れる。支える力もなく、両隣の女も顔まで水の中に浸かる。起き上がる女たちは、上半身も水に濡れ、吹き付ける北風と湿った着物が、さらに体温を奪っていく。

見るに見かねて、家や田畑を売る男たち。しかし、間に合わず命を落とす女もいた。

その光景を思い出して、咲はぶるっと震えた。

辺りが徐々に暗くなっていく。もうすぐ夜がやってくる。

『また派手にやらかしたらしいなぁ』

のんびりとした声が聞こえた。語気の強い上州のなまりではない。京風の口調は、どこかささくれだった気持ちをなぐさめてくれる。

『遅かったじゃないの。三郎』

『ひいさんこそ、騒動起こしてくれたらしいやんか。よりによって、わしのいない間に……』

窓の隙間から、三郎が顔をのぞかせた。父が何度言っても髷を結おうとしない。浪人のように長い髪を後ろに束ねている。

『だって、いたら止めるでしょう?』

『当たり前や』

三郎が呆れた顔をする。その顔を見て、咲はほっとした。三郎なら来てくれると信じていた。

『亮太郎は、どうしている?』

『同じようなもんや。親父どのに大目玉くらって、蔵に閉じ込められておる。……殴られて、顔に青あざができとったけどな』

『亮太郎の父上が……? 普段はあんなに温厚なのに……』

温厚というよりは気が弱い。人のいい男だった。脅して年貢を納めさせる仕事なんて似合わない。書や画の上手な風流人で、寺子屋でも開いた方が向いている。

冬が近づくと、胃を壊してやせ細る。そんな姿を見て、亮太郎は嘆いていた。大人になりたくないと。大人になって、父と同じ民を苦しめる役につきたくないと。けれど、伊能代官の下でこの地を納めてきた茂木家の後継ぎとしては、そうなるのは定めでもあった。

だからこそ、そうなる前になんとか一矢報いたいとの気持ちが行動を起こした。咲は、その手伝いをしただけだ。

『あの人だって、好きで息子を殴ったんやないで。そうでないと示しがつかんのや』

『示し……ねえ』

咲はつぶやいて、指をかんだ。誰に対する示しなのか。自分に仕える家来たちか。沼田の殿様か。それとも、領地の民たちなのか。

『あんまり無茶すんなや。あんたぁの父上だって、考えなしやないで』

『だったら、どうして!』

思わず三郎をにらみつけ、続ける。

『隣の岡登代官は、民のために水路を引いてくれたって……。いい代官様だって有難がられているのに。……こっちの代官は、民を水牢にぶち込む鬼だって。仏と、地獄の鬼、村境で全然違うって』

問いかける声が、だんだん湿っぽくなる。

父上は優しい人だ。ご先祖のような猛々しさはない。だけど、色白のひょろっとした風貌でありながら、殿様の威光を借りた偉そうな役人など、簡単にやっつけられるほどの腕をもっている。なのに、無理難題を言う役人に、へこへこと頭を下げる。

『……』

膝に頭をつけてしばらくいると、すぐ近くにトンという音がした。三郎が天井裏から潜入したのか、蔵の中に入って来た。

『入れるくらいなら、ここから出してよ』

『まあ、そう言いなさんな。ひいさんを蔵から出すなとは言われたが、蔵に入るなとは言われてないし。たまには、お父上の言うことも聞かんとな』

文句を言うと、三郎はのんびりとそう言って、咲の隣に座った。

『父上に言われて、沼田へ行ったのでしょう? 何か収穫はあったの?』

鼻をすすって、三郎の横顔を見た。

いつもは咲のそばにいる三郎だったが、月に数回、父の言いつけで出かける。行先はたいてい沼田で、父上は三郎に沼田城内を見張らせているのではないか。そうでなければ、戦国時代に活躍した割田下総(わりたしもうさ)と同等の忍びの技を持つ三郎を、わざわざ行かせるはずはない。三郎なら城内に忍び込むこともたやすいだろう。

『ああ、美味いぼたもち買うてきたんや』

『ぼたもち?』

間の抜けたような返事に、思わず声が裏返った。

『ひいさんのお父上は、甘いものに目がないやろう。沼田城下に評判のぼたもちを売っている店があるんや』

『ふん。食えぬヤツ』

呑気な口調の三郎に、咲は鼻を鳴らして文句を言った。

『ほら。腹減ったやろう』

差し出されたぼたもちを見た途端、くうっとお腹が鳴った。何を考えているかわからないけれど、三郎はいつも咲の欲しいものがよくわかっている。

『……美味しい』

『やろう?』

甘いぼたもちを頬張ると、満足げに三郎が目を細めた。

『たんと食って、強うなれや』

歌うように三郎は言った。

『これ以上強くなったら、父上とウメが嘆くのではないの? 年頃なのに、ちっとも女らしくないって……』

ウメは、産後の肥立ちが悪く亡くなった母の代わりに、咲を育ててくれた乳母だ。

『いいんや。元気で強いのが一番やって、お父上も思うておる。……まあ、ウメさんにはまいるけどなあ』

三郎は、後半困ったような顔をして鼻の頭を掻いた。

剣の指南役兼用心棒の三郎は、一見優男に見えて恐ろしく腕が立つ。幼い頃から三郎に鍛えられた咲は、みるみる上達して『天狗姫』と陰口をたたかれるほど強くなった。男の子顔負けのやんちゃをして遊び回っている咲を、ウメはいつも嘆き、その怒りの矛先は、咲に武芸を仕込んだ三郎に向けられている。三郎が唯一苦手にしているのがウメだ。

ふふふと笑ったら、気持ちも少し楽になった。

腹が満たされてふいに眠気が襲う。肩越しに感じる三郎の温もりが、余計に今日の緊張をほぐしてくれる。三郎の肩に寄りかかり、咲は目を閉じた。さっきまで心細かったのが嘘のように、安心して眠りにつく。

『強うなれや。……どんな運命にも負けへんように』

眠りに落ちる直前、三郎のつぶやき声が聞こえた気がした。

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