10.岡登代官と岩櫃の天狗様3


太田地区岩井の林道脇に車を停める。そこに着くまで何度も、三郎は私の顔色をうかがい、『大丈夫か』と声をかけた。その都度『大丈夫』と答えるのに、三郎はやはり心配そうに顔をのぞき込む。

苔むした岩の上に小さな仏像が建っている。高さは三メートル弱、幅は四メートルほどだろうか。苔から草や小さな木さえも生え始めている。

車通りのほとんどない林道に、静かにその岩は座っていた。

岩は語りかけてはこなかった。ただ、水の流れる音が聞こえる気がした。足元を流れる清流が、様々なけがれをぬぐい去ってくれている。見渡しても、水の流れはそこにはなかった。その岩から水の流れるイメージが感じられるだけだ。

「何か、感じるんか?」

かなりナーバスになっている三郎が声をかける。

「あの岩から、川の音が聞こえるの」

「へえ」

指さすと、三郎が目を見開いた。

「侍の念が残ってへんか?」

「侍?」

神妙な顔をして言った三郎の言葉の意味がわからず、私は聞き返した。

「あそこは、岩櫃の戦いで敗れた侍が切腹したっていう伝説のある岩やから……。怒り岩やないと思うてたけど、わしの感じ方より、あんたぁの方が余程敏感らしいから」

「うん。別に怒ってないよ」

私は、そう答えて岩を写真におさめた。

岩の近くに『腹切石(はらきりいし)の由来』と書かれた碑が建っていた。戦国真田に岩櫃が攻められた時よりも、ずっと前の話だ。この岩を背に腹を切った武将の霊をなぐさめるために、地元の人たちが岩の上に石仏を建てたのだという。

さらに、沢沿いにあったいわくつきの岩を、改良工事の際にこの地に移したらしい。多くの岩が工事の際、破壊されるというのに、大切に守られた伝説の岩。『腹切石』という不吉な名前だけれど、岩は人々の思いを受け止めて静かにそこにある。

「そうか。それなら、ええけど」

三郎がほっとした顔をした。

「元々は川の中にあったから、水の音が聞こえた気がしたのかな」

岩を見上げて、私はひとり言を言った。

この岩を見下ろしたことがあるような、そんな気がした。

清流に身体をひたして遊び、冷え切った身体をこの上で温めた。

『そんなところに上ったら、罰が当たるぞ』

とがめたのは誰だっただろう。

『平気よ。この岩は、もう少しも怒っていないもの』

そう言って、笑った記憶。

それはいつの記憶だろうか。思い出しそうで、思い出せない。

苔におおわれた岩の表面を見つめる。川の音が聞こえる。ここに移されたのはきっと最近のことで、この岩はそれまでずっと冷たい水にさらされていた。それは気持ちよさそうに……。

「ひめ」

岩の表面に手を触れる直前で、三郎が手をつかんだ。

「……え?」

「やめといた方がええ。怒っとらんでも、長く村人の信仰の対象になっとった岩や。深く関わらん方が無難や」

「でも……」

「今日は疲れとるやろう。もうやめときや」

三郎が手に力を込めた。冷たい手のひらから、心配する気持ちが伝わってくる。

「雨が降りそうや。そろそろ引き上げよか」

三郎が手を放し、空を見上げた。冷たい風が吹いた。太陽は姿を消し、暗い雲が低い位置に立ち込めている。

「うん……」

素直にうなずいた、その時だった。

ピカリと遠くに稲妻が走る。同時に、ぐらりと地が揺れた。

「なんや。地震か」

三郎の声と一緒に、空から轟音が降りそそいだ。

「きゃっ!」

足元がぐらつき、思わず目の前の岩に手をついた。ごつごつとした冷たい湿った感触。以前この岩に触れたことがある。その時の感情があふれてきた。

足元に清流の冷たさを感じる。

『どうして、私を置いていったの』

身を切られるような悲しみ。喪失感。ぴりぴりとした感情が映像と一緒に押し寄せてくる。

『どうして……、三郎』

泣きながら絞りだしたその声を、耳の奥で聞いた。

「ひめ」

腕を三郎につかまれた。岩から手が離れる。雨粒が頬に触れ、我に返った。

「雨がひどくなる前に帰るで」

三郎に促され、車に向かう。ぽつりぽつりと大粒の雨が勢いを増す。足元がふわふわとおぼつかない。

助手席に逃げ込むと、ざあっと雨脚が強まった。

「やっぱり降って来たなあ」

エンジンをかけ、ワイパーをフル稼働させながら、それでもどこかのんびりとした口調で、三郎が言った。

「それほど濡れんくてよかったなあ」

「……三郎」

「ん?」

「どうして、姿を消したの?」

そう問うと、三郎の目が一瞬見開いた。明らかに傷ついた顔をして、視線をそらす。

ふたりの湿った体温で、フロントガラスが曇る。三郎がエアコンをいじると、軽トラが低くうなった。

「さあ、忘れてしもうた」

ごまかすように三郎は言った。

何のことやと問うこともなく、忘れたと三郎は言った。それは、私によみがえった記憶が、間違いでないことの証拠だ。

ごまかされたくない。ずっと知りたかったことだ。何百年も前から……。

真っすぐに、三郎の横顔を見つめる。

こわばった白い横顔が、ふっとほころんだ。あきらめたように笑みを含んだため息を吐く。

「……今度のひいさんは、ずい分力が強いなあ」

「……」

「せやなあ。もう千年近くになる。……もうそろそろええやろう」

三郎は力が抜けたように、ハンドルに額をつける。

「なあ……、わしを殺してくれんか?」

「え?」

絞りだすような声に、言葉を失った。

今、何て言った?

私が三郎を殺す?

三郎がハンドルに頭を預けたまま、私の手を取った。

「もう疲れたわ。できれば、あんたぁに殺してもらいたい。あんたぁにしかできひんことや」

耳心地いいアクセント。その内容は、頭に入ってこない。

「そうすれば、今度こそゆっくり眠れる」

ワイパーが忙しそうに、左右に揺れている。握られた手を放すこともできずに、猛烈に降り続ける雨を見ていた。

『そんなところに上ったら、罰が当たるぞ』

ふくらはぎまで冷たい水に浸かり手を洗いながら、亮太郎(りょうたろう)が言った。前髪を残し、頭のてっぺんだけをそった武士の男子の髪型で、薄汚れた着物を着ている。

『平気よ。この岩は、もう少しも怒っていないもの』

腹切石に上り、陽の光を浴びながら伸びをする。川の中から突き出したこのいわくつきの大岩は、おどろおどろしい名前とは反対に、静かで優しい。

『へえ。咲(さき)が言うなら、そうなんだろうな』

亮太郎もそう言って、岩に上がろうとする。

『平助なんて、咲が触れちゃあなんねえって言った怒り石に上って、その後しばらく寝込んだもんなあ』

『金井の怒り石は、そばに近寄りたくもないよ。なんで平気で上ろうなんて思うのか、そっちの方が信じられないよ』

『普通はわかんねえよ。どれが、おっかねえ岩かなんて』

岩によじ上った亮太郎が言う。

触れると病が治る岩、祟りが起こる岩。そう信じられている岩は、いくつもある。けれど、本当にご利益のある岩、人を祟るほど力を持つ岩は限られている。限られているけど確かに存在する。

咲は、小さい頃からそんな岩の力を感じることができた。

昔、戦に敗れてこの岩を背に腹を切った侍を祀ったこの岩は、人々の祈りをただ静かに受け止めている優しい岩だ。だから、怖がる必要はない。

『日があたって、岩が温かいの。ほら、亮太郎も早く乾かしなよ』

咲はそう言って、膝上まで着物のすそをめくりあげた。

泥だらけになった手足を、清流で清めた。冷たい水が心地いい季節はとうに過ぎてしまった。小春日和の貴重な太陽に温められた岩の上で一息つく。

『咲は一応女子なんだから、ちったあ気にしろよ』

亮太郎が露骨に顔をしかめ、あらわになった太ももから視線をそらせた。そのくせ、自分はふんどし近くまですそをめくってあぐらをかいている。

フンと鼻を鳴らして、空を見上げた。秋晴れの青い澄んだ空、山々は紅葉で赤や黄の錦に色付いている。茸や木の実を山からいただく実りの秋は、咲や亮太郎にとって気の重い季節でもある。

『あれ、亮太郎。ひじのところ、血が出ている』

『ああ、逃げる時、どこかにひっかけたか……』

『貸して』

胸元から懐紙を取り出して、血を拭った。ひっかいたような傷は既に固まっている。

『よせよ。たいした傷じゃねえや』

亮太郎は、腕を振り払った。心なしか顔が赤い。

ひとつ年下の幼なじみは、しょっちゅう泣きながらついてきたのに。最近は子ども扱いすると嫌な顔をする。

『今回は、さすがに親父も怒るかなあ』

亮太郎は、視線を遠くの山に移した。

『後悔している?』

普段は父上と呼ぶくせに、ふたりの時は親父と呼ぶ。ため息交じりに言った亮太郎の言葉に、咲は問いかけた。

『いや。……もっとやってやりゃあよかった』

『よし。いい子だ』

強がってにやりと笑った亮太郎の頭を、がしがしとなでた。まるで幼い子どもの頃のように。

半分怒ったような、半分照れたような複雑な表情で、亮太郎は唇の端を上げた。

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