9.岡登代官と岩櫃の天狗様2


東地区一つ目。目指す岩は、榛名湖付近の山の中にあるらしい。

パーカーと虫よけを持参したのは正解だった。細い山道を行く三郎の背中を追いかけながら、そう思った。

「山を守る仕事って、どんなことをしているの?」

迷うことなく山を分け入る三郎の背中に問いかけた。

「せやなあ。……新種のキノコを探したり、絶滅しそうな野草を守ったり、……まあ、いろいろや」

「ふうん」

林業関係の仕事でないとしたら、何かの研究をしている人だろうか。大学生なら仕事って言わないだろうし、大学の研究室の助手とか。最近、町がどこかの大学と提携して研究をしていると聞いたことがあるから、そういう関係なのかもしれない。

考えながら歩いていると、自然と三郎との間が空く。

三郎は立ち止まって、空を見上げた。ひのきと落葉松の林の中、木漏れ日が三郎の上に降りそそぐ。

何かいるのだろうか、と三郎のそばまで来て空を見上げた。

三郎が再び歩き出す。私を待っていてくれたのだと気付き、慌ててその背中を追う。

「あれが、目当ての岩や」

しばらく歩くと、三郎が指さした。山の中腹あたりに、その岩はあった。横は三メートル、縦七メートル程の上下に長い岩だ。立ち止まると、枯れ枝を踏む音も止む。セミの声も鳥のさえずりさえも、一瞬止んだ。林の中に、突然突き出しているように鎮座している大きな岩。

「何か言うってはるか?」

隣に立つ三郎が、耳元でささやいた。

「ううん」

耳をすませても、岩は言葉を投げかけてこなかった。

「でも、誇らしげな岩……」

感じたまま、そう口にしていた。

この岩は多くの人の役に立ち、思いを受け止めた。そのことを誇らしいと思っている。

岩に近付き、湿った岩肌にそっと手を触れる。誇らしいだけでない。岩の奥の方で、悲しみにくれる人がいる。それを悔やみ、岩は悼んでいる。泣いているのは誰だろう。胸が引き裂かれる思いをした人が、確かにいる。

「……ひめ」

その輪郭がおぼろげに見えかけたところで、三郎が声をかけた。

「え? あ、うん」

突然、セミの声が鳴り響く。風で葉が揺れる音。あんなに静かだったのに。世界は音にあふれていた。

背中にどっと汗をかいた。

「あんまり深入りせえへん方がええ」

三郎が腕をつかんだ。手のひらから、布越しに温もりが伝わる。岩から離れようとして足がもつれた。

「大丈夫か。顔が白いで」

三郎が手に力をこめる。

「……うん。ごめんなさい」

岩に近付きすぎた。積極的に話しかけてこないけれど、力を持っている岩に違いない。

三郎が近くにいることで、安心してしまった。

「ほら、写真撮るんやろう?」

手を放して、三郎が言った。

「うん」

気を取り直して、カメラを向けた。岩の脇に標柱と案内板がある。

「『榛名湖御水論壱(ひと)つ岩』?」

「ああ。この岩はなあ、この辺の人にとっては、大事な岩やったんや」

案内板には、その由来が書いてあった。

江戸時代、岡崎を中心としたこの地に赴任した岡登(おかのぼり)代官三代が、水に苦労していた村人のために用水を作った。その際、高崎藩領の村と榛名湖の水をめぐって争いが起こり、どちらの水か決める際に基準になったのが、この壱つ岩というわけだ。

「そうか。だからか……」

今のように水道の蛇口を開ければ水が出る時代ではない。水がなければ、作物も育たない。生きていくに必要な水を得るために、守り抜いた多くの人の思いがこもった岩だ。それを誇らしく思う岩は満足して、静かに沈黙を守っている。

けれど、かすかに残るあの悲しみは、誰のためなのだろう。

「さあて、次に行こうや」

三郎の声に再び思考は中断された。

東地区ふたつ目の岩は、新巻の吾妻川右岸、川に突き出した岬の上にあった。

車から降りるとすぐにその岩が見えた。山道を歩く必要はなく、深い森の中でもない。明るい陽射しの下にあった。

畑の向こうに大きな岩。その上に赤い鳥居と石碑がふたつ。雑草やつるにおおわれた岩には、小さな木さえ生えている。

長い間そこにあったのだろうその岩は、不自然な場所にポツンと取り残され、辺りの自然と同化していた。

「あれ?」

三郎が指さす前に、私はたずねた。思いがけず声が震えた。

「そうや」

三郎の答えを聞く前に、その腕にしがみついた。震えが伝わったのか、三郎が足を止める。

「怖いか」

「……」

「そうかあ。怒っているような岩ではないと思うたけどなあ」

こくりと、私はうなずいた。岩は怒ってなんかない。凪(な)いでいる。そこにあることが不自然な状況で、人々の恐れと畏怖と憐れみをすべて受け止めて、凪いでいた。

それなのに、ひとりで立っていられないほど、地の底が震えるような感覚に襲われる。

「これ以上近寄らん方がええやろ。貸してみい」

三郎がそう言って、私の手のカメラを奪った。

腕を放しても、なお震えが止まらなかった。三郎の作業着の端をつまむ。おいていかれたくない。そんな思いが強く過る。

「今度のひめは、力が強いなあ」

シャッターを切る音と一緒に、三郎のつぶやき声が聞こえた気がした。

軽トラまで三郎に連れ帰ってもらい、車に乗ってもしばらく震えはおさまらなかった。

車は静かにゆっくりと動き出す。

どうしたんだろう。怒り石や祟り岩のたぐいに出会った時も、こんなにも恐怖で震えることなどなかったのに。

先ほどの場所を離れ、エアコンの風にしばらくあたると、震えはおさまった。

三郎は、細い道を分け入った先の駐車場に車を停めた。

「何か飲んだ方がええ。この先に有名な湧き水があるで、汲んでこようか」

「ううん。水筒持っているから……」

三郎の提案に慌てて首を横に振った。まだひとりになりたくなかった。

リュックサックの中から水筒を取り出す時に、緑のストライプのナプキンに包まれたお弁当が見えた。取り出そうか、ためらう。

「あれ、昼飯食べてへんの?」

「そうじゃなくて、もし食べるならと思って……。お昼ご飯作るついでで、この間お弁当久しぶりだって言っていたから……」

作ってくれる人が、いないのかなって……。最後の一言は口の中でごにょごにょと濁した。

なんだかんだと言い訳をしながら、包みを取り出す。

「へえ。そりゃ、すまんなあ……」

三郎がうれしそうに目元を下げてそれを受け取った。

「ううん。こちらこそ……。つきあってもらって、また迷惑かけて……」

語尾がみるみる小さくなって、うつむくしかなかった。

「いや。仕方ないやろ。……悪かったなあ。怖い思いをさせてしもうて」

三郎がすまなそうな声色で謝った。

なぜ、あの岩が怖いと思うのだろう。自分でもおかしいと思うのに、なぜ三郎が謝るのか。あの岩が怖いと思うのが、当然のように。

小学生の時、遠足でこんな風に震えが止まらなくなったことがある。あの時も岩から離れたら震えはおさまった。あまりの怖がりように、同級生たちが気味悪がった。

『妃芽ちゃんって、ちょっとおかしいよね』

女の子たちの陰口を聞いて、やっぱりそうなのかと納得したものだった。

「流動岩(ゆするぎ)っていうて、揺するとぐらぐらするって聞いたことがあったもんやから。試してみようかと思ったんや。でも、しゃあないなあ。天明の置き土産やから」

三郎が、のんびりとした口調で言った。

「天明の置き土産?」

「江戸時代に浅間が大噴火したことがあったやろう。そん時に、吾妻川沿いの村々は、浅間石の混ざった濁流に押し流されたんや。そん時の置き土産や」

説明する三郎の瞳に暗い影が宿る。

「ふうん」

あの岩は、あの場所にあることがふさわしくない。本来あそこにあるべきものではないという気がした。

けれど、数百年前に浅間山の噴火によって押し出された大きな岩は、定められた運命を受け入れてそこに風化しようとしている。

「ああ。うまそうやな」

弁当の包みをといた三郎の軽い声が聞こえる。

「うん。このフロウはうまいなあ」

「フロウ?」

聞き覚えのない単語に思わず横を見ると、三郎がインゲンの肉巻きの刺さっていた楊枝を手にしている。

「インゲンじゃないの?」

「まあ、そうとも言うけどなあ。方言なんだか、品種名なんだか知らんが、前に世話になっていた爺さんが、こいつをよく食っとったんや。『フロウ』って名前だから、不老不死の薬になるって言うてな」

「ふうん」

夏の日差しを浴びたあざやかな緑は、確かに生命の味がする。スーパーで売っている細い頼りないやつじゃなくて、涼くんのお母さんの実家からもらえる朝取りのインゲンは、特にそう感じる。

「まあ、その爺さんも死んじまったけど。九十二歳まで畑仕事しておったから、いくらかは効いたんかもしれん」

三郎の声色が一瞬暗さを帯びる。

「ああ、うまい」

おにぎりを頬張る三郎の横顔は、いつもどおり穏やかだ。横目で見つつ、少しほっとした。

「さあて、どうする。具合が悪いならそろそろ帰ろうか」

西の空を気にしながら三郎が言った。

「大丈夫!」

急いて否定したのは、まだ別れたくなかったからだ。

その勢いが意外だったのか、おにぎりを手にしたまま三郎が驚いた顔をしてこっちを見る。

「……あの、できれば、太田の岩の写真もあった方がいいかと思って……」

完全に苦しい言い訳だった。言った後に、恥ずかしくなってうつむくしかなかった。

「じゃあ、もう一カ所だけにしようや。夕立も降るかもしれんし。また、別の日にすればええやろ」

「……うん」

目尻を下げて三郎は言った。まるで、子どもをなだめるみたいに。

それは、別の日も会ってくれると約束したことになるのだろうか。それは、勇気がなくて聞けなかった。

再び静かに車が走り出す。

「この辺りは蛍がきれいなんやで。見たことあるか?」

「ううん」

箱島の湧水と蛍は、町の観光地として有名だ。でも、実際に来たことはなかった。

「いいな。見てみたいな」

「せやなあ」

一緒に見に行こうと言ってくれるのではないかと一瞬期待したけれども、三郎はそれきりまっすぐ前を向いてハンドルを握るだけだった。

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