8.岡登代官と岩櫃の天狗様1


じりじりと太陽が肌を刺す。帽子をかぶってこなかったことを後悔しながら、腕時計を見た。

『何を急いでいるでごわすか?』

「友達と待ち合わせなの」

線路沿いの赤い屋根の社の脇にひっそりとたたずむ石碑が話しかけてくる。

『へえ。友達』

「そうよ。友達!」

からかいの混ざった声に、思わず言い返しながら足を速めた。

家の近所にあるこの石碑は、小さい頃から頻繁に話しかけてきた。たぶんおもしろいおじさんで、豪快な武勇伝をたくさん教えてくれた。

『あのおじさん、おいもみたいな所から来たんだって』

『あら。どこのおじさん?』

『あの大きい石のおじさんよ』

指さした先のひし形に似た石碑を見て、お母さんが眉をひそめる。

『おおしおへいはちろうのらんに、いたんだって』

せっかく覚えた難しい言葉をほめてもらいたくて、誇らしげに言った私の言葉に、色白のお母さんの顔が、ますます青くなったのを覚えている。

それ以来、あの岩が話をすることは誰にも言わなかった。優しいおしゃべりなおじさんだったけれど。

軽い足取りで線路沿いの小道を駆けぬける。春はきれいな桜並木になっている小道は、この季節木陰で厳しい日差しをさえぎってくれる。

あの岩は、久しぶりに話しかけてきた。思わず答えてしまうほど、心が浮き立っているのが伝わったのだろうか。

落ち着こうと、軽く胸を押さえた。

黒のノースリーブのカットソーにジーンズ。山道に入った時のためのはおり物のパーカー。朝からクローゼットを開け放して、何度も鏡の前で着替え直した。

相手は大人なんだから、子どもっぽく見られたくない。それでも、かわいいとも思われたい。けど、気合が入っているって思われたら恥ずかしい。悩みに悩んだ割には、普通の恰好になってしまった。

一時間に一本の電車しか来ない駅には、人気は少なかった。待ち合わせの1時5分前、息を整えて化粧室の鏡をもう一度確認する。ハンカチで額の汗を拭った。

麦茶の入った水筒からカランと氷の音が聞こえる。お弁当が傾いていないか、そっとリュックをのぞいた。

『妃芽ちゃん。どこか行くの?』

お昼ごはんの準備をしていると、美紅がたずねた。

『ん。……ちょっと、友達と出かけてくる』

『友達?』

美紅が明らかに疑わしい視線をよこした。涼くんが何か問いたげに、宿題から目を上げた。私は目をそらして、インゲンに豚肉を巻く作業に忙しいふりをした。

友達と出かけることなんて、ほとんどない。勘のいい美紅は、朝から挙動不審だった姉の様子に気付いている。

インゲンたっぷりの夏野菜サラダに、インゲンの肉巻き。それと、ゆかりとわかめのおにぎりのお昼ごはんを、私はそっとひとり分余分に作ってお弁当に詰めた。

待ち合わせは、午後1時。お昼ご飯は済ませて来ると思うけど、もしかしたら、仕事が忙しくて食べて来られないかもしれない。もし食べてきたらなら、夕ご飯にしてもらえばいい。お弁当を作ってくれる女の人はいないみたいだし。自由研究を手伝ってもらうお礼にもなる。お弁当箱を返す口実で、また会ってくれるかもしれない。

「……」

きゅっと唇を引きしめて、鏡に映る自分を見つめた。頬が上気して赤い気がするのは、暑い中走って来たからだ。胸の鼓動が早いのもきっとそのせいだ。

ポップなオレンジ色の建物。旧観光協会の前に石でできたぐんまちゃんの像がある。建物の影の下で、三郎を待った。

信号が変わってゆっくりと白い軽トラックが駅に向かって走ってくる。その運転席に髪の長い男の姿が見えた。

「堪忍なあ。暑い中、待たせてしもうて」

助手席の窓を開けて、三郎が言った。

「ううん。平気」

たぶん、一瞬目がまん丸になっていたと思う。それから、吹き出した。

軽トラックで来るなんて、まったく予想していなかった自分に。そして、『ふたりならええってこと』と三郎が言った理由が、自分が考えていたような甘い感情ではなかったっていうことに。

山を守る仕事(それが、どういう仕事なのかはさっぱりわからないけど)をしている三郎は、そのほんのついでに、岩のある場所に連れて行ってくれるつもりだったのだろう。

気負っていた気持ちがほぐれて、がっかりしたような、ほっとした気持ちになる。

「すまんけど、ひとりしか乗れへんのや」

三郎がそう言った。その視線が私の後ろに向いている。

「え?」

振り返ると、不機嫌そうな顔をした涼くんがぐんまちゃんの影に立っていた。

「涼くん? どうしてここに?」

家で一緒にお昼を食べた。片付けを美紅に頼んで、慌ただしく家を出た時、涼くんはリビングのテレビの前に確かにいたのに。

「……つけて来たの?」

「友達って、こいつ?」

いきどおりを隠そうとしたいつもより低い声に、涼くんの声が重なった。明らかに敵意むき出しの視線を三郎に向ける。

三郎はいつもと同じ作業着を着て、髪を後ろに無造作に束ねている。山で仕事をしている割には、澄んだ白い肌。切れ長の目元がピクリと動いた。

「おっさんじゃんか。おっかしいだろう。女子高生と友達なんてさ」

中学生から見たら、軽トラに乗った男性はひとくくりでおじさんとされた。

「失礼なこと言わないでよ。私がお願いして、協力してもらっているんだから」

「協力って、何をだよ」

「美紅の自由研究と、お父さんの岩カードの題材探し!」

不満げな涼くんに、私は言い放った。最近急激に背の伸びた涼くんだけど、まだ少しだけ、私の視線の方が高い。

「受験生は家で勉強していなさい。そうしないと、明日からお昼ご飯作ってあげないからね!」

「……」

ぐうの音もでない涼くんが、未練がましく三郎をにらむ。

「わかったら、早く家に帰りなさい」

そう言い残して、私は軽トラの助手席に乗った。

「悪いなあ。ひとりしか乗れなくて……。山に行きたいんやったら、また今度ボウズも連れて行ってやるで」

「……」

三郎が親切に声をかけているのに、涼くんは無言で不機嫌な表情を隠そうともしない。

「いいんです。行きましょう」

「ほな」

スムーズな動きで、軽トラは発車した。あまり新しい軽トラではない。でも、車内はきれいに掃除が行き届いていた。クーラーの涼しい風の中に、かすかに森の香りがした。

「すみません。近所の子が勝手について来ちゃって……」

「悪いことしたなあ。一緒に行きたげに、まだ見とるで」

駅前の信号で停車した車のサイドミラーに、こっちをにらみつける涼くんの姿が小さく映る。

「昔は軽トラの荷台に子ども乗せても平気だったけど、今はまずいやろなあ。お巡りさんに見つかったら面倒やし……」

「昔って、いつの話?」

まだ涼くんを気にする三郎の言葉に、私はクスリと笑った。

「それで、どこの岩見に行きたいん?」

「ええと。……できれば、太田地区か東(あずま)地区の岩がいいんだけど」

昨夜、お父さんとヒロさんが飲みながら言っていた言葉を思い出した。

東吾妻町は、昭和の途中まで五つの町村があって、町村合併を重ねて今の町の形になった。小学校も五校あって、中学校は一校になるけれど、同級生の中でも出身地区の地域性がしっかりと残っている。

町全体で盛り上がるには、どの地区も平等に参加する必要がある。七不思議の岩があるのは坂上地区、最初に見た子持ち岩は坂上地区と岩島地区の境で、町のシンボル岩櫃山は岩島地区と原町地区の境にある。

岩カード配布を町内の商店にお願いするなら、残りの太田地区と東地区の岩も入れないといけないと、今日朝ごはんを食べながら、お父さんがぼやいていた。

「太田と東かあ」

「ありそうですか?」

「まあ、なんとかなるやろう」

三郎はのんびりとそう言って、ウインカーを右から左に替えた。

交差点を左折すると、槻ノ木の老木が小さく見える。涼くんの視線から逃れると、自然と肩の力が抜ける。ふうっと長い息を吐いた。

「ボウズに悪いことしたなあ」

「もういいですから。……それより、すみません。涼くんが失礼なこと言って」

未だに気にしてくれている三郎に、私は謝った。ちらりと視線だけで、三郎の顔をうかがう。おじさんには見えない。車を運転するのだから年上だとは思うけれど、高校生と言われればそう見えなくもない。

「あの子は、本当にあんたぁのことが好きなんやなあ」

三郎がつぶやいた。右手でハンドルを握り、左手の拳を口元に当てている。笑いを飲み込むみたいに。

「そんなことないです! 涼くんは中学生だし……。幼なじみで弟みたいなもので……」

「そやかて、大人になれば大した差やないやろ。ふたつ、みっつの年の差なんて」

「そんなこと、ないです。重要です!」

思わずそう言い切った。三郎が鼻で息を吐いた。笑ったようにも、呆れたようにも見える。

途端に恥ずかしくなる。何をむきになっているんだろう。

「岩って、大きい石でもええの?」

うつむいた私に、三郎が話題を変える。

「え? 岩と大きい石ってどう違うの?」

「定義はあいまいやけど、人が動かせないのが岩、動かせるのが石とか。地盤にくっいているのが岩、そうでないのが石とか。……そんな感じやなあ」

「ふうん。考えたコトなかった……」

大きな石は、みんな岩だと思っていた。特にしめ縄の巻かれた人々に祀られた大石は、時々話しかけてくる。力強いオーラを放っていることもある。それは岩と同様に。

「まあ、難しいことは考えなくてもええか」

槻ノ木の信号が赤に変わる。

「……この木も、年を取ったなあ」

車を停車させ、三郎がぽつりと言った。槻ノ木を見上げて、感慨深そうに。

四百年前、岩櫃の麓にあった城下町をこの辺りに移す時に、拠点としたと言われる町のシンボルツリーだ。四百年前既に大木だったこの木は、数十年前に雷に打たれたり、交通量が増えたせいで排気ガスにやられたりして、枯木のような風貌になっている。

それでも、交差点の真ん中にあって邪魔なはずなのに、今でも町の人々に大切に守られている。

倒れることを防ぐための巨大なハシゴのような支柱二本に支えられる姿は、杖をついた老人のようだ。けれど、真ん中の枝からは、まだ青々とした葉を茂らせている。

「ハートっぽいでしょ?」

「ハート?」

三郎が、すっとんきょうな声を出す。

「ちょっと首を右に傾けると、葉っぱの形がハートに見えるでしょう? 美紅はアヒルだっていうんだけど、私は断然ハートだと思うんですよねえ」

「そやなあ。そう見えなくもないなあ」

「そうでしょ。ハート形土偶で町を盛り上げようっていう動きがあるって聞いたから、私は断然ハートにしか見えないんだ」

この町から出土したハート形土偶は、顔が見事なハートだ。縄文時代にどうしてこんなきれいな形を作ったのかと不思議に思う。この町で最も誇れるもののひとつだと、お父さんは言う。

「へええ」

三郎の切れ長の目尻が下がる。

「最後に、槻ノ木が応援してくれはるのかもなあ」

「……」

思わず三郎の横顔を見上げた。唇に笑みを浮かべている。

植物は、頭の中に直接語りかけてくることはない。けれど、やわらかな気配を感じる。槻ノ木の古木からは、かすかな振動を感じることがある。そう、頑張れって言ってくれている気がする。

「なんや。顔に何かついているか」

ぶしつけな視線を感じたのか、三郎がこっちを見た。

「ううん。何でもない」

胸がくすぐったくなって、視線をそらした。

「夕立が来んといいなあ」

ハンドルを握りながら、三郎が言った。

サイドミラーに見える空は、入道雲がもくもくと夏らしく勢いを増していた。

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