6.岩櫃落城伝説2


「この間のお礼をしたいって思っていて、でも、森林組合に連絡をしたんだけど……」

「森林組合? ……ああ、この作業着は、知り合いからもろたんや」

「そうなんですね」

嘘を吐かれたわけではない。私が勝手に誤解しただけだ。その事実にほんの少し勇気をもらう。

「それで、今日は何もないんですけど、よかったら一緒にお弁当食べませんか?」

リュックを背中から下ろして、差し出した。

「弁当?」

予想外だったのか、三郎がきょとんとした顔をする。

「ええ。妹と来るはずだったんですけど、急に来られなくなって。多めに持って来ちゃったんです。本当は、妹の自由研究のために来たんですけど、押し付けられちゃって……」

言い訳するように、次々に言葉があふれた。

「へえ。そりゃあ、難儀やなあ」

「そうなんです。お弁当作る前に言ってくれればいいのに、妹はいつも勝手に約束しちゃうんです。せっかく作ったのに余っちゃってももったいないから……」

「せなやあ。ほな、遠慮なくいただこうかな」

目を細めて、三郎が言った。

「はい! たいしたものではないんですけど……」

急いで、リュックのファスナーを開ける。

こうなるとわかっていたなら、もっと豪華なものを作ったのに……。

ピクニックシートを敷いて、お弁当を広げる。おにぎりと、トウモロコシの天ぷら、タコさんウインナー、卵焼き、冷凍食品のグラタン、ピーマンのおかか和え……、みんな美紅の好物だ。なんて子どもっぽいメニューだろう。もっと大人の男の人が喜ぶようなものだったらよかったのに……。

「へえ。うまそうやなあ……。人の作ってくれた弁当食べるなんていつぶりやろう」

三郎が無邪気な声を出した。おにぎりを頬張り、「うん。うまい」と目を細める。

「……よかった」

ほっと胸をなでおろした。

この人のために、お弁当を作ってあげる女の人がいない。そのことで、こんなにもほっとした気持ちになるなんて。

子どもっぽいメニューだったけれど、喜んで食べてくれる人と一緒だと、味も悪くない気がしてきた。三郎が「うまい、うまい」と言いながら食べる度に、くすぐったい気持ちになる。

鳥のさえずりに空を見上げると、木漏れ日が優しくきらめいた。背後の切り立った岩山には、子どもが通れそうな細い亀裂が縦に走っている。途中に落ちそうで落ちないふたつの岩が挟っていた。

ああ、なつかしい。なぜかそう感じた。

そう感じたのは、岩が私をなつかしがっているからだ。頭の中にくすくすと岩が笑う気配がする。

……誰かに呼ばれたような気がして振り向くと、侍姿の男の人が走って来る。

『三郎!』

記憶の中で私は、その男の名を呼んだ。場所はここだ。縦に亀裂の入った切り立った岩の前に、私はいた。私はまだ子どもで、あざやかな朱色の着物を着ていた。

『姫! また、ひとりでこんな場所に来て、奥方様に叱られるで』

『うん。でもね、この岩とお話していたの。どうして、ここに割れ目があるのって』

『それで、何て言うてはるんや』

『ずっと前から、開いているんですって。風が吹くと、すうすうするんですって。ねえ、この隙間を埋めてあげたら、すうすうしないんじゃないかしら』

幼い提案に、三郎の眉が下がった。

『なるほど、じゃあ、この岩で隙間を埋めてみるか』

三郎はそう言って、手近にあった岩を蹴り上げた。まるで蹴鞠を蹴ったみたいに。岩はきれいな放物線を描き、岩壁と岩壁の間の隙間に吸い込まれた。

『わあ、すごい!』

『ありゃ、途中で挟まってしもうた。もうひとつやったら、落ちはるやろか』

京風のアクセントでひとり言ち、もう一度、さっきよりも大きい岩を蹴り上げる。同じ放物線を描くも、さっきよりも上の部分で挟まり、岩は止まった。

『ありゃりゃりゃ。やっぱあかんか』

『あはははは』

三郎の言い方がおかしくて、腹を抱えて笑った。

『すうすうするのは、仕方ないやろ。堪忍してもらおう。そろそろ帰ろか、姫』

三郎が振り返って、手を差し出した。はかまをはき、刀をさしているだけで、私が知る三郎と同じ三郎だ。

「どないしたんや?」

はっとして、我に返った。

作業着姿の三郎が目の前にいる。あと一口分のおにぎりを持ったまま、私は固まっていた。

「ううん。何でもない」

「……岩が何か言うてはるんか」

何でもないことのように、三郎が言った。視線をそらして、トウモロコシの天ぷらを口に入れる。

「……」

岩と話せることをこんなにも自然に受け入れてくれることに、私は驚いた。

「うん。なつかしいって」

なつかしいと、岩は言った。それは確かだ。

さっき見た風景は、夢の続きだったのだろうか。幼い着物姿の私は岩と話をしていた。

「そっかあ。そうかもしれへんな」

三郎が空を見上げた。その横顔の唇の端がきゅっと引き締まる。それは、笑っているようにも見えた。

「天狗の蹴上げ岩(けあげいわ)や」

「天狗?」

私は思わず聞き返した。蹴ったのは三郎じゃなかったの? そう言いそうになって口をつぐんだ。そんなはずはない。あんな大きな岩を人間が蹴り上げられるはずはない。

私はスマホを取り出して、その岩を撮った。シャッターを切った瞬間、岩が照れ臭そうにふふふっと笑った。

「さて、ごちそうさん。天ぷら、うまかったわ。そろそろ帰らんとやろ」

あっさりとそう言って、三郎は立ち上がった。

「どっから来たの。郷原駅でええのん?」

「あ、うん」

促されて、しぶしぶと空になった弁当箱をリュックに仕舞った。三郎がてきぱきと、ピクニックシートについた砂をはらい、きれいに折りたたんでくれる。

そんなに早く片付けなくてもいいのに。

「……ありがとう」

心の中を読まれないように、お礼を言った。

郷原駅まではかなりの距離だった。上り下りの山道が続く。

けれど、車一台がやっと通るくらいの狭い道を下り、小さな駅舎が見えた時には、もう着いちゃうのかと、残念な気持ちになった。

よく知らない人とふたりきり。しかも、男の人と一緒なんて苦手なはずなのに、三郎とは不思議と気軽に話せる。

「ああ。ちょうどええみたいやな」

駅舎にかかっている時計を見て、三郎は言った。

目はいいみたいだ。時計があることはわかっても、針までは見えないから腕時計で確認する。あと十五分で、上り電車が来る時刻だった。

別れがたいという感情を初めて知った。こんな気持ちになるのはおかしい。

歩きながら三郎は、自分のことになるとのらりくらりとはぐらかしてしまう。

『どこに住んでいるの』

『まあ、山の中やなあ』

『年はいくつなの?』

『いくつやったっけなあ。……忘れてしもうた』

そんな風にごまかして、白い歯を見せてニッと笑う。

結局わかったのは、森林組合の作業着はもらいものだということ。あちこちの山で仕事をしていること(林業関係の人だろうか)。手作りの料理を作ってくれる人はいないということくらいだ。

しかも、携帯電話も持っていないと言う。今時そんな人、いるんだろうか。この人はやっぱり私ともう会いたくないんじゃないか。そこに思いが至ると少しへこんだ。

ホームに並んで立つと、足元に濃い影がまとわりつく。朝見たミミズが直射日光を受けて干からびていた。

「きれいな雲やなあ」

三郎がまぶしそうにそう言って、空を見た。青い空に一本の白い飛行機雲。緑の木々にぬっとそびえる岩壁の側面。スマホを取り出し、空と山を写真に撮る。

ここから見上げる岩櫃山は、密岩神社から見た形とはまったく違う。それでも、その大きさを十分感じることができた。

カンカンカンカン……と踏切が鳴った。かすかに、でも、確実に電車が近付いてくる。このまま連絡先を知らずに別れて、後悔するのはもう嫌だった。

「あ、あの……」

ありったけの勇気を出して、三郎を見上げた

「どこに行けば、また会える?」

家でなくても、勤め先でも、コンビニでも、立ち寄りそうな場所があればどこでもよかった。可能性が1パーセントでもあれば。

「どこって?」

瞳が揺れる。意味がわからないという風に、三郎が聞き返した。

「三郎に、また会うにはどうすればいい?」

「……」

「また会いたいの」

こんなにも誰かに執着したのは、初めてだった。

驚いたように見開いた目を、三郎はゆっくりと細めた。また、からかわれるかもしれないと、心臓がきゅっとつぶれそうになる。

三郎の向こうに見える電車の形が大きくなる。

「岩の写真って、まだ撮んの?」

のんびりとした口調で、三郎は言った。

「え? ……うん。まだちょっとしか撮ってないから……」

「じゃあ、明日、昼過ぎに車で迎えに行くわ。どこがええ?」

「……連れて行ってくれるの?」

聞き返すと、三郎は唇の端を歪める。苦笑しているようにも見える。

「車があった方がええやろ。それに、うっかり強い気の岩に近付いたら、あんたぁ、またぶっ倒れるかもしれんから、気ぃが気ぃでないわ」

「そんなこと……」

ないと断言できない。もう二度も迷惑をかけている。

それでも、また会ってくれると思うと、胸にくすぐったい何かがわいてくる。

熱風をまといながら、ゆっくりと電車がホームにすべりこむ。

「じゃあ、明日午後1時に、原町駅のぐんまちゃんの前でいい?」

「ああ。ええよ」

気軽な感じでうなずく三郎に、私はほっとして笑顔になった。

プッシュッと電車の扉が開く音。スライドした扉の中に、軽い足取りで飛び乗った。もう一度礼を言おうと、ふり返って三郎と向き合った。

電車の床が高い分だけ、目と目が近い。冷房の風が、ドキドキと音を立てる心臓に、落ち着けと告げている。

「せや。悪いけど、他の人は連れて来んでくれるか」

悪びれる風もなく、三郎は言った。ちょっと、冷たい言い方だったかもしれない。

「え?」

「ふたりきりならええってこと」

真顔でそう続けた三郎に、真意を問う暇もなく扉が閉まった。くらりと電車が揺れ、慌ててポールにつかまる。頬が火のように熱い。

もう一度三郎の姿を見ようと後方の車窓に目をやると、ホームにはすでに人影ひとつなかった。

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