5.岩櫃落城伝説1


郷原(ごうばら)駅のホームに降り立つと、これでもかと焼き付くような夏の日差しが降りそそいだ。無人駅で降りたのは、私と赤いリュックサックを背負ったおばあさんだけだ。

見上げると青い空の下に、切り立った岩山の側面が見える。町のシンボル、標高八百二メートルの岩櫃山には、戦国時代に真田幸村の祖父や父が上州攻略の拠点とした城があった。難攻不落と言われた岩櫃城、ごつごつとした岩肌がそびえるその様は、来る者を拒んでいるようだ。

小さな駅舎があるが、おばあさんはその反対側へホームに沿って歩いていく。駅舎を通って行くよりも、岩櫃山に向かう道に近い。

足元にミミズの死骸が干からびている。死骸に群がるアリが、力を合わせて引っ張っている。その脇に、頬を伝わった汗がぽたりと落ちた。

「あっつ……」

まだ午前中だというのに、一瞬で汗が噴き出した。猛暑日の天気予報だった今日は、これからますます気温が上がるだろう。

駅舎の中にかかっている時刻表の看板で、帰りの電車の時刻を確認した後、おばあさんの赤いリュックを追いかけてホームの端まで歩いた。ホームの脇の段差を降り、車一台通れるだけの道を山に向かう。

腰の曲がったおばあさんは、案外歩くのが速い。程よい距離感を保って、背中を追いかけた。

この間山で迷った時の反省をふまえて、リュックサックには、水筒とおにぎり。麦わら帽子にUVカットの長袖のパーカーで、日焼け予防の対策もばっちりだ。

ただ、この格好で中学校の同級生の男の子に会ったのは、予定外だった。

『あれ、妃芽ちゃんじゃね?』

小声で隣の女の子に話しかけた言葉を、私は聞こえないふりをしてうつむいた。今日は顔を隠す参考書も持ってきていない。

『本当だ』

あいづちを打ったのは、同じ女子高に進んだ同級生だ。

『妃芽ちゃんって、高校でもしゃべんないの?』

『う~ん。全然しゃべんないわけじゃないけど、大人しいよね。話しかけるなオーラ全開な感じ』

『ふうん。相変わらずか……』

男の子はそう言って、なぜだかほっとした顔をした。

中学校で初めて出会った男子からは、慣れるまでだいぶからかわれたものだ。運動が得意なこの男の子も、何度も話しかけてきた。うまく話せないでいると、影で文句を言われるようになった。

男の子から嫌われたはずなのに、なぜか女の子からも『お高い』『すかしている』と言われるようになった。聞こえるか、聞こえないかの悪口は、すべて聞こえないことにして、本の中に没頭した。岩の声を聞かないようにするのと同じで。

女の子がこっちをちらりと見た後、男の子の耳元に何かささやいた。ニヤリと笑う唇の端から逃げるように、別の扉から郷原駅のホームに飛び出した。

美紅と涼くんが一緒でなくてよかった。どんどん細くなる頼りない道をひとりで歩きながら思った。

朝、美紅が友達と高崎に買い物に行く約束をしていたと言い出した時には、かなりムッとしたけれど。

『ええ~。早く言ってよ。もうおにぎりと水筒用意しちゃったのに』

『ごめ~ん』

文句を言った私に、美紅は手を合わせて謝った。

『じゃあ、また別の日にしようか』

『いいよ。いいよ。写真だけ撮って来てよ。おにぎり作っちゃったんだしさ~。涼くんと行って来なよ』

そう言って、美紅はにっと笑った。

まだお転婆だった頃の私を知る涼くんは、気軽に話せる唯一の男の子だ。

涼くんが中学一年生の時、三年生を殴って問題になったことがある。殴った原因を、涼くんは決して言わなかった。でも、それが私に関係しているのは、たぶん間違いない。

ふたりで行くのは気が引けるし、美紅なしで家にいるのも気まずい。やっぱりひとりで来て正解だった。

涼くんは、私の悪口を聞いた途端殴りかかることはもうしないだろうけど、露骨に嫌な顔はしただろう。嫌みのひとつも言うかもしれない。

いつの間にかおばあさんの背中は見えなくなった。ぽつりぽつりとあった家が途切れ、川沿いの小道は舗装が途端に悪くなる。木陰でいく分涼しくなった風に励まされ、登り坂を進んでいく。

『一瞬不安になりそうな道だけど、まっすぐ行けば正解だから』

昨夜、お父さんが道を教えてくれた通り、しばらく進むと再び集落に入った。

古谷(こや)という集落の集会所の隣に、岩櫃登山口の駐車場があった。十数台停まれそうな駐車場に、車は一台だけだ。

案内板を見ると、まっすぐ進むと登山口、それから、真田幸村の父・昌幸が武田勝頼を迎えるために三日で建てたと言われる潜龍院(せんりゅういん)の跡がある。お父さんのおすすめスポット密岩(みついわ)神社は、左の小道を上がるようだ。

背中にびっしょりと汗をかいていた。リュックから水筒を取り出し、冷たい麦茶を口に含む。

「よし」

じりじりと照り付ける日差しに負けないように、一言気合を入れた。

小さな看板を目印に、神社を目指した。舗装をした農道は、思ったより坂がきつい。一歩踏み出す足がだんだん重くなる。

右に折れる小道は、ますます細く険しくなった。はあはあと、息が切れる。踏み出す足の先に、額からこぼれた汗が落ちた。

「わあ!」

登り切った坂の先に、小さな赤い屋根の社があった。神社と呼ぶには小さすぎるその建物の先に、圧倒されるほどの岩山が視界いっぱいに広がった。

その瞬間、暑さを忘れた。

この間、お父さんの運転する車の中から岩櫃山を眺めた。その時も力強く美しい山だと思ったけれど、この密岩神社から見上げる岩壁には圧倒される。どどーんと圧倒されて、身動きが取れなくなるくらいに……。

どどーん。

何かが打ち破られるような大きな音が聞こえた。頬をかすめて何かが風を切った。ひゅん、ひゅんと、軽い音を立て足元に突き刺さったのは、弓矢だった。

「……え?」

『逃げなさい!』

女の人の声が頭の中に響く。密岩神社の社があった辺りに着物姿の女性が立っていた。

『早く! 敵に姫を渡してはなりませぬ』

……いつの間にか、炎に囲まれていた。城が真っ赤な炎にまかれ、がらがらと音を立てて崩れる。怒声と悲鳴で、頭の中が割れるように痛む。

思わず目を閉じてしゃがみこむ私の肩を、誰かが支えた。

『奥方様は……?』

男の声で、奥方と呼ばれた女性はにこりと笑った。美しい切れ長の瞳が優しく揺れる。

『私のことはかまわず……、城虎丸(じょうこまる)と姫を逃して……』

それが永遠の別れになることを悟った。抱きかかえられた身体がふわりと浮き、その人から離れる。

「母上様!」

思わず叫んでいた。その人が母だと、どうして思ったのか。

『姫を、助けなさい。いいですね』

力強い腕の男に、その人が言った。その気迫に黙るしかなかった。

数人の男たちに守られ、城から離れて山に分け入る。ガラガラと建物が崩れる音。振り返ると、炎が空を赤く燃やしていた。熱を帯びた風がこっちに向かってくる。

炎の色の旗に、六文銭の模様が揺れる。全身に震えが走った。

「母上様!」

思わず走り出そうとする私の身体を、誰かが後ろからぎゅっと抱きしめた。

誰かが支えてくれている。肩にふれる手のひらの温かさで、震えがほんの少しだけおさまった。

「大丈夫か?」

低い男の声に、我に返る。

「城が燃えて、母上様が……!」

「それは、夢や。安心せえ」

「……夢」

目の前に男の顔があった。……三郎だった。

辺りは火の海ではなく、高く切り立った岩の真下にいた。木々の深い緑が、直射日光を遮ってくれている。

「……どうしてここに?」

そこは、密岩神社とは全く別の場所だった。

「あそこはやばい場所や。パワースポットには違いないが、あんたぁには力が強すぎたんやろ。せやから、山のふもとまで避難してきたんや」

間延びしたイントネーションで『あんたぁ』と呼ばれたことでほんの少し落ち着いた。この人の『あんたぁ』は、どこかなつかしい気がする。

「……六文銭の旗が見えた。あれは、岩櫃が見せた幻影だったの」

誰に言うでもなくつぶやいた。言葉にしたら、納得した。

この山で四百年以上前に戦があった。岩櫃のあの巨大な岩肌は、それを見ていたのだろう。日本一の兵と言われた武将、真田幸村のお祖父さんだか、お父さんだかが、この城を攻め落とし、上州侵略の拠点とした。そのことは、この町に生まれた子どもなら一度は聞いたことがある。

けれど、真田に攻め落とされた側がどうなったのか、知る人は少ない。

密岩神社から見上げた圧倒的な存在感の岩櫃山。心を閉ざす間もなく、映像が飛び込んできた。『あそこはやばい場所や』と、三郎が言うのも納得だ。

「まだ、震えとる。顔色も悪いな」

心配そうに顔をのぞき込む三郎と目があった。

「ほれ。これでも、飲みや」

「ひゃっ」

頬に冷たいものが触れ、思わず変な声が出る。

「何?」

「レモネードやて。何か飲んだ方がいいかと思って、買うてきたんや。ほれ、ちょいとそこに道の駅があったやろう。おすすめ商品らしいで」

目の前に差し出された紙コップに戸惑う。いつの間に買って来たんだろう。近くの道の駅は、てんぐの湯っていう温泉がある道の駅のことだろうか。家族で遊びに行ったことがある。でも、ここからそんなに近いのかしら。

「……ありがとう」

水滴の滴るコップを手にする。ストローで啜ると、甘酸っぱく冷たい液体がのどからお腹の方まで染みわたってくる。

ほっと息を吐くと、さわやかなレモンの香りが残った。

「でも、どうして三郎がここに……?」

恐る恐る顔を見上げる。無造作に後ろで結んだ髪。森林組合と書かれた作業着。三郎はこの間会った時のままの姿だった。

「わしは、あちこちの山に来とるんや。山に変わったことがないか、見守るのがわしの役目やから。それにしても……」

三郎は、切れ長の目をかすかに下げる。

「山の中で二度も倒れている子は、初めてや」

「あ、すみません。また、迷惑をかけちゃって……」

私は思わず頭を下げた。頬がかっと熱くなる。

「かまへん。かまへん。これが仕事やから……」

三郎の渇いた笑い声が、山の中にとけた。その声を聞くと落ち着く。どうしてそんな風に思うのか、戸惑う自分がいる。他人と話すのは苦手なはずなのに。

「あ、あの……」

ありったけの勇気を出したら、声が裏返った。さて送って行くと、相手が言いださないうちに。

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