4.大場の七不思議伝説4


「大場(だいば)、……三郎?」

伝説の主人公の、若君の名前だ。

「ここでたまたま出会った人が三郎なんて、出来すぎているよ。きっとこの話を知っていて、咄嗟に嘘を吐いたんだよ」

「なんで、嘘を吐く必要があるのよ」

美紅の言葉に、ムッとして言い返した。

「例えば、犯罪者で山の中に隠れているとかさ」

「そんなはずないでしょ。犯罪者だったら、私のことを助けてくれるわけないじゃない」

変わった人だったし、軽い印象だった。でも、悪い人ではなかった。岩と話をしても不思議じゃないって言ってくれた初めての人なのだ。

「まあ。妃芽も疲れただろうから、そろそろ帰ろう」

お父さんが間に入って、車に促した。

「ここの調査はまた後にすればいいよ。今度この辺の土地の人と回ってみるから」

森から出ると、山の中に軽自動車が場違いな感じで停まっていた。

後部座席に乗り、『いまがわ新聞』をぼんやりと眺めていて気が付いた。

七不思議のおおよその場所を示す地図にある『めくら神』と『独呑の井』の印。車を停めた場所から、少し下った山際に『めくら神』がある。崖から落ちて山道を登ったから、おおよその位置はあっている。

けれど、『独呑の井』はもっと山の上にある。三郎は、ひとりでどうやって私をそこまで運んだのだろうか。

荒れた道路を軽自動車は、軽くタイヤをすべらしながら走り出した。だんだん、冷たい空気が前方から流れてくる。

地図が間違っているのかもしれない。次に会った時に聞いてみればいい。

拾ってきた大きな黒い羽根を指でつまみ、私はくるりと回した。その時は既に、もう一度会えると信じていた。

集落に入ると、細い川と並行するように、車が来た道を下って行く。後ろ髪を引かれる思いで、一度振り向いた。

橋の手前のゆるやかなカーブの途中に、大きな岩があった。歩道の脇に唐突に。岩の上には小さな社が祀られている。そこから、しくしくと泣いている声がかすかに伝わった。

「あ、あの岩、寂しがっているのかな」

思わずつぶやくと、お父さんがバックミラー越しに視線をよこした。

「何? 妃芽ちゃん、何か言った?」

「あ、ううん。い……、イワナがいそうな川だなって……」

美紅の問いに、咄嗟にそう言ってごまかした。

「ああ。いるだろうね。これが今川だよ」

お父さんがそう説明した。『いまがわ新聞』は、この川からとった名称なのか。

もう一度そっと後ろを気にして見た。もう岩の姿は見えなかった。あの岩はなぜ泣いていたのか。ぼんやりとしていて、心を閉ざすのを忘れた。

さわさわと山の木を揺らす風の音が聞こえる。岩殿(いわどの)の荘厳(そうごん)な岩肌が優しく見守ってくれているような気がした。

久しぶりの感覚を感じながら、目を閉じた。

「また、お昼おそうめん? もう飽きたんだけど~」

リビングのテーブルに宿題のドリルを広げながら、美紅が文句を言った。

カウンターキッチンのコンロの上で、大ぶりのなべにたっぷりのお湯が沸騰している。まさにそうめんの袋を開けようとしていた。

「作ってもらうのに、文句言わないの」

「おれ、妃芽ちゃんの手料理に文句なんてないよ。豚肉とナスのつけ汁、最高! でも、ミョウガは入れないでね」

美紅に注意すると、代わりに涼くんが調子のいいことを言う。

「ミョウガを持ってきたのは、涼くんでしょ。しかも、こんなにたくさん!」

「だって、食い飽きてるんだよ」

美紅の対面に座っている涼くんが、ドリルから顔を上げた。

「っていうか、どうして涼くんがここで宿題をしているのかな」

「だって、うちエアコン調子悪いんだもん。どうしても暑かったら、図書館に行くか、妃芽ちゃんちに行けって、父ちゃんが」

じゃあ、図書館に行けばいいじゃんというひとり言は、辛うじて飲み込んだ。

近所に住むふたつ年下の涼くんとは、お父さん同士が同級生ということもあって、小さい頃から家族同然の付き合いだ。お母さんが病気で亡くなってからは、涼くんのお母さんにもずい分お世話になった。

それをいいことに、夏休み中、涼くんはうちに入り浸っている。

「まったく、父ちゃんも母ちゃんも涼しいところで仕事してるんだもん。いいよなあ~。俺なんか受験生だっていうのに、ほったらかしでさ~」

「いいじゃん。うちに来ているんだからさ~。文句言わないの」

美紅が笑ってなだめた。

そうめんを鍋に投入し、まな板の上でミョウガを刻む。涼くんのおばあちゃんの家で栽培しているミョウガは、さわやかな味で私は好きだった。

「涼くん、自由研究何やるか決めた?」

「全然。そんなの八月の最後の週にやりゃあいいだろう?」

「へへ。私はもう始めているもんね」

「マジで? 美紅のくせに生意気だなあ」

中学生ふたりのやり取りを聞きながら、そうめんをぼんやりと眺めた。細いメンが生き物のように熱いお湯の中で踊っている。

「あのね。町の岩を調べているんだ。お父さんの仕事で仕方なくなんだけどね……」

「へええ。おれもそれでいいや。一緒にやったってことにしてくれよ」

「ええ? だめだよ。苦労してやっているんだから」

苦労しているのは私とお父さんだろうに……。そうめんを一本、さいばしでつまみながら、私はため息を吐いた。

ちょうどいい固さに茹であがって、シンクのざるに熱湯ごとまける。もわっとした湯気が、熱気と一緒に視界をさえぎった。はあ、と湯気に負けないくらいの大きなため息がこぼれる。

一昨日、お父さんが森林組合に確認すると、若い関西弁の職員はいなかった。七不思議の伝説のある山は隣町との境界だから、もしかしたら隣町の森林組合かもしれない。そう思って問い合わせてみたけど、やっぱりいなかった。

『次いつ会えるか、わからへんし』

そう笑って言った三郎は、やはり私と二度と会うつもりはなかったのだ。あの時、作業着を洗濯してから返すからと言って、無理やりでも連絡先を聞けばよかった。

後悔は、そうめんを冷やす蛇口の水のように、いつまでも流れて戻ってこない。

「妃芽ちゃん。いつまで冷やしてるの? 水出しっぱなし!」

「あっ!」

美紅に指摘されて、急いで水を止める。ぱぱっとザルの水を切ると、用意してあった大皿にメンを移した。

「どうしたんだ。妃芽ちゃん、今日ぼおっとしてないか?」

「……たぶんね、恋わずらいだよ」

「何だって~!」

ふたりの内緒話らしい会話は、しっかり耳に届いていた。

「違います」

不機嫌な声で、テーブルの上に大皿を置いた。ドンと、思ったより大きな音が響く。

「ほら、宿題片付けたら、運ぶの手伝って」

「何、妃芽ちゃん、いつの間に彼氏ができたの? どこのヤツ? 高校生?」

涼くんが矢継ぎ早に質問をしてくる。

「彼氏なんかできていません!」

「そう。彼氏とかじゃないの。妃芽ちゃん、女子高だし、こんなに内気だもん、彼氏なんかできっこないよ。中学校卒業してから、男子と一言も話していないと思うよ。通学電車の中でも、話しかけるなオーラ全開で参考書とか開いているんだよ、きっと」

美紅が憎まれ口をたたきながら、冷蔵庫から麦茶を運んでくる。

なんでこの子は、電車内の様子を見てもいないのにわかるんだろう。一言も話していないわけではないけれど、話しかけられないように参考書に顔をうずめているのは確かだ。

「じゃあ、何だよ。恋わずらいって」

シャーペンを筆箱にしまい終えた涼くんが、ムスッとした顔でダイニングテーブルの席に着く。

「この間、妃芽ちゃん、山の中で迷子になっちゃってさ。その時助けてもらった人に、嘘吐かれてへこんでいるんだよね」

「美紅!」

思わず怖い声が出た。テーブルの上に置いた空のグラスが、ごとりと音を立てる。

「はあい。ごめんなさい」

美紅がペロリと舌を出して謝る。

「別に、へこんでなんかないし、それに嘘吐かれたわけじゃないもの。……森林組合っていうのは、本人が言ったわけじゃないし……」

三郎は、森林組合の作業着を着ていただけだ。すっかり思いこんで、私が勝手に安心していたのだ。

「で、どっから恋わずらいが出てくるんだよ」

「だってさ、山の中で危ないところを助けてくれるなんて、それだけで運命的じゃん? 妃芽ちゃん、男の人のメンエキないからさ」

「なあんだ。作業着で山の中にいるなんて、おっさんだろ?」

「涼くんは、あまいなあ。恋に年なんて関係ないの!」

ふたりの耳障りな会話を打ち消すように、ミョウガたっぷりのつけ汁をテーブルの上に置いた。

「うるさいなあ。つべこべ言っていないで、黙って食べなさい!」

「……はあい」

ふたりは、目を見合わせて肩をすくめる。

ずずずっ、ずずずっと涼くんが豪快(ごうかい)にメンをすする音。お昼の時間帯のテレビは、かき氷特集。はしゃぐアイドルの声。庭の木に止まっているのか、ミンミンと響くセミの声。

そうめんの薬味は、やっぱりミョウガに限る。スーパーでは、二、三個しか入っていないのに百円とかするから、涼くんのおばあちゃんの家のミョウガをもらえてすごくラッキーだ。

「おつゆ、お替りする?」

涼くんの手にしているお椀の汁が、三分の一に減っているのを見て声をかけた。

「サンキュ」

ニカッと笑みを見せて、涼くんがお椀を差し出す。

「美紅。明日なら自由研究付き合ってあげるから、そろそろ次も行かないと間に合わないでしょう」

大人げなく怒ったことを反省して、美紅に話しかけた。涼くんの汁も、ミョウガ少なめ豚肉多めにしてあげる。

「うん。お父さんのおすすめは、やっぱ岩櫃山だって!」

「平日だからお父さん付き合えないし、岩櫃山なら電車で行けるもんね」

「何? 遊びに行くの?」

涼くんが、会話に割り込んで目を輝かせた。

「ううん。自由研究よ。だから、涼くん。明日はうち留守だからね」

「じゃあさ。俺も行く!」

「涼くんは、受験生でしょう? 遊んでいる場合じゃないよ」

「ええ! 一日くらいいいじゃん」

「だめです! おばさんに怒られちゃう。明日は図書館で勉強しなさい」

頬を膨らませた涼くんに、私は年上っぽく言い聞かせた。

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