3.大場の七不思議伝説3


知らない男の人とふたりでいることは、慣れていない。思わず目をそらすと、さっきまで寝かされていた場所に、男のズボンの作業着と同じ色の上着が置いてあった。

「あっ、これ、すみませんでした」

急いで上着を拾い上げて、砂を落とした。モスグリーンの作業着は、草露に濡れて湿っている。

「かまへん。かまへん」

「でも……、洗濯して返しますから」

「ええよ。次いつ会えるか、わからへんし」

痩せているTシャツ姿の男は、そう笑って手を出した。

「……」

自分の汗がついているかもしれない上着をそのまま返すのは気が引けた。けれど、そう言われれば、渡すしかなかった。

この人は私に特別興味がなく、もう会うつもりはない。寂しいようでもあり、それでいて、居心地のいいことでもあった。

長めの髪を後ろで無造作にしばっている男の上着には、『森林組合』と刺繍されている。

「この山に人が来るなんてめったにないことやし、驚いたけど、元気そうでほっとしたわ~」

「すみませんでした。迷惑かけて……」

「別にかまへんけど、何事もなくてよかったわ。……あそこはやばい場所や。あの岩は、いつも怒っているからな」

「え? 怒っているって、わかるんですか?」

男の言葉に、思わず聞き返した。あの岩は怒っていた。怒りに満ちた低い声を思い出してぞっとした。

「ああ」

「……ひょっとして、岩と話ができるんですか?」

「いや。わしは、話なんてできひんよ」

軽い口調で男は言った。

「……そうですよね。ごめんなさい」

変なことを口走ってしまったのを後悔した。岩と話せるなんて言ったら、また白い目で見られる。

「けど、なんとなくはわかる。この『独呑の井』は、慈悲深い岩や。こいつのお陰で、何度助けられたかもしれん」

男はそう言って、平らな岩の表面をなでる。岩がくすくすと笑った気がした。

「ところで、あんたぁ、どこから来たんや」

「あの、ダムのプラントヤードってところに、父と妹と来たんですけど、……私だけはぐれてしまって」

「ああ。あそこか。いいわ。案内してやる」

「本当ですか?」

男が背中を向け歩き出した。森の中のけもの道を、器用に見つけて下って行く。

「ありがとうございます!」

慌ててその背中を追いかけた。森林組合にお勤めだけあって、この辺りの山に慣れているのだろう。

「あの、お名前聞いてもいいですか」

「名前か。三郎って呼んでくれればええわ」

「三郎さん?」

「三郎さんやのうて、三郎や」

三郎と名乗った男は少しだけ振り返り、唇の端に笑みを見せた。

「昔、妹みたいな子に、そう呼ばれてたんや。あんたはちょっとその子に似てる」

「……はあ」

初対面の男の人に、いきなり呼びつけは気が引ける。けど、そう言うなら仕方ない。どうせもう会うこともないんだし。

台風で倒れたのか、木が倒れて前方をふさいでいた。三郎は太ももほどの高さの木を、ひらりと飛び越えた。

「ほれ」

木の向こう側から、手を差し出された。ひとりでまたぐには大きすぎる高さの木。恐る恐る手を出すと、思いがけない力強さで握り返される。低いところにある枝に足をかけ、三郎に引っ張ってもらって、何とか木を乗り越えた。

「あ、ありがとう。三郎」

そう言うと、三郎は白い歯を見せてニッと笑った。

「さっきの話やけどなあ……」

坂道をかなり下った後、いく分歩きやすい道になって、隣に並んで歩く三郎がふいに言った。

「岩っていうのは、ずっとそこにあるやろ? 人間の寿命なんかより、はるかに長くそこにおる。人間からしたら神の領域くらいの年月や。だから、でっかい岩は信仰の対象にもなるし、畏れの対象にもなる。人間の思いが岩にのり移って、怒ったり悲しんだり、喜んだりするのかもしれん」

「人間の思い……?」

「ああ。だから、岩が話をしても不思議やない。わしにはそんな力はないけど、ずっと山の中にいて誰とも話をしないでいると、何となく岩の思っていることがわかるようになる気がするんや」

「そっか……」

渇いた砂に水がしみ込むように、言葉が胸の奥に届く。

今までそんなことを言う人はいなかった。嘘つきだと言われ、信じてもらえない。自分はどこかおかしいのかと、ずっと心を閉ざしていた。

「それに、今まで何人か、岩としゃべっとる子に会ったことあるし……」

「本当?」

立ち止まると、足元の土くれが割れた。

「ああ。……みんな、優しい子やったよ」

立ち止まって振り返り、三郎がそう言った。

その瞳は何の感情も映っていなかった。冗談を言っているのか。からかっているのか。それとも、本気で言っているのか。

それでも、いつだったか、こんな風に見つめ合ったことがあるような気がした。

「あの……、どこかで会ったこと、ない?」

気付いたら、口に出していた。

「……」

三郎が、ぽかりと口を開けた。驚いたようにも、呆れたようにも見える。けれど、瞳は少しも揺れなかった。

なんて馬鹿なことを聞いてしまったんだろう。頭の中のどこを探しても、この人に会った記憶なんてないのに。

「これって、口説かれとるん?」

「な、何言っているんですか? 違いますよ!」

真顔で問い返され、全身の血がかっと頬に上がってくる。おそらく真っ赤に染まっているだろう頬を、手で隠した。

「あれ? ちゃうん?」

「違います!」

「なんや。難しいなあ……」

三郎が頭をかきながら背を向けて、森の一方に目をやった。

「今度のひめと会ったのは、初めてや」

「え?」

「ほれ、あそこや」

三郎が指し示したのと同時に、声が聞こえた。

「妃芽!」

「妃芽ちゃん!」

明るく光の差し込む方向から、なつかしい声がする。

「お父さん! 美紅!」

声の方向に走り出した。高い木々の森を抜けると、夏の日差しが出迎えた。

「妃芽。心配したんだぞ。どこまで行っていたんだ」

「ごめんなさい。ちょっと迷っちゃって。でも、森林組合の人がここまで連れてきてくれたの」

「森林組合?」

お父さんが、怪訝な顔をして森の方に視線を移す。

「あれ?」

今来たけもの道を駆け足で戻る。シンとした森の中、さっき三郎が立っていた辺りには誰の姿もなかった。

「誰もいないじゃん」

「さっきまでいたのに……」

誰かが踏んだ湿った草の上に、一本の大きな羽が落ちていた。緑がかった黒い羽根。思わず拾い上げて、空を見る。葉っぱ越しにわずかに見える青空から、きらきらとした木漏れ日が降りそそぐ。

「とにかく、無事でよかった。仕事に戻ったんだろう。お礼が言いたかったけど……、後で森林組合の方に聞いてみるよ」

お父さんがそう声をかけた。

「……うん」

「名前は聞いたのか?」

「三郎だって」

「苗字は?」

「さあ……。教えてくれなかった。……でも、関西弁で、若くて、髪の毛が長い人」

背の高さも、冷たい手の大きさも、切れ長の目がふいにやわらかく下がる笑顔も、しっかりと思い出すことができる。

「へえ、そんな人いたかな……。でも、若者の田舎移住って流行っているから、最近採用したのかもしれないな」

お父さんの言葉に、なぜかほっとした。

また会えるかもしれない。そう思って胸がはずむ自分に少しだけ戸惑う。

ちゃんとお礼をしなきゃいけない。菓子折りでも持って、お父さんと事務所に行ってみよう。お礼と、お仕事の邪魔をしちゃったお詫びをしなくちゃ。

「でもさ、苗字教えてくれないなんて、変じゃない? 本当は偽名だったりして」

美紅は、そう言ってにやりと笑う。

「どうして、そんなこと言うのよ」

「だって……」

美紅が持っていた紙を見せた。さっき飛ばしてしまった『いまがわ新聞』のコピーだ。

『独呑の井』の写真がある。母君と乳母に先立たれてひとり残された若君が、水がなくて困っていた時に、神に祈るとひとり分の水が湧き出したという。さっき見た岩は確かにこれだ。

そして、最初に見た黒いごつごつとした岩の写真が解説とともに載っていた。大きくなった若君が、退治した悪霊を閉じ込めたのがあの『めくら神』という岩だとある。

だから、あの岩はあんなにも怒っていたのだろうか。悪霊は今でも岩の下で出番を待っているのだろうか……。

七不思議の概略を読む途中で、目が止まった。

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