2.大場の七不思議伝説2


「プラントヤードだよ」

「プラントヤード?」

「隣町に八ッ場(やんば)ダムができただろう? ダムを作るときにここで掘った岩を使ったんだ」

お父さんが、そう言って空を見上げる。

青い空、緑の木々、そして、不自然に人の手の加わった巨大な土地にセミの声が響く。

「ここはまだ何にするか決まってないんだ。でも、何かにできないかと思ってさ」

「じゃあ、ここでフェスやろうよ。こんなに広くて、雰囲気あるもん!」

美紅のしつこい提案に、お父さんが苦笑いした。

「ここじゃ、駅から遠いって。駐車場も足りないし。電気も水道もないんだから……」

「そうかあ。……でも、本当に雰囲気あるね」

フェスができるとは思わないけど、神聖な場所という感じがした。大きな寺院の石段のような……。ふと視線を感じて振り向くと、風に吹かれて笹の葉が揺れていた。

「ここは七不思議の伝説にまつわる場所でね。それにからめて町おこしに使えないかと思っているんだ」

「七不思議って、学校の怪談的な?」

怖い話好きの美紅が目を輝かせた。

「いや。そういうんじゃないけど、不思議な話だよ」

お父さんは、ポケットから一枚の紙を取り出した。

渡された古びた紙は、三十年ほど前の日付の『いまがわ新聞』とある。本物の新聞ではなくて、有志の発行したコミュニティ新聞といった感じだ。

「ええと……、昔京から身分の高い女の人がここにやってきて、男の子を産んだんだね」

「ああ。その人たちにまつわる七つの不思議な場所の伝説なんだ。ほら、『乙鳥岩(つばめいわ)』とか、大きい岩もあるだろう?」

新聞には、カラーの写真も載っている。山肌一面が岩になっている『乙鳥岩』。母君と乳母が亡くなった後、ひとりきりになった若君がこの洞窟に住み、ツバメが食べ物を届けてくれたことから名づけられたらしい。

「岩カードに入れたいと思っているんだけど、……そこまで歩くのは大変そうだよなあ」

「うん。すごく遠いみたい」

簡単な地図が載っているが車で行ける道もない。山道をかなり歩くことになりそうだ。

「ええ! 歩くの嫌だ~! 見せて~」

美紅が私の持っている紙を奪おうとした途端、強い風が吹いた。私の手を離れた紙は、ひらりと空を舞った。

「あっ!」

「妃芽ちゃん。ごめん~」

「もう。美紅は……。拾ってくる」

十メートルほど離れた藪に引っかかっている紙を、私は追いかけた。

「妃芽。危ないから、取れなきゃいいよ。コピーもあるから……」

お父さんに、そう声をかけられた。車のドアを開け何かを探している。

「うん。でも、ごみになっちゃうといけないから……」

私はそう言って、藪をかき分けて行く。スカートの下の素足に、草が触ってざわっとした。

「今から行くの?」

「いや。今日は来てみただけ。実際に行く時には、もっと山支度をしないと……。クマも出るかもしれないし……」

「ええ~。クマがいるの?」

美紅とお父さんの会話を背中に聞きながら、紙に手を伸ばす。

「あっ!」

もう少しで手が届くと思ったところで、身体が揺れた。藪で見えなかった足元が、崖になっているのに気付かなかった。

「きゃっ……」

小さな悲鳴を上げた。どこにも頼るもののない感覚に心臓が縮こまる。

「……」

三、四メートル落ちたところで、やわらかなものが身体を受け止めた。目をあけると、優しいアマナの草が頬に触れている。

恐る恐る手足を動かしてみる。どこも痛いところはなかった。小枝にひっかけたのか、ふくらはぎに一本赤い線が走っているだけだ。

ほっとして身体を起こした。落ちた崖を見上げると、茂った草の中に自分の通った穴だけがぽっかりと空の青を映している。

「妃芽! 大丈夫か」

「妃芽ちゃん!」

ふたりが私を呼ぶ声が聞こえた。

「お父さん! ごめん。大丈夫」

上り返そうと、木の根っこを引っ張ろうとするが、足場が弱く土が崩れる。

「だめだ。上がれない」

やわらかな草の生えるくぼ地。左に小川、崖の右側が登り坂になっている。落ちた分、上れば戻れるのではないか。

「妃芽! 今下りるから」

「お父さん、ここからじゃ上がれないから。脇から回ってみる。ちょっと待っていて」

私はそう叫んで、右の登坂を上がり始めた。

動くと汗が頬を伝って流れ落ちる。木漏れ日はやわらかいけれど、じっとりとした湿った空気がまとわりつく。とりあえず、落ちた分は登らなきゃいけないと、足を動かした。

しばらく歩くと、やっと崖が背の高さになった。何とかしてよじ登ると、そこには背の高い杉の木々が広がっている。

シンと静まり返った森の中に、どこからか鳥の羽音が聞こえる。獣道もない中、足元の小枝がピシリと折れる。

「お父さん! 美紅!」

声が頼りなく響いた。後ろの方で、ピシリと音が聞こえる。思わず振り返っても、深い森が広がっているだけだった。

急に心細くなる。腕にクモの巣の糸が、湿気とともにまとわりついた。

だから、山は嫌い。思わず唇を噛みしめて、泣きそうになるのを堪えた。山は恐い。人間が簡単に立ち入ってはいけない場所だという気がする。

どうしてこんな目に合わなければならないの。もとはと言えば、美紅が紙を強引に取ろうとしたのがいけなかったんだ。あの子はいつもそうだ。わがままで自分勝手で、思ったことをいつも口にするのに、不思議と許される。明るくていい子だって、みんなから思われている。いつもその尻拭いをしているのは、私なのに……。

お父さんも、お父さんだ。どうして、お父さんの仕事に協力しなきゃいけないんだ。しかも、よりによって岩だなんて……。昔から岩に関わるとろくなことがない。

『ウソツキ! こいつウソツキだ!』

小学校一年生の頃、仲の良かった男の子から指をさされた。その子の声と、汚れたものを見るような目……。しばらく忘れていたのに。黒い感情が胸の中に渦巻くのを、首を振って追い払う。

気が付くと森を抜けていた。お父さんたちが待つ場所ではなく、まったく別の野原だった。開けた野原に、一本の太い幹の木に寄り添うように、ひとつの苔むした岩があった。その岩に見覚えがあった。

「あ、そうだ。『いまがわ新聞』だ」

さっき見た写真のひとつが、これと同じ形だった。

木々はそこだけぽっかりと口を開けて、岩に太陽の光がそそがれている。

『岩カードに入れたいと思っているんだけど、……行くのが大変そうだよなあ』

お父さんがつぶやいた言葉を思い出した。

さっきお父さんのことを一瞬でも恨んだ。お母さんが亡くなってから、ずっとひとりで私たちのことを育ててくれているのに。

罪悪感をぬぐい去るように、スカートのポケットからスマホを取り出した。圏外になっている。カメラモードにして、画面をのぞき込んだ。そっと触れると焦点が岩に定まる。

『偽善者だな』

頭の中に声が響いた。背中にぞわっと悪寒が走る。

『まわりにいい顔をしているのは、おまえだ。本当は、父親のことも、妹のことも恨んでいるのに』

「嘘よ!」

咄嗟に否定した。心を閉ざそうとしたが遅かった。

『正直になるがいい。心の中の怒りを吐き出せ!』

怒りに満ちた太い声。逃げようとしても、凍ったように身体が動かなかった。握った手のひらに汗がにじむ。

『……おれは、おまえを待っていた。千年も昔から……。ようやく仇が討てる』

岩から黒い闇が波のように押し寄せてくる。

こんなことが前にもあった。あれは子どもの頃だった。

幼稚園の頃まで、私は、美紅のように天真爛漫で、男の子みたいにおてんばだった。ちょっと変わった子だと言われていて、よく岩と話をして遊んでいた。大きな岩や、祀られてしめ縄の巻いてある岩は、時々私に話しかけてきた。

それがおかしいことだとわかった時から、ずっと心を閉ざしてきた。頭の中に直接話しかけてくるふいの声を聞かないように。

『ウソツキ!』

追いかけて来る幻聴と、恐怖に満ちた瞳。私は思わず目を閉じて、手で耳をふさいだ。

「ひめ!」

誰かに名前を呼ばれた気がした。

私の意識はそのまま真っ暗な闇にのまれた。

誰かが泣いていた。

うれしくて泣いているようにも、寂しくて泣いているようにも思えた。もしかしたら後悔しているのかもしれない。身を切られるような別れの辛さに、耐えているのかもしれない。

「気が付いたか?」

遠慮がちな声が聞こえた。

目を開けると、男の人の顔があった。切れ長の目の、色の白い男の人。同じ年くらいに見えるけど、きっと年上だ。そう思ったのは、彼のはいているズボンがお父さんの作業着に似ていたからだ。

やわらかな草むらに寝かされていることに気付いて、慌てて飛び起きた。

「あかん。急に動かん方がええで」

男が関西風のイントネーションで言った。のんびりとした声に、ほんの少し心が落ち着いた。指先に温かな血が通っていく。

さっきまでの場所と違っていた。山の中ということは変わりないけれど、落葉樹の木漏れ日が優しい。ツユクサの清楚な青が一面に広がる。

「驚いたで。こんな山奥に、女の子が倒れてるんやもん。……熱中症にでもなったかと思うて、心配したわ。あんたぁ、のど渇いてへんか?」

言われて初めて気が付いた。のどがカラカラだった。森の中を歩いている時から、そう言えば何も飲んでいない。

「ほな。あそこや」

うなずくと、男はにっこりと笑ってあごで指した。

「独呑(ひとりのみ)の井(い)って言ってな。不思議なもんで、ひとり分の水がいつも湧き出しておるんや。あんたに譲るから、飲みや」

男の視線の先には、岩があった。さっきの黒ずんだごつごつした丸い岩とは、一目見て違う岩だとわかった。ひと回り小さく、白っぽい。上部が平らになっていて、そこにお茶碗ほどのくぼみが見えた。

ほんのりと優しい光に包まれている。この岩は、いつも誰かを心配している。

私は立ち上がって、岩のくぼみを見下ろした。そこには本当にひとり分の水が湧き出していた。水道水でもミネラルウオーターでもないたまり水をいつもなら絶対口にしない。でも、その透きとおった水は、なぜだか抵抗がなかった。

手ですくって口に含むと、つま先や指先の毛細血管まで、水分が染みわたってくるような気がした。

ほっとして振り向くと、男と目があった。

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