1.大場の七不思議伝説1
『マイロックタウン』
数年前に突然降ってわいた言葉。観光PRのキャッチコピーらしいが、町内で見かけるのぼり旗に注目する人はほとんどいない。
その言葉が我が家の一大関心事になるなんて、思いもしなかった。この夏までは。
◆
「フェスやろうよ! フェス! 有名なロックミュージシャン呼んでさ、ババーンと二千人くらい入る会場でさ!」
軽自動車の助手席で、妹の美紅(みく)が無邪気に言った。中学二年生で、最近音楽にはまっている。私には理解できない種類の音楽を熱心に聞き、隣県のフェスに行きたいと言って、お父さんに反対されたばかりだ。
「有名なミュージシャン呼ぶのに、いくらかかると思ってんの? それに数千人も集まる会場なんてこの町にありません」
ハンドルを握るお父さんが苦笑いする。
「場所なんてどこでもいいんじゃん。みんな野外でやっているんだよ。この町、見渡す限り山しかないんだからさ。どどーんとだだっぴろい場所なんてそこら中にあるじゃん!」
「人がたくさん来るなら、駅の近くでないとだめだろう。それか、広い駐車場がなくちゃ……。それに、うっかりそんなに人が集まったら、トイレや飲食の場所を確保しないと、それこそ苦情の嵐だ……」
その混乱ぶりを想像したのか、お父さんがぶるっと肩を震わせた。
後部座席に乗っている私は、ちらりとお父さんをのぞき見た。頭の後ろの方に、最近めっきり白髪が増えた。
「なんだあ。ちぇっ。つまんないの~!」
美紅が足をばたばたさせると、古い軽自動車がガタガタと揺れる。
「ちょっと、美紅。暴れないでよ」
「だってさあ、他にすることないじゃん? 『マイロックタウン』って何やるの?」
注意する私の言葉には耳を貸さず、美紅は振り向いた。
「ロックには、『岩』って意味があるから、そっちじゃない?」
「そうなんだよ。うちの町は、かの有名な真田幸村(さなだゆきむら)が幼少期を過ごした岩櫃山(いわびつやま)。その他にもめずらしい岩がたくさんある。それに全国にほこれる偉人も数々いる。そういうロックな人物を掘り起こしてアピールするという……」
「つまんない。そんなだから、うちの町はぱっとしないんだよねえ」
「……」
仕事上無理やり覚えさせられた風のお父さんのセリフを、美紅はズバリと断ち切った。
「……それを言うなよ。だから、こうして頼んでいるんじゃないか」
バックミラーに映るお父さんの眉が気弱そうに下がる。
群馬県の谷間の町、人口一万人ちょっとの東吾妻町(ひがしあがつままち)。町役場に勤めるお父さんは、四月の異動で、福祉の仕事から観光の担当になった。
数年前、町を盛り上げようと始動した「マイロックタウン」プロジェクト。けれど、それは町民にほとんど浸透することもなく、全国的な知名度は相変わらずだ。
なんとかこのキャッチコピーを浸透させるべく、お父さんにはきついお達しがあったらしい。お父さんの前任者は、ストレスで休職しているという噂もある。畑違いの仕事に四苦八苦するお父さんを手伝うべく、娘ふたりは軽自動車に乗っている。
男手ひとつで私たちを育ててくれているお父さんが、鬱になって仕事を休むなんてことがあったら……、考えただけでゾッとする。
「見えてきた! あれが子持ち岩だよ」
お父さんが気を取り直したようにそう言った。橋を渡ってウインカーを鳴らすと、広くなった道脇に車を止める。
「ほら、撮影! ばっちり頼むよ」
車から降りたお父さんは、最近自費で買った一眼レフ望遠カメラを大事そうに抱えた。
二年前に作成された『岩カード』は、あんまりぱっとしなかった。『ダムカード』や『マンホールカード』のように、収集マニアが全国から押し寄せるかと期待していたのに。
何が悪いのかと喧々諤々の会議の結果、写真のクオリティだということになって、写真を撮ることだけが趣味のお父さんに白羽の矢が立ったのではないかと、私は思っている。
「うわっ! 暑い!」
美紅が車外に出た途端叫んだ。
夏休みになったばかりの日曜日。七月下旬の気候にふさわしく、じりじりとした太陽の光が肌を刺す。ミンミンミンミンとセミの鳴き声が、近くの木から響いている。
カメラのレンズが見上げるその先には、木々の葉から突き出した奇岩がそびえている。
「妃芽(ひめ)ちゃん、スマホ貸して」
美紅が私のスマートフォンでカシャリと写真を撮る。私のスマホなのに、妹の方が写真を撮るのが断然うまい。
「へえ。変な形の岩。……子持ち岩だっけ?」
『岩カード』を少しでも浸透させるべく、お父さんが苦肉の策で考えたのが、娘を使った口コミ作戦だ。美紅の夏休みの自由研究に、町内の岩を調べて学校に提出させて、先生や友達にも興味を持ってもらう目論見だ。美紅だけでは心もとないのか、高校生の私も手伝うはめになった。
「ほら、お母さんが小さな子どもを抱いているように見えるだろう」
深い緑の山から青い空に向かって、人の形のような岩が突き出している。その隣に、胸くらいの高さの岩が重なる。子どもを抱くようにも、背負っているようにも見える。
「……」
岩に見入っていた私は、慌てて目を閉じた。その母親の頭の部分から一瞬白い光が発しているような気がしたから。じわじわと脳みその一部に何かが浸透してくる。それを振り払おうと、握った手のひらに汗がにじんだ。動悸がする。頭の中に直接語りかけてくる何かを追い出すように、セミの声に耳をすませた。
クワンクワンクワンと耳に木霊する。セミは、これでもかと夏を告げている。
「なんかさあ。子どもを抱っこしているっていうより、拝んでいるようにも見えるね」
「そういう見方もあるな。……美紅も、岩の楽しみ方がわかってきたじゃないか。昔は街道を歩いただろう。場所によって変わって見える岩をゆっくり味わいながら通ったんだ」
「今は、車であっという間だもんね」
セミの声に混ざって、ふたりの楽しそうな声が聞こえる。
あの白い光がふたりには見えない。驚くことじゃなかった。小さい頃から、時々こういうことがある。
「妃芽ちゃん。大丈夫?」
声をかけられて、はっとした。
「顔が白いぞ。また貧血か」
お父さんが心配そうに、顔をのぞきこむ。
「ううん。大丈夫。ちょっと暑くて、立ちくらみかな」
やっとのことで笑みを作る。心配性のお父さんの悩みの種をこれ以上増やすことのないように。
「そうか。写真も撮れたし、じゃあ、次に行こうか」
「ええ! まだあるの? もう飽きたよ~」
「まだ、ひとつ目だろう。そう言わずに頼むよ」
車に乗り込む時に、そっと岩を見上げた。もう白い光は見えなかった。その代わり身を切られるように、心が痛んだ。こんな痛みをいつだったか味わったことがある。
逃げるように車のドアをバタンと閉めた。外部から遮断された空間に、ほっと息を吐いた。エアコンの風が気持ちを落ち着かせてくれる。思っていた以上に背中に汗をかいていた。
「今度は、左前方の岩を見てごらん」
車を発進させてすぐに、お父さんが言った。
「あれは、お化け岩」
「お化け? 幽霊が出るの?」
「そうじゃないさ。山から突き出た岩が何本に見えるか、数えてごらん」
「今は、四本。……あ、三本になった。……今度は二本!」
冷たい空気に気持ちを整えながら、はしゃぐ声を聞いていた。車窓の外を見る気にはならなかった。余計な声に気付かないように、心を閉じる。
「最後は、……一本だ!」
「お化け岩は、四本の岩が一直線上に並んで立っているんだ。だから、角度によって見える本数が違う」
「ふうん、おもしろいね」
美紅がめずらしく感心したような声で言った。
「……」
汗が引いてきて、ふうっと長い息を吐くと、誰かの視線を感じた。
顔を上げると、バックミラー越しにお父さんと目が合った。大丈夫かと、下がり気味の眉が問いかけている。きゅっと唇を引き上げ、無理やり笑みを作った。
「でもさあ、自由研究で中学校に出すより、妃芽ちゃんがSNSで拡散した方がいいんじゃないの」
「そういうの、私、苦手だから」
「妃芽ちゃん、全然女子高生っぽくないよねえ。きっと、みんなやっているよ~。スマホ買ってくれたら、私がやってあげるんだけどなあ……」
美紅ならうまくやれるだろう。明るくてクラスでも人気者だ。歯に衣着せぬ物言いのせいか、女子にも男子にも友達が多い。それに比べて、私は口数も少なく、クラスでも目立たないように過ごしてきた。
「スマホ買うのは、高校生になってからって約束だろう?」
うつむいた私を気づかったのか、お父さんがそう言ってたしなめた。
「ちぇっ。覚えていたか」
美紅が運転席に向かってぺろりと舌を出した。
川沿いの道を車は、どんどん山奥に入って行く。だんだん家もまばらになり、山の緑が濃くなる。
大柏木川原湯トンネルの手前を左折し、集落を抜けしばらく進むと、突然目の前の山が開けた。自然の風景ではない。人工的に作られた巨大な空間が、ぽっかりと口を開けていた。
「わあ~。すごい!」
美紅が歓声をあげるのと同時に、軽自動車がキキっと音を立てて停車する。
「ここが、今日の目的地。一度来て見たかったんだ」
お父さんが、車から降りて伸びをした。
私も車を降りた。山の中にいるせいか、さっきほど日差しを感じなかった。セミの声が圧倒的な力強さで、よそ者を飲み込む。
高い木々に囲まれた広大な自然の中、そこだけ土が不自然に固められていた。平らな土となだらかな傾斜が交互に規則正しく並んでいる。
「これ、何のために作られたの?」
そこには誰もいなかった。人の気配も感じない。けれど、何らかの意図をもって、山の中に人工的に作ったものだとはわかった。その何かは、神々しいものに守られるようにして、ひっそりとそこにあった。
1.大場の七不思議伝説1