30.潜龍院と大天狗の二択2


「あれ、お父さん。今日、残業じゃなかったっけ?」

「夕ご飯、お父さんの分ないよ~!」

リビングのドアを開けて、はあはあと息を切らせているお父さんに、私と美紅が声をかけた。

「この間の話、誰かにしてないよな?」

「は?」

「桜川あゆみが来るって話だよ。友だちに話したか?」

真っ先にお父さんの向かう先は、美紅だ。

「言ってないよ~。中学生は駄目なんでしょ。友だちに言ってもつまんないじゃん?」

「涼くんは?」

「え? おれ、今日誰とも会ってないし……」

「はあ~」

ふたりの言葉を聞いて、お父さんはへなへなと座り込んだ。

「よかった。間に合った~」

「どうしたの? お父さん」

私は息を切らしているお父さんに、冷たい麦茶の入ったコップを渡した。一気に茶色の液体をのどに流し込んだお父さんは、一息ついて肩を下ろした。

「桜川あゆみの事務所から、シークレットで進めるようにって、急に方向転換があったんだよ。昨日の今日でまいっちゃうよ。知っているのは、うちの課の数人と町長くらいだから、みんなに口止めに回ってさ。そう言えば、お父さん、昨日ここでも言っちゃったって気付いて……」

「お父さん。酔っぱらって、うれしそうだったしねえ」

美紅が、にやにやしながらダイニングテーブルにつく。

「まさかこんなことになるなんて、昨日は思ってなかったんだよ。エキストラ二百人集めることばかり考えていてさ。でも、事務所側は、桜川あゆみの名前を出したら、人が集まりすぎてパニックになるって心配してさ」

「つうか、親父は? 一番やばそうじゃん?」

涼くんが冷めた口調でそう言いながら、美紅の隣の席に座る。

「それは大丈夫。真っ先に電話で口止めしてさ、さっきも一杯おごって来たから。今晩、商工会の役員集めて盛大に披露しようとしていたんだってさ。もうぎりぎりセーフだったよ」

「なんだ。親父もおじさんも、残業じゃないんじゃん」

涼くんが鼻で笑いながら、スプーン山盛りのカレーを口に入れる。

「じゃあ、お父さん、夕飯いらないの? カレーしかないけど」

「いや。もう一本だけ飲もうかな。昨日の残りの枝豆と……、おっ! お父さんの好きなさしみこんにゃくのマリネがあるじゃないか」

冷蔵庫をのぞいたお父さんは、明日食べようと仕込んでおいたマリネを目ざとく見つける。

「っていうか、妃芽ちゃんには聞かなくてもいいの?」

美紅が正面に座った私の方を見ながら言った。

「妃芽は大丈夫だろう? SNSとかで発信するような娘じゃなくて、本当助かったよ」

お父さんの言葉に私は苦笑いした。友だちが少なくてほっとされることもめずらしい。

「それにしてもさ、桜川あゆみの名前を出さずにエキストラ二百人集める方が余程大変だよ。事務所の人もさ、都会と田舎の違いわかって言っているのかな」

ビールの缶と枝豆とさしみこんにゃくのマリネを自分で運んできたお父さんが、私の隣の席に座る。プシュッといい音が聞こえた。

「確かに、誰だか知らないけど芸能人が来て撮影するよっていう条件じゃ、人は集まらないかもねえ。しかも、着物と下駄で15分も山道歩かされるんでしょ」

「脅さないでくれよ、美紅。集まらなかったら、それはそれで事務所が怒りそうだ」

マリネのタコにちゃっかり箸を伸ばしつつ美紅が言った言葉に、お父さんがぶるっと震えてみせる。

「それ以外にも、いろいろと条件だされて大変なんだからさ。接待にあれこれ用意しろだとか、トップシークレットだからばれないように影武者をつけろとか……」

「影武者?」

アイドルには似つかわしくない昔っぽい言葉に、涼くんが反応する。

「つまり、桜川あゆみに似た女の子を準備して、ばれそうになったらその子を身代わりにするんだってさ。しかも、その子がおしゃべりだったり、SNSやったりしていると困るって……。今時そんな都合のいい女の子いないよなあ」

お父さんのぼやきの間、美紅と涼くんの視線がこっちに注がれる。

「いるじゃん」

「……?」

他人事のように麦茶を飲んでいた私は、美紅に指されて固まった。

「いるじゃん、ここに! 桜川あゆみに似ていて、おしゃべりじゃなくて、スマホも使いこなせていなくて、友達もいなくて、絶対秘密をばらさない天然記念物みたいな女子高生が!」

おそらくほめ言葉じゃないセリフに、思わず口に含んだ麦茶を吐き出しそうになる。

「そりゃあ、妃芽がやってくれればありがたいけどさ……」

「妃芽ちゃんじゃダメだろ! そんな大役、上手く立ち回れっこないよ」

お父さんと涼くんの言葉が重なった。

「いいと思うけどなぁ。……っていうか、そんな都合のいい女の子、妃芽ちゃん以外にいる? 美人な子ならぼちぼちいるだろうけど、そんな子が、桜川あゆみの代わりを頼まれたなんてことを、黙っていられるはずないじゃん!」

「……そうなんだよなあ。今時の女子高生にスマホでつぶやかれたら、もうアウトだもんな」

美紅の剣幕におされて、お父さんが困り顔でうなる。

「外部に漏らさなかったら、そんなに大変な仕事じゃないと思うんだ。向こうの事務所が大げさに考えているだけでさ。お父さんたちも一緒だし、お茶くみとか、それくらいしか仕事はないし……」

「いいよ。やっても」

自分のことなのにどこか外野にいた私は、そうつぶやいた。

「いいのか? 妃芽」

お父さんが目を丸くする。

「うん。お父さんたちと一緒にいて、お茶くみするだけでしょう? それで、桜川さんが見つかりそうになったら、私が出て行けばいいんでしょう?」

「おお! そう来なくちゃ……」

私がそう言うと、美紅はぱあっと顔を輝かせた。対照的に、涼くんの眉間に皺がよる。

「大丈夫なのか、妃芽ちゃん。そんな有名人の付き人みたいなことできるの?」

「わかんないけど、なんとかなるんじゃない? 潜龍院には一度行ってみたかったし」

たくさんのエキストラに混ざってテレビに出るよりは、裏方でお茶くみをしている方が気楽だ。

「はあああ。よかった~! 重大な問題がひとつ片付いた~!」

お父さんが大げさにため息を吐いた後、ごくごくとおいしそうに缶ビールを飲み干す。

涼くんひとりが、ムッとした顔をしてカレーをかき込んだ。

「妃芽ちゃん、本当にいいのかよ」

洗い物をしているところに、お皿をさげるのを手伝ってくれた涼くんが声をかけた。

「何が?」

「芸能人ってわがままそうだしさ。妃芽ちゃん、ああいう派手な人たち苦手だろう。おじさんの頼みだからって、無理に引き受けることないじゃん」

ぼそぼそと言う涼くんの顔を見ていたら、ふいに笑いがこみ上げてきた。

「別に、私がテレビに出るわけじゃないし」

「でもさ……」

「ありがとうね。涼くん、心配してくれて」

まだ不服そうな涼くんに私は笑いかけた。

今までの私ならば、きっと手伝おうなんて思わなかった。涼くんの言うとおり、人見知りの私は、知らない人と一緒に仕事なんてしようと思わない。

けれど、何とかなると思った。それは、不思議な変化だった。

きっと三郎は私をどこかで見ていてくれて、何かあったら助けてくれる。だから、三郎にがっかりされないように生きなきゃいけない。新しいことにも挑戦したらいいと思ったのだ。

「おれも、本当は手伝いたかったけど」

「涼くんは、受験生なんだから、しっかり勉強しなきゃ。一緒に通学するんでしょ」

ポンと肩を叩くと、涼くんはちょっと戸惑った顔をした。

「なんか、妃芽ちゃん、変わったよな」

「え? そう……?」

「でも、いいと思うよ。昔に戻ったみたいだ」

そう言って、涼くんはにっと笑った。

それから精力的に岩の写真を撮りに出かけた。真夏の太陽の日差しを浴びた岩たちは、厳しい環境の中でも涼しい顔をしてそこに鎮座している。

岩井のとんび岩、郷原(ごうばら)のガメラ岩、松谷(まつや)の夫婦(めおと)岩……。あちこち見て回るうちに、私は日焼けして少したくましくなった。心を開いて岩と語り合うと、山の木々の木漏れ日も、鳥のさえずりも、世界はこんなにも明るかったのかと気付かせてくれた。

三郎は姿を現さなかった。けれど、一度だけ三郎の姿を見た。矢倉の鳥頭(とっとう)神社の力石(ちからいし)に触れた時だ。

力石は、江戸時代の若者が力を試すためにかついだ大きな石だ。大きさの違うつるんとした丸い石が並ぶ。多くの若者がそれを持ち上げることを誇りとした。

どのくらい昔なのだろうか。三郎は腰に刀をさして、武士のような恰好をしていた。体格のいい大男に挑発された三郎は、楽々とそれを持ち上げていた。

長く形を変えずそこに留まる岩は、三郎にとっては友のような存在なのかもしれない。

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